常闇に隠されたもの
天が墜ちる――――。
こんな景色を見ることができて、尚且つ生きていられる人間などいるだろうか。恐らく、この世界の人類史を遡っても、まず存在しないだろうと断言できる。そう、生かされている人間と、その魔法を行使した人間を除いては。
リタの放った魔法は、言葉通りに天を地に堕とした。この魔法は、空を模した仮想重力空間を地表に定義するものだ。その超重力を以って地上に存在する全てを圧壊し、地平に帰すことにより、地上に空への境界を顕現させようという抽象概念魔法だ。
ここは偶然にも、数年前、ロゼッタがセドリック・ヒィトの殺害に至った一連の事件の余波により、廃墟化し廃棄された区画であった。当時の魔術師や衛兵たちの死闘がもたらした、あまりに凄惨な光景は住人たちをこの区画からの退去に追いやるには必要十分であったのだ。
だが、今現在ここにあるのは、完全に整地された美しくも冷たい平面。
瓦礫の山が、廃屋が、つい先ほどまで存在していたと信じることの出来る人間がいるだろうか。
ロゼッタと、ダグラス、そして魔人化した女。その周囲だけが円形に切り取られ、まるで大海に取り残された舟のように、何かが存在していたという事実を伝えていた。
何たる屈辱、何たる魔法か――――。
ロゼッタは、はっきりと認識したのだ。今、この場を支配している人物が誰なのかという事を。ある意味で、ロゼッタだからこそ理解させられたと言っても過言では無い。
これこそが魔法であると。
これこそが超越者の領域であると。
余人には、誰が何を成したかという事さえ、認識不能であったと断言できる。
周囲に存在する魔素の全てを掌握し、自分以外の誰かによる、あらゆる事象の改変を許さぬという余りに凶暴な干渉力。歌い上げるように、楽しむように、その余裕を見せつけた魔法の詠唱。
それがもたらした、余りに現実離れした光景と、残酷に突き付けられた自らの無力さ。何一つ抵抗させてもらえなかったと言うのが正しいだろう。轟音と共に潰されたのは、きっと瓦礫の山だけでは無かった。未だ、自分が立っていられるのは何故か。
あり得ない。これは現実ではない。
そう考えることが出来れば、どれだけ幸せだったのだろう。
だが、生かされている。止まることなく刻まれ続ける自らの鼓動は、目的を果たせと告げていた。泥水を啜り、どんな無様を晒そうと、あの人から受けた恩を返せ、と。
同時に、脳内を高速で錯綜するあらゆる情報。目の前にいる少年の正体は――――。
「魔法、詠唱……者、だと……? 貴様、まさか――」
「あ、あなた様は!」
ロゼッタの漏らした言葉に、ダグラスの声が重なった。横目で見れば、両膝をつき祈るような姿勢のダグラスが目に入る。彼のあんな姿など、今まで見たことがない。
二人は続く言葉を発することが出来なかった。痛いほどの静寂が、周囲を支配していたからだ。少年はただ無言で佇む。漆黒に染め上げられた全身の装備に、闇が浸食したかのような頭部。その表情も視線も伺い知ることは出来ない。
これだけの破壊をもたらしておきながら、砂埃ひとつ立たないのは、先ほどの魔法によるものであろう。
空中に静止し、身動き一つしない少年。その姿は、余りにも不気味であった。先程までとは、まるで別人のようだ。
何だ? 何を待っている? ロゼッタは周囲に意識を向ける。遠くから、こちらに接近するいくつもの気配がある。恐らく衛兵か、教員たちであろうことは容易に想像できた。だが、彼らを待つメリットなど、目の前の少年には無いはずだ。
既に、輝きを失いつつある大鎌を強く握りしめたロゼッタが、改めて月夜を背に着地した黒服の少年に視線を向けた時であった。
揺らぐ白銀の輝きが、高速で視界の隅を過る。
そして、静寂を切り裂いて響いたのは、ロゼッタが出来れば少年の正体であって欲しいと願っていた少女の声であった。
「えっと……。あまりに騒がしいので来ちゃいました? あっちの、滅茶苦茶カッコいい服を着てる男が敵でいいんですかね?」
学院一の問題児。少女は、黒い長剣を構え、ロゼッタにぎこちない笑みを向けた。
再度現場に戻ってきたリタは、黒服の少年もとい、自らの分身へ向かって駆けだした。自分自身とジ・エンドが別人だと印象付けるために。
正直、ロゼッタが騙されてくれる確率は低いだろうとリタは思っている。だが、二人が同時に存在する、その事実こそが重要なのだ。それさえあれば、他の人間に対しては後でどうにでも情報工作ができるからである。
その為にリタは、抽象概念魔法の炸裂と同時に、黒服の中身を魔力体と入れ替えていた。自身は女子寮の寝室へ転移し服を着替えて来たのである。尚、エリスにだけは戻ることを伝えていたが、寝室にも聞こえたラキのすすり泣く声はリタの胸を抉った。
リタ自身、いつか時がくれば、自身の正体を明かしてもいいと思っている。
寧ろ、そうすべきだと思っている。
その時自分は、自らの定めた誓いに則り、眼前に立ちはだかる敵の全てを容赦なく鏖殺するだろう。
だからそれが、せめてもの手向けであり、礼儀であると信じていた。
だが今は、平穏な学院生活をもう少しだけ楽しみたい。自身が色々な目的の為に狙われるのは、仕方が無い面もあるだろう。それほどまでに、例のおとぎ話は有名すぎたのだ。王都で初めて聞いた時には笑ってしまったのだが、不可能なことを指すジョークに『あの魔法詠唱者を呼んで来い』があるくらいである。
だから今は、黒服の少年の姿が必要だった。かと言って、あの姿で自分が魔法詠唱者の生まれ変わりだと喧伝することは、流石に悪手だとリタにも分かる。血眼になって魔法詠唱者の生まれ変わりを探す誰かが、やっと辿り着ける程度で丁度いい。
そうすれば、リタ・アステライトから目を逸らすことが出来る。キリカや家族に危害が及ぶ可能性を多少は減らせる。
そしてあの恰好をしている時に、命を狙ってきた人間を屠ればいい。そう、物事は出来る限り単純であるべきなのだ。そうすれば、きっと、迷わなくて済む。
そうしてリタは、自身の魔力体が満たした黒服の少年へと肉薄した。高速で飛来する多数の魔術の間隙を縫って、砂鉄の長剣を振り抜く。甲高い音を立てて、それが弾かれると同時に、鮮血と自らの右腕が舞った。魔力体が生成した短剣に、斬り飛ばされたのだ。
燃えるような痛みとはよく言ったものだ。熱さと同時に感じる、そこから急速に何かが抜け落ちていく感覚。前世での修行時には日常茶飯事ではあったが、この身体に転生してからは初めての痛みでもあった。
「くッ……!」
(わざとやってるけど、流石に痛い!!)
リタは、苦痛に顔を顰めながら右腕を回収し、即座に離脱する。魔力体は、遠い昔に修行していた時の要領で、自律的に敵対行動をとらせている。細かい指示を出したくも、頭痛に邪魔をされていた。
「ダグラス! 援護しろ!!」
入れ替わるように、目の前に出現したロゼッタが大鎌を振り抜く。リタを庇うように、位置取りを続けるロゼッタの苦し気な表情に、罪悪感が沸き上がった。
先ほどまで呆けていたダグラスと呼ばれた男も、何処か迷いを見せながらもロゼッタを援護するように魔術を放っている。リタは、魔術で右腕をくっつけると、頭部にも治癒魔術を掛けた。
(やっぱ、この痛みには効かないか。分かってたけど)
あまり長引かせると、色々悪い方向に転がりそうだ。リタは、くっついたばかりの右腕に魔力を集めて叫んだ。
「先生! どいて!!」
ロゼッタとダグラスが離脱した瞬間に、リタは転移で魔力体の後方に移動すると、仕上げの魔術を放つ。
『獄焔』
魔力体を包むように、渦を巻く巨大な炎の柱が噴き上がった。それは、王都の夜空を真紅の光で染め上げ、全てを焼き尽くすまで燃え続ける。そして赤熱の巨柱が消えた時、そこには何も残っていなかった。
「えっと、も、もうすぐ消灯時間なので帰りますね?」
ロゼッタは、そんなリタの一方的な言葉に苦笑いで頷く。ぎこちない笑みで、慌てたような言葉を紡ぐリタは、どこか顔色が悪いようにも感じた。
「門限はとっくに過ぎているぞ。今度、説教――」
「それじゃ、おやすみなさい!!」
そうしてリタが転移魔術で姿を消した途端に、周囲には静寂が戻ってくる。嵐のように来て、嵐のように去って行ったな、とロゼッタは思う。
それにしても、ジ・エンドとは何者なのだろうか。リタの魔術の発動と同時に離脱したのであろう。炎の渦が消えた時、彼の姿は何処にもなかった。無論、あの程度で焼け死ぬような存在だとは最初から思っていない。
自ら名乗ってはいないが、少なくともあんな魔法を行使できる人間がそうそういるとは考えにくい。リタ・アステライトと、ジ・エンド。どちらが本物だ? それとも、どちらも偽物なのか?
もしくは、二人が同一人物なのか――――。
急に変わったジ・エンドの行動。リタを前にして声を発さなかった理由は何だ? 知り合いだった? だが、同一人物だとすれば行動の説明はつく。
同一人物だとすれば、なぜもっとうまくやらなかったのだろうか。リタ・アステライトが本来の姿だとして、彼女の力量を以てすればあまりに容易なことだ。わざと、ロゼッタにだけ分かるように行動していた、と考えるべきだろうか。
いや、推論を重ねすぎている。結論を急ぐべきではない。頭を振って、思考の渦から脱したロゼッタは、思わず大きなため息を吐いた。
そんなロゼッタに、ダグラスはおどけたような笑みを向ける。
「久しぶりに会って、別れの挨拶を済ませたばかりというのに、もう再会だなんてね。珍しい事もあるもんだ。でも、戻ってきて正解だったよ。もう一つの、大きな大きな収穫があったからね」
「だが、情報が少なすぎる」
ロゼッタの言葉に、少し声のトーンを落としつつ、ダグラスはゆっくりと自らの言葉の意味を噛みしめるように話す。
「ジ・エンドか……。本当に、“彼”なのか? そうだとすれば、僕たちがやるべきことは――――」
「まだ奴が、彼の生まれ変わりだと決まった訳じゃないさ」
ロゼッタは、意識を失っている魔人の女を魔術で強化した縄で縛りあげながら、そう返事を返した。
「アレをその眼で見て、まだそんなことが言えるのかい?」
「……だが、しかし。――――いや、そうかもな」
「歯切れが悪いな? もしかして、だが……。他にも、心当たりが?」
急に低くなるダグラスの声。彼の視線が鋭くなっていくのを感じながら、ロゼッタは淡々と声を発する。
「そっちは、全く確証が持てなくてな。まだ話していなかった」
妹とも約束しているからな。ロゼッタのそんな考えは露知らず、少しずつ剣呑さを増していく空気の中、一呼吸置いたダグラスは冷たい笑みを向けた。
「ロゼッタ・ウォルト・メルカヴァル。――――裏切るなよ?」
ロゼッタは、縛り上げた魔人の女を転がすと、ダグラスの視線を正面から受け止める。そして、一歩ずつゆっくりと歩き、その距離を詰めると吐き捨てた。
「誰に物を言っている?」
ロゼッタの言葉に、ダグラスは軽く息を吐くと、微笑んで肩をすくめた。彼とて、本心からロゼッタを訝しんでいたわけではない。弛緩していく空気の中、ダグラスは肩を回しながら口を開いた。
「まぁいい。どうせまた会うことになるだろうからね。団長にも一応報告だけ上げておくよ。……はぁ、あの人もいい加減立ち直って欲しい所なんだけど、本人はあれで前に進んでるつもりだからね~。ぶっ壊れた人形みたいだった当時に比べると、自分の意志があるだけ全然マシだが」
「違いない」
疲れを滲ませるダグラスの言葉に、ロゼッタは思わず笑みを漏らした。
「たまには、会いに行ったらどうだい? 相変わらず山奥で狂ったように剣を振ってるぜ? 何せ今や、“剣聖”サマだからな」
「やめておく。あまり、いい顔をされないだろうからな」
「ロゼッタちゃんは、副長の忘れ形見だからねぇ」
遠くを見るようなダグラスの柔らかい笑みに、ロゼッタは何も返すことが出来なかった。あんな魔法を見せつけられた高揚からだろうか、今夜は話し過ぎたなとロゼッタは思う。
もうそろそろ、衛兵や教員たちも到着することになるだろう。あまりダグラスの姿を見られるのは得策ではない。あの姉妹に見られていることに関しては、諦めるしかないが。
そうしてロゼッタは、魔人の女をダグラスに引き渡すと、二度目の別れの挨拶を済ませた。そのままロゼッタは、周囲の地面を適当に魔術で掘り返していく。そうしなければ、余りにも異様な光景だったからだ。
「これから、変わっていくだろうな」
思わず漏れた呟きに、ロゼッタは思わず額に手を当てることになった。確かに、ほんのり熱っぽい。この感情は、何だろうか。だが、今、確かに生を実感しているのは事実。
大きく溜息を吐いたロゼッタは、ほんのり赤く染まった頬を夜風で冷やしながら、いつしか来るであろう集結の時に想いを馳せ続けた。