産声を上げる転生者
グランヴィル王国。
アルトヘイヴン唯一の大陸にある大国のひとつである。大陸の南側に広大な国土を有し、豊かな自然に囲まれた専制君主制の国だ。
その国の、東側の国境となる山脈の麓にあるのが、アステライト男爵の治めるクリシェの街だ。
人口は五千人程の小規模な街だが、人々には活気が満ちている。
貴族とは言っても、男爵位は決して大きな権力を持ったものではなく、事実アステライト男爵であるクロード・アステライトは庶民より少し大きいだけの邸宅に住んでいた。
アステライト男爵領は、このクリシェの街と周辺にいくつかある開拓村程度である。
決して豊かとは言えないまでも、クロードは善政を敷き、人々も彼を慕い皆が懸命に生きていた。
季節は夏に変わろうとしている。
自然豊かな領内では緑が青々と茂り、日々暑さを増していく中、クロードは自宅への道を急いでいた。
一刻ほど前、身籠っていた彼の妻が産気づいたとの一報が入ったためだ。
この日は運悪く、自宅での執務ではなく領内の視察に出ていた。息を切らしながら、彼は自宅への道を急ぐ。貴族とはいえ、決して裕福では無いのもあるが馬車よりも走って近道をした方が速かった。
彼は冒険者として名を上げ、とある事件の際に解決に多大なる貢献をし、男爵に封ぜられた経歴を持つ。そのため、引退しても尚鍛錬を続けており、その身体能力でとにかくひた走った。
そうしてようやく見えた自宅の門に安堵しつつ、それを軽く飛び越えて敷地に入る。
きっと彼の妻リィナが見ていれば、叱っていたであろう光景だ。
玄関のドアを乱暴に開け放つと、ロビー中央の階段を駆け上がり、二階の寝室に飛び込んだ。
「はぁ、はぁ……間に合った、か?」
其処には必死の形相のリィナと、助産師、そして念のために呼んだ治癒術師がいた。
どうやら、間一髪間に合ったようだ。
クロードとリィナの初めての子供。
その誕生の瞬間が迫っていた。
それから暫くして、部屋にはふたつの産声と祝福の声が響いた。
――――ここは? ……あぁ、俺はちゃんと転生したのか。
産声を上げながら、その赤子は前世でシンとして生きていた事を、思い出した。
だが、頭も身体も重く、視界もボヤけている。
そりゃ、赤ん坊だからそうだよな。
あれからどれくらい経っているだろうか。
状況把握に努めたいが、そもそも今が何年か分からないし、あの時がどの国の暦で何年なのかもそもそも知らなかった。
感覚的には異常がないため、プロセスは正常だったと考えるべきだろうが簡単には不安が拭えないのは事実。
自分の短慮さをここに来て呪うことになろうとは。
そんな事を考えながら赤子の仕事として泣き声を上げて肺に酸素を(この世界でも酸素と呼ぶのかは分からないが)送り込んでいると、金髪碧眼の偉丈夫に身体を抱き抱えられた。
短く刈り込まれた短髪に、いくつもの困難を乗り越えてきたのであろう精悍な顔つきである。
これが今世の父親か。なかなかどうして、整った顔つきだ。それに頼り甲斐のある渋さも同居していてイカしてやがる。これは俺の将来も安泰か? 出来れば正統派イケメンが嬉しいが。と、どうでもいいことをボーッと考える。
「おぉ、綺麗なオッドアイだな。隔世遺伝か? こんな瞳の色はあまり見かけないが。まぁなんでもいいか! お前の名前はリタ。リタ・アステライトだ! きっとママに似て可愛い子に育つぞぉ〜」
多分俺に話しかけてるんだろうが……男の猫撫で声は……ってちょっと待て。
どうして女の子みたいな名前なんだ?
どうしてママみたいに可愛く育つと言った?
いや、嘘だろ?
リタと名付けられた赤子は、急に泣き止むとソワソワと顔を動かし、急いで自分の下半身を確認しようとする。
だが、首も座っておらず上手く動かせない。
おい、父親よ。もう少し角度を変えてくれ。
そんな心の声が聞こえたのかは分からないが、クロードが抱き直したときに、運命の時は訪れた。
息子よ! 頼む!
返事をしろ……!
赤子は、とても生まれたてとは思えない形相で目を見開く。右眼にはうっすら魔法陣が浮かんでいた。
息子はそこに、いて……くれなかったッ!
暫くの間呆然としていた。
七百年以上、使うことも無かったから拗ねて逃げたのかもしれないな……。
すまない、相棒。さらばだ。
どうしてこうなった。
何も考えて無かったとしか言いようがない。
前世シンだった赤子、リタは既に遠い顔をしていた。
間違いない。女の子に産まれたようだ。
少なくとも、もう一度転生しようにもこの身体では難しく、時間がかかり過ぎる。
そこから転生してもノルエルタージュが生きている間に間に合うかどうか分からない。
仕方ない、女の子として生きるしかない。
それはそれで、一度は妄想した事のあるシチュエーションだ。楽しむしか無いだろう。
決して自棄を起こした訳ではない、断じて。
必ず見つけて迎えに行くと約束したのだ。
何があろうと次は守り抜くと誓ったのだ。
彼女を見送ったのが、つい先程のようにも感じる。
この命すら、彼女から貰ったようなものだというのに。自分の性別如きで、悩んでいるなんて、烏滸がましいにも程がある。
「うん、これは……? まさか魔眼か!?」
リタはクロードが自分の右眼を覗き込んでいるのを認識し、展開していた視覚魔法をあわてて解く。
リタの真紅の右眼からはすっと魔法陣が消えていく。
「気の所為か? まぁ今はいいだろう」
暫くすると、リタ以外にも産声が上がるのが聞こえた。どうやら双子の姉として転生したようだ。
きっとリタの弟か妹の様子を見にいくのであろう。
クロードは優しく柵付きのベッドにリタを寝かせた。
どうしようもなく眠いし身体が重い。
せめてもう一人は妹でありますように。
そう願いながら、リタは眠りについた。