“狂犬”と呼ばれた少女
リタとエリスが王立学院の女子寮に入寮してから数日が過ぎた。
いよいよ入学式を明日に控えた夕方。姉妹は食堂で、既に入寮していたユミアと共に夕食を摂っていた。入寮当初は新入生の入寮者が少なかったからか、所々に空きのある食堂であったが今は殆どの席が埋まっている。
最初は周囲から嫉妬の目線を向けられることの多かった姉妹であるが、満面の笑みで途轍もない量の夕食を口に放り込んでいくリタの姿に、そんな視線も和らいできているように感じていた。
寮の食堂の食事が美味しかったことは、リタにとっては非常に幸運なことであった。何せ、これからの数年間は、殆どこの寮で朝食と夕食を摂るのだから。
尚、王立学院は通常三年で卒業となるが、研究職や一部の専門分野を勉強する生徒は研究生として教員の手伝いをしながら、最大五年間学ぶこともある。余談ではあるが、この寮は一般生徒のみが入寮しており、研究生は別の建物となっていた。
「あ、ステインレーブル先輩……」
食堂の隅に桃色の髪のスタイルのいい少女の姿を見つけたリタは、思わず立ち上がる。だが、リタの姿を目に入れたマグノリアは逃げるように去っていった。
仕方が無いかと、席に座りなおすリタ。だが、いつの間にか隣にはエリスの姿が無い。
「ねぇユミア? エリス何処行ったの?」
「あれ、本当ですね……どこに行っちゃったんでしょう?」
どうせお手洗いだろう。エリスが食事中に席を立つのは珍しいが。そんなことを考えながらも、リタは食事が冷めては勿体ないと、目の前に大量に並んだ皿の攻略を再開するのであった。
食堂の食事は、決して高くはないが、貧乏学生には安くはない。鉄貨と呼ばれる銅貨の下の貨幣で四~七枚程度であろうか。部屋には簡易ながらも調理台も備え付けられており、自炊する生徒もいるようだ。相変わらず幸せそうな顔で次々に皿を空にしていくリタ。
それを眺めるユミアは、こんな量の食事を普段の夕食で注文するなんて流石は貴族だなと、少しずれた感想を抱いていた。
暫くして、リタが夕食を全て完食した頃には何処かスッキリした表情のエリスも戻ってきた。翌日の準備をすると言うユミアと別れた姉妹は、エリスの部屋に向かう。新入生の部屋は一階にある。その一番奥の角部屋がエリスの部屋である。穏やかな暖色の照明が照らす廊下を歩く途中で、上の階から悲鳴が聞こえた気がした。
「ねえ、エリス? 今のって悲鳴?」
「さあ? どっかの廊下に失禁した挙句、気絶した先輩でも転がってたんじゃない?」
「どんな状況!?」
エリスも変な冗談を言うようになったものだ。姉妹は笑いながら角部屋の扉を開けた。リタは我が物顔でエリスのベッドに腰掛ける。部屋は広々としている。上品な模様の落ち着いた紫色の壁紙が、いかにもお嬢様が通う学校の寮といった雰囲気だ。
「エリス軍曹、少々相談があるのだが……」
リタはおどけたような顔でエリスに声を掛ける。
「何?」
エリスは備え付けの台所で、お茶を淹れるためのお湯を沸かしながら聞き返す。
「私の気のせいじゃなければ、私の方見て、こそこそ“狂犬”って呼んでる人、居るよね?」
「……気のせいじゃないよ」
エリスの苦笑いに、リタは項垂れる。間違いなく、試験の様子を見ていた人達からそう呼ばれているのだろう。
(ま、仕方が無いかな? あそこで黙ってる訳にもいかなかったし。欲を言えばもっとカッコいいのが良かったけど)
エリスは、家から持って来ていた茶葉を蒸らしてから、ゆっくりとカップに注ぎリタに手渡した。リタは両手で包み込むようにそれを受け取ると、熱いのかちびちびと飲んでいる。机に備え付けの椅子に座り、エリスも紅茶に口を付けた。自画自賛だが、それなりに美味しい。
「そんなことより、今日こそ大浴場に行きたいんだけど……?」
カップから顔を上げたリタが、どこか遠くを見るような目でエリスに声を掛ける。
「行けば?」
「いやさ、ほら。私ってもう女の子だし、今更戻るつもりも別に無いんだけどさ、前世の記憶から来る罪悪感……? なんかすっごいドキドキしちゃう感じ、分かる?」
本当に今更だ。何を照れているのか分からないが、頬を掻きながら目を逸らす姉に、エリスは思わずため息を漏らす。
「それが分かる人は多分この世にいないと思うよ?」
「ですよね~」
「別に皆湯浴み着を着て入るじゃん。大体いっつも私の裸見てるくせに?」
エリスはおどけたような笑みで返す。
「そこは妹と、同年代の知らない女の子は違うわけで――」
「……それはそれで腹立つ」
エリスが何かをぼそっと呟いた気がするが、リタにはよく聞こえなかった。
「ん? 何か言った?」
「ううん、別に。とにかくさ、お姉ちゃんがどう在りたいか――じゃないかな?」
そう言って首を傾げるエリスに、リタは成程その通りだなと思った。今更どう足掻いたって、変わらないことはある。
私はただ、彼女の望む私で在れば、それでいいんだ。
「……そうだね、ありがと」
そう言ってリタは立ち上がりティーカップを台所に置くと、エリスの細い首筋に手を回し後ろから抱きしめる。柔らかな銀髪は、今日も紅茶よりも甘い香りがした。
「いつも言ってるけど、お風呂入ってないのに匂い嗅がないでってば」
「よし、エリス軍曹! 入浴だ! いざ行かん、女風呂という名の花園に!!」
「そういうことを一々言うのが普通に気持ち悪いし――――あと、次、耳元で叫んだらお姉ちゃんの黒いノート破り捨てるからね」
そんなことを言いながらも、しっかり姉の分の入浴セットも手早く準備をしたエリス。二人は並んで広々とした廊下を歩く。よく掃除も行き届いており、調度品もキリカの家には遠く及ばないまでも美しく上品だ。掃除が当番制だったら嫌だなと思いながらも、リタは浮足立った足音を響かせて歩くのであった。
大浴場は寮のそれぞれの階にある。寮の部屋は学年ごとに階が異なるため、姉妹は一階の浴場へと向かう。大浴場とは言っても、部屋にシャワーは備え付けてあり、そこまで大きい物ではない。だが、王国では自宅に浴槽付きの風呂がある家は珍しいため、大浴場を利用する者も多い。特に浮かれている新入生ともなれば尚更だ。
――――数十分後。
結局のところ、あまりの利用者の多さにほぼ蒸し風呂と化した大浴場にて、多数の年頃の少女たちに囲まれたリタは、暑さと肌色の暴力に鼻血を出して倒れた。しまいには大声で「衛生兵ー!」などと叫びだし、エリスは真っ赤な顔で自分の部屋まで姉を引き摺っていた。
「うぅ……巨乳が……憎いよ……憎いんだよぅ……エリスぅ……」
すすり泣く少女と、それを引き摺る似た容姿の少女に注目が集まらない訳がない。これ以上誰かとすれ違う前に、さっさと部屋に戻りたい。そんなことを思いながらエリスはリタの首根っこを掴んで足早に廊下を進む。
「恥ずかしいからそろそろやめて? ね?」
「見た? 奴らの憐みの視線」
「分かったから……惨めになるだけだから……」
エリスの部屋に着いてからも、その髪が自然に乾くまでリタは騒ぎ続けていた。
そして、夜も更けリタは自室に戻るために廊下を歩いていた。流石に入学式の前夜とあってか、この時間では廊下で誰かとすれ違うことも無い。広々とした廊下にリタの足音だけが響く。急に少しだけ寂しさを感じてしまったリタは、部屋へと急いだ。
間もなく消灯時間だ。
(明日は入学式か~なんだかんだ言っても楽しみ! というかクラスとか単位のこととか全く聞いてなかったけど大丈夫かな? エリスは明日早いって言ってたしな……)
そんなことを考えながら、自室の扉を開けたリタの目に飛び込んできたのは、タオルを首にかけた下着姿の少女であった。風呂上がりであろう、濡れた黒い短髪に茶色の瞳。リタよりも背が高く、よく日焼けした、鍛えられた身体。腹筋もしっかりと割れている。だが、全身筋肉質というほどではない。アスリート体形とでも呼べばいいだろうか。
(それなのに、私より胸があるのか……って、そんなことより!)
「ご、ごめん!」
ここまで、ルームメイトが居ない数日を過ごしていたリタは、ノックをするという簡単なことさえ忘れていた。謝罪の言葉を発すると、思いきり頭を下げる。そんなリタの慌てた様子に、目の前のボーイッシュな少女はふっと笑いを漏らす。
「いや、気にしちゃいねーよ。ルームメイト、だよな? これから、よろしくな?」
「うん、よろしくね。私はリタ・アステライト。クリシェ出身だよ」
「オレはラキだ。ラキ・ミズール。あんまり名字で呼ばないでくれると嬉しい」
何処か少年染みた笑みを浮かべるラキは、凄く様になっていた。彼女が差し出した右手をリタはおずおずと握り返す。その手のひらは固く、戦う人間の手であった。
「色々ちんまいな。お前が、本当に噂の“狂犬”か? 見た目も手も普通に貴族の嬢ちゃんにしか感じねーけど」
リタを上から下から眺めながら話すラキの視線に、リタは苦笑いで答えた。
「あはは……もう広がってるんだ……それは別に、私が名乗ってる訳じゃないから」
「すまんすまん。ダチから聞いた印象とあまりにも違ったからな、つい」
そう快活に笑うラキであったが、その視線は戦意を隠しきれていなかった。彼女の握る右手に力が入る。
どうして私の周りには血気盛んな戦闘狂ばかりが集まるのか。これこそ、前世で言う類は友を呼ぶと言ったところだろうか。
リタ自身、少なからず戦闘狂である自覚はあった。この身体に転生する前、修行とはいえ長い時間を戦いに身を置きすぎたせいもあるのだろう。欲しているのだ、渇きを満たすひりつく緊張を。生への渇望を感じさせてくれる瞬間を。
「とりあえず、さ。――――服着たら?」
リタは、呆れた顔でラキに言う。
「そ、そうだな」
ようやく離れた右手には、少しの湿り気と、彼女の体温が残っていた。ラキの戦意が急速に萎んでいくのを感じて、リタも緊張を解く。
今はまだ、余所余所しいが彼女となら上手くやれそうだ。
寝間着に着替えたラキと少しだけ世間話をしながら、リタはそう思った。見た目通りと言えば失礼かもしれないが、ラキはさばさばとした性格で、リタにとっては付き合いやすい人種であることには違いが無かった。
(とはいえ女子寮だし、これから女の子同士特有の嫌なものも沢山見るんだろうな……)
色々話し込んでいるうちに、とっくに消灯時間を迎えていたことに気付くリタ。ラキが小さく欠伸をかみ殺しているのを見て、いい時間かとリタは立ち上がる。
「それじゃ、そろそろ寝よっか?」
そう言いながらリタは部屋の照明を落とした。
「おう。そういや、リタ? 明日の入学式って何時からなんだ?」
「さぁ? 私は知らない」
「ま、どうにかなるか」
「どうにかなるよ。おやすみ、ラキ」
「おやすみ」
そうして、彼女たちは深い眠りに落ちていった。