18手目. 暴走
挑発とそれに対する暴行によって、王国と神聖皇国との戦後交渉は開始から10分も経たずに決裂。
神聖皇国の使者は王都を去っていった。
次回の交渉は神聖皇国の首都、聖地メイズリークで行われる予定だったが、開催できるかは不明となった。
「あの魔術師とかいう邪教徒め。ふざけた真似を」
神聖皇国に13人いる元老院の一人、ブロシュ枢機卿はクリスに掴まれた襟元を摩りながら毒づいた。
「しかしあの顔は傑作であったな。我ら神聖皇国を軽んじるからこうなるのだ」
コーネイン侯爵令嬢アメリアを殺害したのは、王弟の調査結果どおり神聖皇国であった。
シラル平原の会戦で第二神殿騎士団率いる総勢4万の大軍が壊滅的な打撃を受けた神聖皇国は、その原因となった王弟ベルンハルト、凶変の魔術師クリスを目の敵にしていた。
そこへ、クリスの婚約の話を聞きつける。
しかもその婚約の相手は王弟の姪であった。
帝国には手出しが出来ず、王国との交渉も上手くいかず、神聖皇国が溜まった鬱憤を晴らすのに丁度いい標的だったのだ。
「これで王国内も揺れる。国王と王弟、魔術師と北の侯爵。一枚岩ではなくなるだろう」
ブロシュ枢機卿は不敵な笑みを浮かべながら、聖地メイズリークへ帰還していった。
◆
「これは神聖皇国からの宣戦布告、と捉えても構わないだろう」
交渉が決裂に終わった広間にて、自領の南に神聖皇国が広がる王弟ベルンハルトは、眉間に皺を寄せながら呟く。
一方クリスは、虚ろな表情で椅子にもたれ掛かり放心していた。
憔悴しきった彼に掛ける言葉も見つからず、傍に控えているエルベルトに「よろしく頼む」と言って王弟は部屋を去っていった。
(ここは、殺さなければ殺される世界だ)
そんなことは知っていたつもりだった。
しかしクリスは今まで、将棋を指すが如く出来るだけ気楽に、出来るだけ楽しんで帝国との攻防を繰り返していた。
自分の命令で人が死んでいくことからなるべく目を背けていた。
クリスは真の意味で「戦争」をしていなかったのだ。
そして竜馬は、真の意味で「クリス」になっていなかった。
頭の中には、「クリス様!」と明るく笑いかけるアメリアの姿が浮かぶ。
その度にチリチリと胸の奥が痛んだ。
(ならば殺そう。僕から大事なものを奪う人間は全て殺す)
この日竜馬は「クリス」になった。
◆
フロートの街に戻ったクリスは、帝国の偵察を続けていた三女のリシェを呼び戻していた。
「リシェ、帝国の偵察は縮小だ。神聖皇国に重きを置いてくれ」
「はい、お兄様」
兄が最近鬼気迫る表情で訓練をし、屋敷では常に何かを思い詰めている様子と聞いていたリシェは、クリスのいつもの口調に少しだけ安心する。
「それと、ヨハンを呼んでくれ」
「お兄様、それは・・・」
「仕事を頼みたい」
「・・・はい」
ヨハンの「仕事」とは暗殺である。無表情で言葉を紡ぐ兄に、リシェの先程の微かな安心は儚く消えた。
「・・・御用か」
クリスが庭の椅子に座り夜空を眺めていると、まるで何もないところから湧き出たかのように音もなく現れたのはヨハンだ。
「ヨハン、神聖皇国のブロシュ枢機卿という男を殺せるか?」
「・・・私の主はお前だ。命令しろ」
今宵は風が冷たい。季節はそろそろ冬に差し掛かっている。
「ブロシュ枢機卿を殺せ」
「はっ」
短く答えて、ヨハンは闇の中に消えるように姿を消した。
◆
「クリスよ、何を考えているのだ」
王弟ベルンハルトは珍しくクリスの意見に反対していた。
クリスが突然、神聖皇国に攻め入ると言ってきたのだ。
「レイフェルス軍のみで攻めます。殿下にご迷惑はお掛けしません」
「明らかに拙攻だ。準備も足りていない」
「これは復讐です。やらせてください」
僅か一日の出会いとはいえ、まだ幼く無垢な婚約者を亡くしたクリスの気持ちは察するに余りある。
ベルンハルトも生まれてから何度も遊んだ妹の子を亡くしたのだ。
「分かるが・・・クリスよ」
王弟は「申し訳ございません」と言って去っていくクリスの背中を、ただ見つめることしか出来なかった。
クリスの挙兵は明らかな暴走であった。
首都メイズリークでは、ブロシュ枢機卿が屋敷の自室で寛いでいる最中、忍び込んだ何者かにナイフで暗殺されていた。
王国からの報復か、或いは教会内、元老院内の陰謀によるものか、疑念は疑念を呼び、聖地は混乱に包まれている。
クリスの作戦はこうだった。
混乱する首都に更なる陽動の破壊工作を仕掛け、手薄になるであろう近隣の街ドラークを夜襲で攻め落とすというものだ。
ドラークは首都メイズリークの北西、王国領に近くにある商人主体の街だ。
メイズリークの食料倉庫で火の手が上がり騎士や住民が混乱する中、ひとり冷静な男がいた。
「これでブロシュの暗殺は王国によるものと断定できる」
「だが王弟軍に動きはない。即ち少数での奇襲」
「つまり、王国に近く守備の薄いドラークだ」
元老院において、邪教徒討伐には慎重派であるが常に冷静沈着。カバート枢機卿だ。
「第一神殿騎士団に急ぎドラークに向かうよう伝えよ」
カバートは赤く縁取られた法衣を翻し、自らは第一神殿騎士団長オルサークに会うべく馬車に向かった。
◆
「誰もいねえぞ?」
美しい下弦の月が僅かに足元を照らす中、静かにドラークの街に潜入を試みるは、近衛騎士団率いるレイフェルス軍3千。
しかし物見櫓にも誰もおらず、門番をする兵もいない。
斥候部隊の情報では、1日前に街から兵士たちが首都に向けて発っていった、とのことだった。
「イェッタ様、警戒してください」
エルベルトは肩透かしを食らって残念がる五女を諫めつつも、やや気の抜けた様子だ。
「やはり斥候の情報は本当だったか。では遠慮なく占領してしまおう」
クリスの言葉を受け、街の西にある大きな門を潜り、高い石壁に挟まれた夜露に濡れる長い石畳の道を3千の兵がゆっくりと進んでいく。
突然、前方と後方に火の手が上がった。
炎の向こうには、居ないはずの神聖皇国の騎士たちの姿があった。
「汚らわしいネズミ共め。焼き殺してしまえ」
第一神殿騎士団長オルサークの合図により、左右の石壁の上から火矢が降り注いだ。
イェッタは火矢を切り払いつつも素早く馬上のクリスを浚って抱えると、馬で後方に全速力で走りだす。
「団長続け!突破する!」
イェッタは火を怖がる馬を無理矢理御し、後方の炎の壁に向かうと火の勢いが小さい箇所を飛び越える。
クリスを後ろに乗せながら、火の向こう側に待ち構える神聖皇国の騎士たちを馬上から槍で薙ぎ払っていった。
レネは火矢を掻い潜りながらもイェッタに続き、後方の炎越しに敵を射止め続ける。
俄かに後方の敵兵の布陣が崩れたその隙をついて、3千の兵は一斉に街からの脱出を試みる。
そしてエルベルトはイェッタからクリスを受け取ると、闇の中へ走り去っていった。
その後の追撃を振り切り、なんとか王国領に戻ったレイフェルス軍は、その数を8百にまで減らしていた。
皆一様に傷付き、焼け焦げ、無傷の者は殆ど居ないと言ってもよい。
イェッタですら背中の矢傷や左腕の刀傷が生々しく残っている。
「兄貴、らしくねえな」
「・・・すまない」
いくら首都が非常事態であっても、街に門番の兵すらいないことなどあり得ない。
首都に向かった兵士たちは囮、代わりに騎士団が商人に扮して街に入っていることなど、普段の冷静なクリスであれば気付けたかもしれない。
クリスはこの世界に来て初めて、惨めに敗走した。