13手目. 黒髪美少女の横歩取り
無口な参謀、四女ヘンリエッテは珍しく、非常に気合が入っていた。
なんと眉毛の角度がごく僅かに、誰も気付かない程度に上がっているのだ。
つまり、表情に変化は無かった。
「ヘンリエッテ様、ご指示の物資の調達と各所の騎士への配備が完了いたしました」
ヘンリエッテが用意させたのは、大量の炭、細い銅板を合わせた火矢の鏃、豚の肉や血など、用途が理解できないものばかりだ。
しかし代官アドルフは、クリスへの応対と同様、忠実に指示された任務をこなしていた。
この代官は苦労性で凡庸のように見えるが、優れた指揮官の元では極めて有能であった。
「・・・ご苦労様。明日の陣形は『横歩取り』・・・最終チェックします」
「ヘンリエッテ様、最近色々とお館様に似てこられましたな・・・」
最近将棋を覚え始めたアドルフは、将棋の師匠でもあるヘンリエッテの言葉に少し項垂れるのだった。
次の日の朝。
ヘンリエッテはシャワーを浴び、鏡の前で顔を両手で弱くぱちんと叩く。
未だ和服は持っていないが、とても欲しいと思っている。
そしてクリスにねだった扇子を持つと、こう呟いた。
「・・・戦闘態勢完了です」
◆
レイフェルス領への三度目の侵攻となる帝国軍、率いるのはハルトマン少将の後任として王国攻略のため配属された、キルスドンク中佐だ。
(これはまたとない昇進のチャンスだ)
旧道をレイフェルス領へ向かい進軍するキルスドンクには意欲が漲る。
(常勝ミュルデル将軍まで打ち破った、「魔術師」とやらは不在のようだ)
(ここで私がレイフェルスを落とせば、帝国北部は我が物となる。皇帝陛下も異論はあるまい)
(そして「将」の地位も夢ではない)
率いる帝国軍は5千。
対するレイフェルスの騎士団は、昨日の斥候の見立てでは1千まで減っているはずだ。
「報告!レイフェルス領ではおよそ1千の騎士団が旧道の出口を固め布陣しております」
「うむ。想定通りだ。あとの2千は恐らくファルカシュへ派兵しているのだろう」
先日のクリスによる新道爆破で、帝国レイフェルス間の往来は難しくなった。
当然、未だ崖崩れの起こりやすい山間では斥候部隊の潜伏も難しく、またレイフェルス側の妨害もあって情報収集は困難を極めた。
しかしキルスドンクは臆病であった。
斥候部隊を危険な山間に無理に散開させ、敵軍の規模をなんとか把握し、今も山からの奇襲などに備えているのだ。
しかし今のところ奇襲も罠も無い。
(やはり魔術師抜きでは何も出来ぬか)
そんな傲慢な考えを持ち始めた中佐の元に、斥候部隊から伝令が入った。
「報告!・・・亡霊がいるようです・・・」
「なに?」
血の気が引き青い顔をした斥候は、言葉を続ける。
「我が帝国軍の死んだ兵士が、山の中を歩いて・・・」
「馬鹿か?別部隊の斥候ではないのか?」
「いえ・・・顔は黒く土気色で生気はなく・・・壊れた甲冑を身に纏い・・・」
「見間違いだ」
「いえ・・・その者の周りには緑色の人魂が・・・」
ここは二度に渡り、帝国軍が4万5千の命を散らした地だ。
その無念から成仏できず、怨霊となってこの地を彷徨う。
キルスドンクは生唾を飲み込みながらも、邪念を振り払う。
「愚か者!そのようなものがいる訳が無い!前進だ!」
その後も度々別の斥候から似たような報告が入り、俄かに帝国軍の雰囲気を重くしてゆく。
そして行軍はゆっくりと警戒しながら、帝国軍5千の命が魔術師の炎の中に散った谷底に差し掛かる。
すると旧道の前方に、一面の炎が現れた。
道全体から広範囲に渡って炎が燃え上がっており、行軍を妨害する。
「このままでは進めぬ。消せ」
キルスドンクが前方を見遣りながら配下に命じたとき、炎の向こうに軍勢がゆらりと現れた。
数は1千か2千か。濃紫色の煙が僅かに足元を漂い始める。
皆一様に顔は黒く表情はわからない。
帝国軍の甲冑を身に纏っており、鎧や兜は焼け焦げて損傷が激しい。
黒く汚れた槍や剣をだらりと持ち、唸り声を上げ、ゆっくりと近付いてくる。
「・・・ォォォ・・・アツイ・・・」
「・・・コロス・・・コロス・・・」
亡霊の軍勢の周りには緑色をした人魂のようなものが浮かぶ。
その異様な光景に、皆それぞれが先程まで抑えてきた恐怖が帝国軍全体に蔓延し、兵の身体を縛り付ける。
「あ、あいつだ!」
叫ぶ兵士が指をさす先には、遥か遠く、高い櫓の上で炎を灯し、細い腕を広げ怪しげな術を使っている黒い髪の魔性の女。
「あ、悪魔・・・ひ、ひ、怯むな!」
キルスドンクはそう叫んだ瞬間、彼の喉仏のあたりに漆黒のナイフが突き刺さり、血を吹き出しながら絶命した。
その瞬間、恐怖を抑え切れなくなった兵士が「ひぃっ」と叫びながら後方に全力で逃げていく。
それを皮切りに、帝国軍は我先にと逃げ出していった。
◆
「何とも恐ろしい作戦だ・・・」
騎士団長のヘロルトは、顔に塗った炭や血を拭い、鏃の炎を消しながら煙に咳込む。
「これ使うことにならなくて良かったな」
ある騎士は、何やらぐちゃぐちゃとした血と肉の塊が入った革袋をぽんぽんと手のひらの上で弄ぶ。
「あのお嬢様、頭の中どうなってんだよ・・・」
「俺、ヘンリエッテ様が本物の悪魔に見えた」
騎士団の面々は顔を拭い帝国の壊れた鎧を脱ぎながら、口々に失礼な称賛を並べた。
「ヨハン、貴方の投げナイフはもう芸術の域ですね」
「・・・普通だ」
演出の最後の仕上げを担当したリシェ擁する斥候部隊は、森の中を移動しながら互いを労っていた。
安全な櫓の下に控えていた代官アドルフは、無事降りてきたヘンリエッテに安心して声をかける。
「ヘンリエッテ様、ご無事で・・・」
「・・・」
「いや、なんと申しましょうか・・・怖いものですな」
「・・・クラウディア姉様ほどではありません」
作戦のことではなく自身の禍々しい化粧のことを言われたと捉えた参謀は、少し不満気な口調で答える。
「しかし、これが『横歩取り』とは・・・?」
「・・・横に置いてある歩、谷底に捨て置かれていた帝国の装備、を活用しただけ」
「・・・そして駒得は裏切らない」
(でもクリス兄様のようには・・・二の矢三の矢の準備が薄い。私はまだ弱い)
そしてヘンリエッテは、誰にも聞こえぬ声でぶつぶつと、独りで感想戦に突入していった。
◆
「レイフェルス家の本拠地をフロートの街に移す」
近衛騎士団と共に急遽屋敷に戻り、ヘンリエッテの快勝を聞いたクリスは、初めて兄から頭を撫でられて驚くほど赤面した四女を更に撫で続けながら宣言した。
「しかしお館様、ここは帝国と接しておりますれば・・・」
「商人たちには悪いが、旧道は爆破する」
「なっ」
「東隣も僕の領地になったし、交易には困らないだろう。王都までも安全に行ける」
「はっ。では準備いたします」
「それに、悪魔がいる土地だ。帝国も下手に手出しはしないだろう?」
撫でられ赤面を続けていたヘンリエッテは、僅かに頬を膨らませた。
「アドルフ、ヘロルト、寂しくなるが、この土地をよろしく頼む。家の者と近衛騎士団は連れて行くからな」
「はっ」
「この身に変えましても」
「あ、あの!クリス様!」
泣き出しそうな顔で訴えるのはメイドのステラだ。
「わ、わたくしも、連れて・・・!」
「どうしようかな?」
この異世界に来た頃とは異なり、少し意地悪な返答をすることを覚えたクリスは、そんな自分の変化を心地よく感じていた。