かえらずのもり?
突然大の男に泣かれ、動揺せずにいられる人間はどれくらいいるだろう。少なくとも私にはそこまでの心臓が備わっていなかった。驚いて、手の平に集めていた魔力が霧散する。エルフの唇が小さく動く。何を言っているのか、私には聞こえなかった。
「イエルヴァ……?」
エルフの異変を感じ取ったのは私だけではないらしい。他の二人も、無言で身動きひとつしない仲間に疑問を抱いたのか、彼の方を伺い見て、濁流のように溢れる涙に気づき、驚いたような顔をした。
「ど、どうした?何か悪いものでも食ったのか?」
クラウスと呼ばれていた青年が、エルフの男性に声をかける。白い虎の飼い主――リートと呼ばれた青年は、棒立ちで涙を流しているエルフと私を交互に見比べて、それでも状況が理解出来ないのだろう、頻りに首を傾げていた。
「イエルヴァ、なぁって、うぉっ!?」
エルフの傍にいた青年が、棒立ちのエルフの肩を掴む。次の瞬間、なぜだか肩を掴んでいた青年は地面に転がっていた。
「失礼――お見苦しいところをお見せいたしました。よろしければ、名前をお教えいただけないでしょうか」
青年が投げ飛ばされたのだと理解した時には、棒立ちだったはずのエルフが、まるで騎士のように膝をつき、私を見上げていた。
これは一体どういう状況なのだろう。訳が分からない。城にいた時だってこんな態度を取られたことはなかったのに、どうして。まさか一目で正体を見抜かれたとでも言うのだろうか。だとしても、国から逃げ出した王子に、はたしてこんな態度を取るだろうか。
「イエルヴァ、落ち着け。彼女が引いているぞ。いいのか?」
「! 申し訳ありません!ご無礼をお許しください」
「ええと、いえ、お気になさらず……?」
至近距離にいたせいか、今度ははっきりとエルフの声を捉えることが出来た。
みこさま。
その言葉が指す意味を測りかねて返答に困る。仲間であるはずの青年に視線を向けても、彼らも困った顔をするばかりで状況を把握出来ずにいるようだった。
「あの……立ってください。出来れば、ふつうにしてほしいです」
「はっ」
恐る恐る声をかければ、まるで忠義に篤い臣下のような反応が返ってくることに戸惑う。居心地が悪くて身が竦みそうになるのを耐えながら、エルフの男が立ち上がるのを待つ。
足元に兎が寄って来て、私を慰めるように鳴いた。狼も、鳥たちも心配そうにこちらを伺っている。自分の味方がいることを思い出して、少なからず安堵した。小さく深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。大丈夫。いざとなったらみんなと一緒に逃げればいい。そう考えると重かったはずの感情が少しばかり軽くなった。
感謝の気持ちを込めて傍にいる動物たちを撫でる。帰ったら、バルコニーでみんなが好きな野菜を出してあげよう。そのためにも早くこの場から離脱しなければ。気合を入れて三人に向き直り――
「ひえ」
反射的に後退った。
エルフの男が、瞬きもせずこちらを見ている。眼力が、否、圧がすごい。あまりの迫力に、鬼気迫る雰囲気とはこういうことを言うのかなぁ、なんて取り留めのないことに思いを馳せてしまった。
「イエルヴァ、落ち着け。彼女が戸惑っている」
「マジでどうした?魔素酔いでも起こしたのか?」
なんとか他の二人がエルフを宥めてくれている。また一歩後退ると、彼らとの間に白い虎が入ってきてくれた。壁になってくれるらしい。そっと背中を撫でると、虎が嬉しそうに喉を鳴らす。まるで大きな猫のような仕草に、ほんの少し頬が緩む。
彼が口にした言葉に、心当たりがないと言えば、噓になる。
私のステータスには、文字が塗り潰されて読めない部分があった。彼の言うみこは、もしかしたら、そこに当てはまるものかもしれない。でも、本人すら知らないものをどうして初対面の彼が知っているのか分からない。聞けば答えてくれるのかもしれないけれど、彼の仲間がいる手前、それをするのは躊躇われた。
「それで君は、どうしてここに?ここはかえらずの森、子供一人で来るような場所じゃないんだが」
エルフをもう一人に任せ、白い虎の飼い主が話しかけてくる。話のなかに、聞き覚えのない単語が出てきて、思わず首を傾げた。
「かえらずのもり?」
「そうだ。……知らずにここにいたのか?」
問いかけられて、素直に頷く。ナイアーはこの場所を異形の森だと言っていた。帰らずの森、なんて物騒な名前は聞いたことがない。問い返したい気持ちもあるが、口を開くと余計なことまで零してしまう気がして、首を横に振るだけに留める。
私の反応を見た飼い主が眉を寄せる。私は私でどうすればこの場をうまく切り抜けられるのか、それを考えるのに夢中になって、周囲に気を配ることを忘れていた。
「探したぞ」
「!?」
不意に背後から声が聞こえて、足が地面から離れる。抱き上げられているのだと分かって、身体が強張った。
「リオ」
「……ナイアー?」
耳元で囁かれた名前。きちんと意識してみれば、それは聞き慣れた声だった。背後に視線を向けると、黒い髪に赤い瞳の、この世のものと思えない、いっそ冷たさすら感じさせる美貌がそこにあった。
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