異形の森
目を開けると、視界いっぱいに鮮やかな緑が広がった。体感にして一瞬。それこそ瞬きをする間に、私は王城の一角から知らない場所に立っていた。見渡す限り、視界を覆う青々と生い茂る木々。周囲からは大なり小なり、生き物らしき気配がある。けれど、いっそ不自然なほど人の気配を感じない場所だった。
「ここは……?」
「常人はけして足を踏み入れぬ、異形の森だ」
聞き慣れない言葉に思わず首を捻り、改めて森を見回してみる。枝葉の間からきらきらと木漏れ日が差し込み、地面を照らす。耳をすませば、小鳥のさえずりと川のせせらぎが聞こえてくる。こんなに静かで綺麗な場所なのに、人が足を踏み入れないというのは、不思議な話だ。
「異形の森?」
「左様。ここは魔素が濃く、耐性がないものはすぐに中毒を起こし、廃人同然となる。必然的にこの森にいられるのは魔素を取り込む魔の物や、それを狩る強者のみとなる」
「魔素って確か……魔力を作るもと、だよね?私、なんともないけど……」
「然り。人間のなかで、ここに入ることが出来る素養を持つ者は数えるほどだ。お主はそれを満たしている」
話を聞きながら、口の中でもう一度聞いた言葉を繰り返す。異形の森。城にいた頃、勉強中に大陸地図は見たことがあるが、そんな場所はあっただろうか。記憶を漁ってみても該当する場所を思い出せない。私が覚えていないだけか、あの地図に記載がなかったのか。どちらにしても、私がいた国から、ずいぶん遠くに来たことだけは分かった。
「――かつてここには、白亜の都があった」
「え……」
「あらゆる種族がここに畑を作り、家を建て、町を築き、暮らしてきた。けれどそれは愚かな人間によって塵と化し、跡形もなく夢は潰えた。時が経ち、多くの種族は退化し、ここに訪れる者は減るばかりだ」
遠い昔の、私の知らない歴史の話。目鼻も口もない顔から、その感情を読み取ることは難しい。
私が生まれた連合王国は、人族主義的なところのある国だった。古竜を祀り、竜に守られたこの国の人間こそ至上であると声高に言う者もいた。成り立ちからして仕方がないのかもしれないが、排他的で、人族以外にはさぞ住みにくい国だっただろう。私も、知識としては他種族のことを知っていたが、実際に顔を合わせたことはない。
きっとここは大切な場所で、そこに私がいてもいいのか聞こうとして、やめた。駄目だったら初めから連れてきていないということくらい、私にも分かる。目の前にいる小さな獣の形をした彼は、たぶん、私が想像するよりずっと強い力を持っている。呼びかけに応えてくれたのが不思議なくらいに。ただの気まぐれかもしれない。そうだとしても、その気まぐれに私は救われた。手を伸ばして、小さな身体を抱き上げる。見た目より少し重くて、硬そうに見えた毛は意外と柔らかい。
「ここに連れてきてくれて、ありがとう」
「うむ」
昔飼っていた猫にしたように喉を撫でてみると、存外機嫌の良さそうな反応が返って来る。それがなんだか可愛くて、思わず笑ってしまった。
「……さて。ずっとこうしておるわけにもいくまい。直に日も暮れる。魔法を使ったことはあるな」
「あるけど、基礎くらいしか知らないよ?」
私が城で学んだのは、魔力の練り方、身体強化の仕方、初歩の攻撃魔法くらいだ。それで現状がどうにかなるのかと言えば、どうだろう。
「ふむ。ではまず目を閉じて魔力を練ってみろ」
言われるままに目を閉じる。魔力は血液と同じだと私に魔法を教えてくれた先生は言っていた。血を巡らせるように、魔力を身体に行き渡らせるのだと。
「少し無駄が多いが……まぁいい。その状態のまま、頭に家を思い浮かべるのだ」
「家……」
お主が望む、お主が過ごす家だと彼は言う。
そう言われて最初に浮かんだのは、城の自室ではなく、前世で学生の頃から住んでいた、アパートだった。一人暮らしには少し広い1LDK。2階建て6戸で、オートロックでセキュリティがしっかりしたアパートだった。私の部屋は南向きの日当たりのいい1階角部屋。カウンターキッチンの、三ツ口コンロ。少なくとも四年は住むのだからと、探す時にこだわった広めのお風呂。駅から少し離れた、静かな場所。
「目を開けてみるといい」
そう言われて目を開ける。先程はなかった影が視界にかかった。顔を上げると、木々が生い茂っていたはずのその場所に、見覚えがありすぎるアパートが建っていた。
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