王子様たちは、恋を叶えたい
一人ホールに足を踏み入れると、一瞬の静寂の後にざわめきが広がっていく。
それも無理のない話だ。
舞踏会、しかも王宮で開催される格式高い催しにパートナーを伴わずに一人で参加するなど、貴族の常識を逸脱している。
百歩譲って男性ならば、後々まで常識知らずと陰で嗤われることは免れないとはいえ、まだそれも眉を顰める程度で済んだだろう。
しかし女性、ましてや年若い令嬢がエスコートもなしに一人で夜会に訪れたとなればそれは醜聞とされてもおかしくない事態なのだ。
まぁ、今まさにその著しく常識を欠いた振る舞いをしているのは私なのだけれど。
しかしそれは仕方のないことなのだ。
王宮からの招待状を無視するわけにはいかないし、当日になって欠席などもってのほかだ。
しかし私にはともに来てくれるパートナーはいなかったのだ。
————直前でキャンセルとか、やりすぎでしょう…。
弁解させてもらえれば、私にパートナーがいなかったわけではない。
今日の夕方までは、婚約者とともにこの舞踏会に参加することになっていたのだ。
もちろんそうなれば父も兄もそのつもりで仕事に出たり己のパートナーをいそいそと迎えに行ったりしていたわけで。
「今日の舞踏会のエスコートはできなくなった」
簡潔かつ一切の感情を排除した無情な知らせは、そろそろエスコートに来てもらわなければ間に合わないという時間に届けられたのだった。
奴がどういうつもりなのかはよぉくわかった。
ならば仕方がない。売られた喧嘩は買おうじゃないか。
何ならプレミアをつけて転売してやろうか。
そう腹をくくった私は、独りこの舞踏会に乗り込んだ次第である。
「エリーゼ。来たのか」
嫌な意味で注目を一身に集めつつホールを進む私に声をかけた空気読めない…じゃない、無邪気な御仁は、その腕にかわいらしい令嬢を抱いていた。
「えぇ。礼を欠くわけにもまいりませんから。殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう」
私は静かに膝を折ると丁寧に見えるように淑女の礼をとった。
できるだけゆっくりと腰を折り、しばらく停止してからこれまたゆっくりと顔を上げる。
静かに彼と目線を合わせると、いつもはきらきらと無邪気に輝いている瞳が揺れる。
多少、良心の呵責はあるらしい。
私の目が座っているからなんてことは断じてない。
喧嘩は言値で買ってやろうと鼻息荒く乗り込んだ私は、思っていたよりも敵の勢いのなさに気勢を削がれた気分になる。
しかしここで引いてやる義理などない。
喧嘩を売ってこないのならば、こちらから在庫確認でも何でもしてやろう。
そう、今日の私の敵は目の前にいる婚約者、この国の第一王子ギルバート殿下その人なのだから。
「突然、エスコートができなくなったとの知らせを受けて驚きましたわ」
すっと目を細めてギルバート殿下にひと睨みいれてから、隣の美少女へと視線を移す。
案の定私の視線を受けた彼女は、おびえたような表情でギルバート殿下に絡めていた腕に力を込めて縋り、フルフルと震えて見せた。
傍から見れば庇護欲誘う健気なヒロインだろう。
せっかくなので存分にその立場を楽しんでもらえればいいと思う。
「すまない。…すまない、エリーゼ。僕は彼女に恋をしてしまった」
腕に絡みつく彼女を守るように抱きしめて、ギルバート殿下が絞り出すような声で告げる。
これでスポットライトでも当たっていれば、演劇の舞台と言われてもまったく違和感もないだろう。
うっかり傍観者のように見ていたけれど、そうだった、私もこの小芝居、じゃないや婚約破棄劇の主要キャストだったと思い出して表情をゆがめてみる。
悔しそうに聞こえるように、なんですって…と呟いた。
「エリーゼ。君との婚約は解消してほしい。僕は彼女と、クレアとともに生涯を過ごしたい」
「おっしゃっている意味が分かりませんわ」
「エリーゼ…!すまない。僕はクレアと結婚する。君との婚約はなかったことにしてくれ」
「そうですか。しかし私たちの婚約は国が…王が定めたものです。そうおいそれと解消などできませんわ」
私は一度言葉を切ると、再び彼女に目線を向ける。
大きな瞳をさらに見開いていた彼女が、再び私の視線を受けておびえたように殿下に縋りついた。
「殿下もわかっておいででしょう?」
かわいそうなものを見るような憐れみを込めた表情で彼女を挑発する。
さぁ乗れ!
売られた喧嘩はちゃんと買ったぞ!
だから今度はこちらの言値で高価買取よろしく!
期待を込めたいところだけど、それをぐっと我慢して冷笑を貼り付ける。
彼女は私のセリフを呆然と聞いていたが、キッと顔を上げると私をまっすぐ見つめて口を開く。
「ごめんなさい。殿下の婚約は存じています。でも、でも愛してしまったのです…!」
「クレア!」
涙をためて、震える足で一生懸命立つ彼女が私に向かって叫んだ。
健気な愛情の告白に、感極まったのかギルバート殿下が彼女を力いっぱい抱きしめた。
「クレア、ありがとう…。僕も君がいれば何もいらないよ。愛してる…」
「ギルバート、さま…」
すっかり二人だけの世界に入り込んでいちゃいちゃと愛を告げあう二人を眺めて、そろそろ退場してもいいかな、とそっと周囲をうかがうと、無表情でこちらを見ている父の姿が目に入った。
そのすぐ側には、やはり無表情の王と第2王子のエドガー殿下、王女のアレクシア殿下の姿もあった。
真っ直ぐにこの騒動を眺めているエドガー様の瞳に、胸に小さな痛みが走ったけれど、それをやり過ごしてもう一度父を窺うと、相変わらず心のうちを読むことも出来ない無表情を張り付けている。
よし、もういいだろう。
退場するタイミングを見計らいながら、少しずついちゃつく二人からじりじりと距離を取り始めると、まるでそれを引き留めるかのようなタイミングでギルバート殿下が顔を上げた。
っち。もう少し二人の世界に浸っていればいいものを。
殿下が私をまっすぐに見つめ、逃げそびれた私は仕方なくその場で立ち止まる。
「エリーゼ。すまない。僕は彼女を愛してしまった…。すべてを失っても、クレアを手放せないんだ」
「…もう結構ですわ。殿下。失礼します」
これ幸いとくるりと背を向けると、ゆっくりと今さっきくぐったばかりのホールの扉へと向かう。
スキップしそうになるのを必死でこらえて、ようやく私は迎えの馬車に乗り込んだのだった。
◇◇◇
「自由だー!!」
屋敷へと帰り着いた私は、ドレスも脱がずにベッドへとダイブした。
あぁ、上等な絹のシーツが心地よい。
丁寧にベッドを整えてくれたメイドには悪いけれど、嬉しさのあまり私はそのままゴロゴロと転げまわる。
「お嬢様。お喜びなのはわかりましたから、ドレスは脱いでくださいませ。湯あみの支度もできてますよ」
うーん、と思い切り伸びをして、だらっと力を抜いた絶妙なタイミングで侍女のサラが苦笑とともに声をかけてきた。
「はーい。ねぇサラ。今日はバラのオイルを入れてくれる?」
「もう入れてありますよ。今日はお祝いなのでしょう?」
流石よく気が付く侍女の仕事に抜かりはない。
私はご褒美にしているバラの香りのお湯を堪能して、その日は満ち足りた気分で眠りについた。
ギルバート殿下との婚約は破棄された。
明日からは、自由だ。
あぁ、幸せだ。
素晴らしい解放感だ。
厳しい妃教育もない。
絵が描きたいからと講義を嫌がって逃げるギルバート様を捕まえて講義を受けさせることもしなくていい。
王太子並みの知識を求められる講義ももう受けなくていいんだ。
明日からは自由に好きなことをしよう。
何をしようか。
読みたいと思いながらも手が出せなかった本をゆっくり読みたいな。
気になってはいたものの時間がなくて刺せなかった図案の刺繍でもしようか。
この際だからベッドカバーになるような大作にでも挑んでみようかしら。
傷心だと言い張って領地に戻ってゆっくりするのもいいだろう。
カントリーハウスののんびりした空気に癒されてこようかな。
領地なら、少しくらい町に降りても咎められたりもしないだろう。
それとも屋敷のコック長に頼んで一緒にお菓子を焼いてもらおうかな。
久しぶりにサラも誘ってみんなでお茶を飲みたいな。
ううん、やっぱりさっさと領地に引きこもろう。
読書も刺繍もお菓子作りだってカントリーハウスで充分楽しめる。
王都の噂も耳に入らないような長閑な田舎で、ゆっくりと羽を伸ばしたい。
これから過ごせるだろう自由な時間にワクワクと胸がときめかせて、私はゆっくりと訪れた眠気に身を任せた。
すがすがしい解放感だったのだ。
翌朝、目が覚めるまでは。
◇◇◇
「お嬢様、起きてくださいませ」
サラの優しい声が聞こえてきて、だんだんと意識が浮上してくる。
ゆっくりと目を開けると、いつもより深く眠っていたのか、思考に霞がかかったようにうすぼんやりとしている。
いつもよりも緩慢な動作でゆっくりと周りを見ると、もう日が昇って随分と経つのだろう、窓からは朝特有の白い光が差していて、少し焦ったような表情のサラがすぐ側に立っていた。
「お嬢様、おはようございます。急いでお支度を。エドガー様がお見えです」
エドガー様。
その言葉に、ぼんやりとしていた寝起きの思考が一気に覚醒する。
がばりとベッドから身を起こすと、その勢いにサラがビクリと肩を揺らした。
「エドガー様をお待たせしてるの?やだ、サラ、髪の毛お願い!」
「はい。お嬢様、こちらに」
急いで顔を洗って用意されていたドレスに袖を通し、サラの他にも数名の侍女にお願いして髪の毛を結ってもらって化粧を施す。
明るい部屋でお会いするから、昨晩の夜会のようなくっきりしたものではなく、ふんわりとしたナチュラルメイク。
昨日は到着するなり婚約破棄してさっさと退出したし、ゆっくりとお湯に浸かってからぐっすり寝たから肌の調子もいい。
「おかしなところ、ない?」
何度も鏡の前でチェックする私に、サラはニヤニヤとも苦笑とも付かない笑顔でその度に「お綺麗ですよ」と答えてくれる。
「さ、これ以上お待たせするのも失礼ですよ。行ってらっしゃいませ」
それでも不安になって鏡の前から離れられない私を押し出すように、サラは私を応接室へと連れ出したのだった。
「おまたせ、致しました…」
「エリーゼ、おはよう。朝早くからすまなかったね」
応接室に入ると、父と向かい合わせに座っていたエドガー様が立ち上がり私のもとへと歩いてくる。
自然な仕草で私の手を取るとその指先に口づけを落としてそのまま握りしめた。
「!!」
これまでこんなことされたことはない。
お会いする度に交わす挨拶も、手の甲に唇が触れないものだけだった。
驚いてエドガー様の顔を見上げると、これまで見たこともないような甘い笑顔で私を見下ろしている。
「エドガー殿下から、婚約の申し込みを頂いた。受けるが、いいな?」
エドガー様の甘い笑みに固まっていた私に、父からとんでもない話がもたらされる。
いいな?と聞いてはいるが、これって私に拒否権ないやつだ。
でも。
「…嫌です」
「エリーゼ!」
あぁ、解放感に浸っていないで、昨晩のうちに修道院に入るとでも宣言して領地に逃げておくべきだった。
「責任を取って宛がわれるなんて、嫌です」
講義を嫌がって逃げるギルバート様をいつも一緒に追いかけて講義を受けるよう宥めたのはエドガー様だった。
勉強を嫌がるギルバート様に嫌気が差して、追いかけることも億劫になった私の手を繋いで一緒にギルバート様を探してくれたのも。
講義の内容が解らない、絵が描きたいと泣くギルバート様に噛み砕いて丁寧に解説してくれたのも。
講義を終えて疲れ果てた私に暖かいお茶を用意して慰めてくれたのも彼だった。
ギルバート様の婚約者に定められてからと言うもの、王太子になるための教育を嫌がり、絵を描きたいと画材を片手に逃げる彼を宥め捕まえてどうにか講義を受けさせるために四苦八苦する私の側にいつも寄り添ってくれていたのはエドガー様だった。
王宮での、王家に嫁ぐための勉強の日々は、いつもエドガー様と2人でギルバート様を机に向かわせて過ごしたのだ。
ともに学んで、ギルバート様を探しに行くたびに優しく導いてくれた。
そんなの、好きにならないわけがない。
でも彼は婚約者の弟で。
私は兄嫁として、彼がいつか迎える婚約者との幸せを、祝福しなければならない。
今はまだ彼の婚約者の座は空席だけど、年齢を考えれば婚約者が決まるのはそう遠くない未来のことなのだと容易に想像がつく。
だから私は、逃げることを選んだのに。
ギルバート様がクレア嬢と想いを交わしているらしいことは気づいていた。
だから敢えてその恋が育つように知らない振りをしていた。
彼らの恋が叶ったら、王族に婚約破棄された傷物令嬢として、王都の噂も届かない領地でひっそりと暮らせばいいと思っていたから。
そうすれば、彼が他の令嬢と睦まじくしている様子など見ないで済むと思ったから。
なのに、ギルバート様の尻拭いで私との婚姻を強要されるなんて。
そんな惨めなことって、ない。
「ギルバート様はクレア様との恋を叶えたのだから。エドガー様だって、お慕いされる方と縁を結ぶべきでしょう」
「だからあなたに結婚を申し込んでいる」
私の精一杯の強がりをピシャリと遮るように告げられた言葉に、絶句する。
「エリーゼ。ずっとあなたが好きだった。兄の婚約者に、こんな気持ちを抱くなんてならぬことだと、この気持ちはずっと胸に仕舞っておくつもりだった。でも兄とあなたの婚約が無くなったのなら、俺が手を挙げても良いだろう?」
エドガー様は握った手を離さない。
むしろ強く握りこんで、私の瞳を覗き込む。
まるで、私の恋心も見通していたかのように。
「エリーゼと兄との婚約は、昨晩のうちに解消されている。それを知った他の男に盗られる前にと、慌てて朝から押し掛けた俺を笑うか?」
乞うような、真剣な瞳に居竦められて、何も言えずにいる私の手を離すことなく引き寄せて、バランスを崩した私をエドガー様は抱え込むように腰に手を回す。
「うんと言ってくれ。俺の妻になると」
強く抱き締められて、身動ぎすら取れない。
それでも、何とか腕を持ち上げると広い背中にそっと回した。
「は、い…」
「エリーゼ!」
強く抱き締められていたというのに、感極まったのかエドガー様は更に腕に力を込める。
これ以上強く抱き締められたら窒息してしまう、と一瞬怯えたけれど、すぐにその力が緩み顔を上げると、大きな手がそっと頬を撫でて、優しく微笑んだエドガー様の顔がゆっくりと近づいてくる。
幸せな予感に、そっと瞼を伏せる。
熱い吐息が頬を撫でて、2人の距離がこれまでにないほど近づいた、その時。
「んんっ、ゴホっ」
わざとらしい咳払いと共に一気に現実へと引き戻された。
そうだった、応接室ではエドガー様と父が話し合っていたのだ。
応接室には、成り行きを見守っていた父がいたのだ。
慌ててエドガー様から剥がすように身を離すと、父が決まり悪そうに顔を赤らめている。
「あー、エリーゼ。エドガー様からのお話を受けるが、いいな?」
もう一度、父は私に問う。
私に否やはないと言うのに。
すぐ横から、エドガー様の刺さるような視線を感じながら、私はゆっくりと口を開いた。
「はい」
私の答えを聞いて、腰に回されていたエドガー様の腕が、きゅうと更に強く私を抱き寄せた。
◇◇◇
「巧くいったかい?」
人生一番の仕事を終えて自室に戻ると、彼は当たり前のように寛ぎお茶を飲んでいた。
「あぁ。一度断られたけどね」
「でも頷かせたんだろう?」
「当たり前だ」
「でも一度でも断るなんて意外だね。エリーゼは君を慕っているものとばかり思っていたけど」
「責任を取って宛がわれるなんて嫌なんだってさ」
ため息とともに落とした呟きを拾って、彼は軽く目を見開くと、おかしそうにクツクツと笑い声をこぼした。
「なぁんだ。一瞬でも心配して損した。…心底愛した女に、真に愛して欲しいと乞われるのは最高だろう?」
苦り切った表情の俺を見て、兄は心底愉快そうに笑う。
ああ。最高だった。
思わず彼女の父親の前で拗らせていた恋心を告白してしまうほどに。
「お前がこんなに狡猾だったとは恐れ入ったよ」
「クレアを愛してしまったからね。彼女を手に入れるためなら何にでもなるさ」
思わず嫌味を投げると、ギルバートは穏やかな笑みを浮かべて答えた。
俺を真っ直ぐに見つめるその瞳には迷いも怖れもない。
「だからって王位まで返上しなくても良かっただろ」
「無理だね。散々言っただろう、僕は王の器じゃない。クレアにだって王妃なんて荷が勝ちすぎるよ。王冠はエドガー、お前に相応しい。そして王妃だってそうだ。エリーゼしかいないだろう。王妃教育だけでなく、王太子の教育プログラムについてくる令嬢なんてそうそういないよ」
ギルバートは迷いなく言いきった。
いや、エリーゼが王太子と同等の教育を詰め込まれることになったのは、教師たちを撒いては授業を抜け出して絵ばかり描いていたギルバートがそもそもの原因であるわけだが。
奴が絵が描きたいと勉強を投げ出して逃げてばかりいるから、重鎮たちはギルバートをサポートさせるために、俺と王妃となるエリーゼにその知識を詰め込むことにしたというのに。
「そもそも、1ヶ月先に生まれただけで王になるなんて冗談じゃない。王と王妃の子こそが王になるべきだろう?」
肩をすくめて再びカップを手に取ると、優雅な所作でもう冷めてしまっただろう紅茶を口に運んだ。
ギルバートの母は、父である王が手を付けたとされる侍女だった。
今は既に実家に下がり、再婚して幸せに暮らしているときく。
たった1月しか誕生日が変わらない、腹違いの兄。
彼女との未来が約束されている兄が妬ましかった。
だというのに、それらを全く有り難がることもなく逃げてばかりいるのが腹立たしかった。
その反面、ギルバートが逃げ出す度に、彼の捜索を理由にエリーゼと2人きりで過ごせる時間が愛おしかった。
兄が好んで絵を描く場所を探しながらも、少しでも長く、この時が続けばいいと願った。
王位継承権は生を受けた順に与えられるのが慣例とはいえ、側室にすらならなかった母を持つギルバートは、即位するには後ろ楯が無さすぎた。
そのため2人の婚約は、貴族の中でも力を持つエリーゼの父が後見することを明確にし、ギルバートが王位に付くための体裁を整えるのに必要なものだったのだ。
しかしギルバートはクレアを選び、王位継承権を放棄した。
国内ほとんどの貴族が集まる舞踏会で婚約破棄を演じ、全ての非を引き取ってまで。
そしてそれはギルバートの思惑通りに進んだ。
政務も勉強も弟王子に押し付けて逃げてばかり、更に多くの貴族の前で婚約者以外の令嬢を連れて婚約破棄を訴えた無能の王子は、婚約破棄と恋人との婚姻の代償に王位継承権の放棄、弟王子の立太子と同時に臣籍降下が決まった。
弟王子が臣籍降下した場合にと用意されていた公爵位の叙爵は見送られ、わずかな領地を与えて伯爵家へと位を上げた恋人の実家へと婿入りすることとなる。
「それにしても、エリーゼにあんなに颯爽と退場されちゃうとは思わなかったけどね」
ギルバートが苦笑とともに呟いた。
ギルバートは舞踏会の直前、俺にだけは伝えていたのだ。
貴族が集まる舞踏会で、エリーゼに婚約破棄を突きつけることを。
そしてエドガーこそがエリーゼを娶るに相応しい、という雰囲気になるようその場をとりなすようにと。
無能な兄王子と、それが引き起こした醜聞を収める弟王子とを見せつければ、エドガーが王位を継ぐことに誰も異議はないだろう。それにそんな醜聞を演じたギルバートを、この期に及んで王位になどと担ぎ出そうとするものは現れないだろうから、と。
ただ、俺はその場では動けなかった。
あの場でエリーゼに求婚したら、それこそ立場にものを言わせて頷かせることになる。
本当の気持ちを伝えることも、聞くことも出来ない。
真の愛情と共に求婚していると、どうしても伝えたかった。
だからエリーゼが毅然と立ち去ってくれたのは有り難かった。
動揺が広がるホールからギルバートとクレアの退場を促し、その場を収めることはそう難しいことではなかったから。
「でもまぁ。めでたしということでいいんじゃないかな」
ギルバートは紅茶を飲み干すと立ち上がりそう呟いた。
「本当に?弟の恋のために、身を引いた兄上?」
冗談めかして問いかければ、悪戯っぽい笑みが返ってくる。
「あぁ。二人とも想い人を手に入れたのだから、大団円だろう?」
◇◇◇
「ちょっとこれは、早すぎませんか…」
「そんなことないよ」
立太子を示す王冠をいただいた彼が、こちらに顔を向ける。
きらきらと金の髪が光を受けて王冠とともに輝く姿は、まるで神々しい宗教画のようだ。
「立太子にしろ結婚式にしろ祝い事となると準備に時間がかかりすぎる。一緒に祝ってもらうのも、いいんじゃない?」
にっこりと憂いのない笑みを浮かべて、彼は言い切った。
「それにもう、待てない」
そう言って私の頬に手を添えると、そっと優しい口づけを落とす。
それと同時に、おおおおぉ、とすさまじい歓声が私たちを包んだ。
というのも、私たちは今王城の広場に面したバルコニーに立っている。
それは、エドガー様の立太子の儀式を終えてのお披露目なのだが。
「ほら、花嫁もちゃんと顔を見せてあげて」
思わず俯いた私の腰に腕を回し、密着するように体を寄せてバルコニーの正面へと体を向ける。
それと同時にまた広場に多く詰めかけた民から歓声が沸いた。
あの婚約破棄騒動の後。
ギルバート様の臣籍降下とともに、エドガー様の立太子が正式に決まった。
そしてその立太子とともに、エドガー様たっての願いで、同時に私との結婚式も行うことになったのだった。
あまりの婚約期間の短さにそれはどうかと思わなくもなかったけれど。
————ずっと恋い焦がれていたエリーゼとはやく結婚したい。
そう蕩けるような笑顔で言われたらもう何も言えなくて。
王太子妃になると決まったら、今まで以上の詰込み教育が待っているのかと戦いていたけれど、蓋を開けてみれば驚くほどのんびりとした日々だった。
「ギルバートを王位に、となると些か不安が大きいからと側近どもが危惧してね。エリーゼにも同等の教育を施すことにしていたんだよ」
エドガーは苦笑と共にそう告げた。
何てことだろう。それなら私が立太子できたわねと笑えば、彼もそうだねと微笑んだ。
「お疲れ様」
バルコニーから部屋へと戻ると、ギルバート様が迎えてくれた。
その側には、一幅の絵が置かれている。
「拙いけど、結婚祝いに受け取ってくれるかい?」
そこには、色とりどりの花が咲き誇る庭園で手を繋ぎ見つめ合うエドガー様と私の姿。
柔らかな筆致で描かれた私たちは、光のなかで微笑みあってまるで花たちに祝福されているかのようだ。
「僕を探しに来てくれたときの2人が凄く綺麗だったからね。気に入ってくれると良いんだけど」
「ありがとう、ございます…」
照れ臭そうに微笑むギルバート様に私も笑みを向けると、ムッとした表情でエドガー様が私を抱き寄せた。
「俺の妻を口説くなよ?」
「えぇー…。お前との絵を贈ってそんなこと言われちゃうの?!」
言葉とは裏腹に、愉しそうにクツクツと笑い声を洩らして、ギルバート様は部屋の扉へと向かい、ノブに手をかけると何か思い出してように振り返った。
「お邪魔しました。…エリーゼ、僕の力不足で嫌な思いをさせてごめんね。どうか幸せになって」
「…はい。ありがとうございます」
今度こそじゃあねー、と扉を開くと、ギルバート様は出ていった。
「エリーゼ。行こうか」
「はい」
エドガー様が私の手を取りそっとエスコートしてくれる。
ひと休みしたら披露宴が待っている。
たくさんの寿ぎに感謝して、2人でこれから歩む道を行くのだろう。
恋心に蓋をして、見えないところへ逃げ込もうとしていたのに、何故か絡め取られて大好きだった人の腕のなかにいる。
こんな幸せが待っているなんて、舞踏会に乗り込む前には思ってもみなかった。
微笑むエドガー様に私も笑みを返して、握られたその手にそっと力を込めた。
◇◇◇
その後のことを、少しだけ。
エドガーはその後即位し、善政をしく賢王として歴史に名を残した。
そしてその側には、いつも王妃がであるエリーゼが寄り添って彼を支えたという。
お互いを愛し慈しむ様子その様子は自国にとどまらず周辺国にまでも知られて幸せな結婚の代名詞のように呼ばれるようになり、お互いの恋心を隠して思いあっていた様子は戯曲になり永く演目として人気を誇った。
エドガーの兄であるギルバートも臣下として彼を支える一方、絵画をはじめとする芸術の普及に尽力し、平和な治世とともに集まった芸術家達を多く支援、輩出しエドガーが治めるこの国を世界中から芸術の都と称されるまでに押し上げた。
その街は、後の世までも平和と美術を志す人々の聖地であったという。
ご覧いただき、ありがとうございました。
皆がハッピーエンドになる婚約破棄も良いよね、と思って書いてみました。