1手目. 将棋を求めて
「負けました」
対局相手の如月七段が頭を申し訳程度に下げ、投了の意思を告げる。
暫しの静寂が訪れ、扇風機の羽音のみが場を支配する。
両者共に、目を閉じて終盤の棋譜の変化を疲労した頭の中で無理矢理ぐるぐると回しているのだ。
「・・・うーん・・・つまらない将棋にしてしまいました」
僕が羽田永世七冠の嘗ての名言を思わず口ずさむと、如月七段は先ほどまで我慢してきた感情を隠せず、ぎゅっと唇を噛み締める。
勝負の世界は残酷だ。過程がどれだけ素晴らしくとも、勝ち負けの結果のみが残る。
しかし、こと将棋においては少しだけ趣が違う。
勝負が終わった後も、勝者と敗者、明暗の分かれた二人の棋士は、終わったばかりの戦いを最初から振り返り、互いの意見をぶつけ合うのだ。
「同桂は指し過ぎました。ここは銀を引いとくべきでしたか・・・」
「え?さすがにそれは指しにくい・・・でも指されると困ります・・・ね」
今日の対局は東京千駄ヶ谷にある将棋会館の4階、雲鶴の間にて行われた。
対局開始は朝の10時。そして対局が終わったのが夜23時。そこから感想戦を2時間。
如月七段は苦汁を味わいながら懸命に、自らを高めるために、数時間前に希望した結果に転ばなかった棋譜に縋り付いているのだ。
しかし棋譜の途中からは、僕が負ける変化は一つも見つからなかった。
僕は将棋会館の側にある鳩の森神社の敷地をゆっくりと歩きながら、星も見えない空を見上げて、神社特有の荘厳で冷徹な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「もう終電ないよな」
果たしてベンチに座る。過労気味の脳を労わるように瞼を閉じて更に深呼吸をし、火照った頭と身体を冷やすのだ。
僕の名前は「鳳条竜馬」
名前から判るかも知れないが、将棋は父親に教わった。
「竜馬」という名前は、きっと親が幕末好きか、将棋好きかのどちらかだろう。後者はさすがに少数派か。
将棋を本格的に始めたのは遅く、将棋の魅力に憑りつかれたのは小学6年生のころだ。サッカーでの骨折入院が原因だった。
中学3年でアマ五段、プロ棋士の養成機関である「新進棋士奨励会」通称、奨励会へ入会した。
それから4年、奨励会の階段をひたすらに連勝を続けて駆け上がった。
通称「地獄の三段リーグ」も1期で勝ち抜け、僕はこの春からプロ棋士になったのだ。
奨励会では敵無しで勝ち続けたため、メディアからは割と注目されていたりもする。
だが、同世代には既に中学生でプロデビューをし、連勝記録を樹立し、タイトルすら獲得している猛者もいる。
「まあ僕は、将棋を突き詰められればそれで幸せかな」
プロになったときの将棋雑誌インタビューでの目標には「将棋の真理を知る」と答えた。
決して格好を付けた訳ではない。本心だ。
今は自宅のPCにAIを載せて、「AIから見た将棋」という「将棋」とは全くの別物を勉強している。
AIが指す将棋はとても興味深く、人間が真似をするのは困難を伴う。本能が邪魔をするからだ。
AI同士の対戦棋譜並べは、時間があれば10日間くらいは続けられると思う。
不眠と栄養失調で倒れそうだから自重しているが。
◆
今日の対局は難儀だった。
スポンサーのネット配信事業者が主催する、早指し戦の予選一回戦。
夕方対局開始という変則的な時間の中、対戦相手はまさかのタイトル保持者、大村王位だ。
当初は「受け師か・・・どんな将棋になるか楽しみだな」などと気楽に臨んだのはいいものの、粘りに粘られ、短い持ち時間の中僕にミスも出て、300手を超える大熱戦となった。
結果、なんとか辛勝。これでデビューから公式戦5連勝だ。
「ははは、負けちゃったかぁ」などと大村王位は明るく振舞った。
しかし感想戦の途中、彼が悔しさのあまり口の中を切り、唇の端から血を流したことは一生忘れないだろう。
そして今日も終電を逃し、またぞろ鳩の森神社のベンチへ座った。
刹那、僕の周りには眩い光が集まり、徐々に意識が遠くなっていくのだった。
◆
「ご、ごめんなさい!」
僕は知らない空間にいる。
そして何やらひらひらしたコスプレをしている女の子が僕の目の前で必死に謝罪している。
「・・・ここはどこでしょう?」
いくら対局後の疲労困憊の脳とはいえ、夢ではないことくらい明らかだ。
そんなに御目出度い造りにはなっていない。
「あの!間違えました!別の神社で野垂れ死んでいるおじさんと間違えました!」
「・・・はあ」
「一度ここに呼んでしまったら、もう戻せないんです・・・なので!」
「別の世界へ転生しませんか?」
「例えば、剣と魔法、勇者と魔王の世界!とか・・・どうですか?」
「今なら!なんとお望みの能力をプレゼント!・・・ど、どうでしょう・・・」
「お断りします」
「では、平和な世界でのんびりスローライフ!今なら広い土地とお家とかわいい幼馴染付き!」
「お断りします」
「えええ??困るんです!このままでは私が女神様から怒られてしまいます!」
「将棋がない世界は嫌なんです」
「しょ、将棋?ですか?」
「はい」
「少々お待ちください・・・」
「あ、ありますよ!地球の将棋ではありませんが、近いボードゲームがある世界です!」
「・・・じゃあそこでいいです」
「ただ、誠に申し上げにくいのですが、戦乱真っ只中の世界なのですが・・・」
「はい、問題ありません」
「・・・では、お望みの能力を」
「いえ、将棋があればそれでいいです」
「・・・わかりました!では転生です!さようなら~!」
先ほどと同じく眩い光と共に、僕の意識はまた遠くなっていった。
(急げ急げ~!バレる前に~!)という声が聞こえた気がするが、もうどうでもいいことだった。
◆
「知らない天井だ」
これを言わないといけない気がして、僕は目覚めた。
起きようと手を動かすと、思いの外身体が大きい。
違和感はない。前世の僕と同じくらいか。
たしかあのコスプレ娘は「転生」と言っていたと思うのだが。
やおら起き上がり辺りを見回すと、中世ヨーロッパ風の豪華な部屋にいることが判る。
姿見を部屋の隅に見つけた僕は、自分の姿を映してみる。
セミロングの銀髪。色白。細身の長身。そしてイケメン。
「なるほど、これがあのコスプレ娘なりの詫びということかな」
僕はどうでもいい推論を独りごち、徐に記憶を辿る。
しかし困ったことに、記憶は「鳳条竜馬」のものしかなかった。
この鏡の中の人物の記憶が全く存在しないのだ。
ここがどこか、自分は誰なのか、まるで見当も付かない。
「参ったな。言葉も通じるかどうか」
「クリス様?お目覚めですか?」
(・・・誰だ?)
突然部屋に飛び込んできたのは、メイド姿の若い女性だ。
「もう1週間も眠り続けておられて、大変心配いたしました」
(・・・その割にはあまり嬉しそうではないな)
「あの・・・わかりますでしょうか?」
「すみません、僕が誰で、ここがどこか、わかりません」
僕は正直に答えた。言葉が通じるのもあのコスプレ娘のお土産だろうか。
「はぁ・・・」
メイドの女性は面倒くさそうに溜息をつくと、説明を始めた。
「貴方様は、当レイフェルス家のご当主様、クリストフェル=ヴィッテリンク=フォン=レイフェルス伯爵様です」
「19歳。独身。ご家族は妹君が5名。先代様であるお父様、お母様は既にお亡くなりです」
「そのお歳で婚約者がおりません」
最後の言葉に多少の棘を含ませつつ、まるで毎日練習しているかのように、メイドの女性はすらすらと言葉を続ける。
「そして私は当家でメイドをしております、ステラと申します」
「はぁ・・・クリス様、このお戯れはもうお飽きになりませんか?」
「ああ、ごめんなさい。そうでしたね」
僕は、不自然にならないよう話を合わせてみる。
ステラと名乗る女性は何か不思議なものを見るような瞳で僕を一瞥すると、
「わかっていただければ問題ございません。何かお召し上がりになりますか?」
「いえ、結構です。水を貰えませんか?」
「・・・クリス様、寝惚けていらっしゃるのか、先程からお言葉遣いがおかしくなっております」
「・・ん。ああ、水を貰えるか?」
「はい、承知いたしました」
ステラは面白くなさそうにそう言って、足早に部屋を出ていった。
(ステラ。クリストフェル。レイフェルス家。伯爵。妹5人。19歳。)
大事そうなキーワードを長期記憶に焼き付けるべく、頭の中で反芻する。
(そんなことより、将棋はどこにあるのだろう?)
僕の頭の中では、自分の正体よりも将棋の優先順位のほうが高かったのだ。
◆
「お兄様がお目覚めに?」
「はい、セシリア様」
「ふん。ずっと眠ってくださればいいのに。ヘチマ卿が」
セシリアと呼ばれた大人と呼ぶにはまだ早い少女は、金髪のツインテールを揺らしながら忌々しげに言葉を吐き捨てた。