奥の――
「もーぉいーいかい」
「まーぁだーだよー」
広く開けた草原で、はしゃぐ子どもの声がする。きゃあきゃあと楽しそうに、嬉しそうに、あっちへこっちへ、走り回っている。奥には森がある。深い森だ。子どもたちはケラケラと笑いながら、そちらに向かって走っていく。だって今はかくれんぼをしているから。みんな、しっかり隠れなくちゃいけないから。
「もーぉいーいかい!」
「まーぁだーだよー!」
さあ、隠れる場所を探そう。
手を回したって届かないくらい太い幹の木の後ろへ。先の尖った岩が折り重なっている、その陰へ。鬱蒼と生い茂った長い草の間へ。無造作に打ち捨てられた枯れた藁の中へ。
それから――
「もーぉいーいかい!」
「まーぁだーだよー!」
――草を掻き分け進んだその先に、ぽつんと取り残された、その奥へ。
吸い込まれるほどに暗くて、いくら目を凝らしても闇ばかりが広がる、その奥の、奥の、奥の、
「もーぉいーいかい!」
「――もぉいいよぉ」
奥の、い――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「うぅーーーーん……」
上野灯里は困っていた。見渡す限りの、木、木、木。おもむろに手に持った地図を広げ、周囲の風景と比べようとしてみたものの、視界入るのは緩急も無い地面と、先も満足に見通せぬほどに伸びた木だけなのだから、意味が無かった。
端的に、かつ的確に、灯里の状況を表そうとするならば、たったの二文字で事足りる。
「遭難――」
ぶる、と首を横に振った。
「いや、いやいや。まだ決まったわけじゃないもんね。うん」
携帯を開き、時刻を確認する。これは雲行きが怪しいぞ、と思ってから、かれこれ二時間は経っている。電波マークは無い。携帯は、時間を確認するためだけの機械になっている。
まだ確定ではない、なんて否定の言葉を口にしてみたものの、さすがの灯里も自分の置かれた状況はわかっていた。
「うー、なんだって、こんなことに。ねえ神様、ちょっと横暴過ぎない?」
天を睨みつけるが、当然ながら、返ってくるものは何も無い。わかってたけどね、と肩を落としながら、灯里は再び足を動かし始めた。
こうして歩いているのは、自分が山なのか森なのかすらわからない場所から抜け出すため、だけではない。
――妹を探しているのだ。
急に、「おねえちゃん、かくれんぼしよ」と言うなり走り出してしまった妹。なぜあの時、手を掴んで引き止めなかったのか、と今更ながらに後悔する。怖いのは、自分だけではない。この場所のどこかで、妹もまた心細く思っているに違いなかった。
「……よし!」
ぱん、と太腿を叩き、気合いを入れ直す。くよくよしている場合じゃない。
それに、これでも無闇矢鱈に歩いているわけではない。音が聞こえる方向へひたすら歩いている。灯里の耳には、もうだいぶ前から川のせせらぎが聞こえていた。
なにかの番組のどこかのコーナーで、山で迷った時は川に沿って歩けばいいと聞いたことがあるような気がする――あれ? 山かな。森だったかも――まあこの際、どっちでもいいか。妹も姉と同じことを思い出して、そちらに向かっているかもしれない。それが重要だ。
音はどんどん近くなる。一筋、目の前に降りた蜘蛛の糸を手繰るように、必死に音を追う。
急に視界が開けた。
「み、つけた……」
はっ、はっ、と肩で息をしながら、からだについた葉っぱを手で払う。
「川だぁ」
思わずへなへなと座り込んだ。這いずるように川縁に進むと、救いを求めるように手を伸ばした。そっと水に触れる。ひどく冷たい。ああ、気持ちいい、これは、なんて――ぞっとする冷たさなのか。
くすくす……
どこからか、小さな子どもの笑い声がした。反射的に手を引っこ抜く。
水滴がぱたぱたと地面に散らばる。
「っ……――」
胸が苦しい。気づけば灯里は、息を止めていたらしかった。大きく息を吸い、吐く。何度か繰り返すと、ようやく指先にほんのりと温かみが戻ったような気がした。
笑い声はもう聞こえない。一瞬、妹かと思ったが、それなら姿を現してくれるだろう。いや、そうでなくとも、誰であれ声くらい掛けてくれるはずだ。だからさっきのは――そう、風で葉が擦れる音を声と錯覚したに違いない。そうでないなら、……いったい、なんだというのか。
灯里は、濡れた指先をもう片方の手で包むと、ゆっくりと立ち上がった。川の流れを見る。流れが進む方向へ向かえば良い。そうすれば人里に降りられるはずだ。途中、妹にも会えるかもしれない。いや、会えるはずだ。淡く、強く、そう願った。
しかし。
視界の先で、川はぶつりと切れていた。正確には切れているわけではなく、続いている。下に。勢いよく落ちていた。灯里では、とても降りられない高さだ。
「どうしよ」
これに妹が気付かず、あるいは足を滑らせでもしたら――嫌な想像をしてしまい、灯里はそれを振り払うように首を振った。
川は、希望だった。今更、わざわざ離れる気にはなれなかった。精神的にも、体力的にも。
「……向こうへ行って、みようかな」
何故そう思ったのかは、灯里本人にもわからなかった。ただ、もうそれしかない、と思った。導かれるように。
――川上へ進め、と。
誰かが灯里に、囁いた気がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そうして進んだ先に建物を見つけた時、灯里は思わず小躍りした。あの声に従った自分は正しかったのだ!――いや、待て、あれは声ではなかったのではないか――。ふ、と疑問が頭をもたげたが、長く歩いたことによる疲れと、それが報われるかもしれないという期待を前にして、すぐに掻き消えてしまった。
建物は昔ながらの形状をしていた。とんでもなく大きいわけでもなく、かといって小さいわけでもない日本家屋だ。見たところ、もう随分古くから建っているのだろう。壁面は燻み、薄汚れた色をしていたが、古いなりに大事にされていることがわかる。灯里は直感していた。ここには、人がいるのだと。
――自分と同じ、ひとが。
灯里は、建物の扉へ手を伸ばした。
「そこで何してる」
「ひゃ!」
突然聞こえた男の声に、びっくんと肩が震えた。心臓が飛び出るかと思った。ばくばくと鳴る心臓を押さえるように、胸に手を置く。
「だだだだだれ!?」
勢い良くばっと振り返ると、そこには黒いパンツに白いシャツ姿の男が立っていた。
(うわ、こんな綺麗な顔した男の人、ほんとにいるんだ……)
作り物のように整った顔をした男だ。大学生の灯里と同世代に見える。つい、見惚れてしまった。
「誰、ねぇ」
男の声にハッと我に返る。
彼は、答え難いことを訊ねられたかのように、頭を掻いた。眉間に寄った三本の皺と、面倒くさそうに歪められた口元が、整った顔を台無しにしている。
「そうだな……ここの持ち主の知り合い、とでも言っておこうかな」
「ここの? ああ、なんだ。それなら大丈夫だね」
男は、ちらり、と灯里を見た。
「なんでそう思う?」
「え、だって……――あれ。なんで、だろ」
急な目眩に襲われ、灯里はこめかみに手を当てた。ぐるぐる、ぐるぐる。世界がまわり、平衡感覚が狂う。このままじゃ、だめだ。目をきつく閉じた。それでも頭の上の方で、世界が回転しているように感じる。
自分がどこか、間違った場所に迷い込んでしまったような――。
「――うか、まだ完全には、……――のか。……なら――」
ぼんやりする意識の中で、声が届く。声はやけに反響していて、上手く聞き取れなかった。その所為で、灯里にはそれが男の声なのか、それとも、あの笑い声なのかわからない。――ちがう、違う。あれは、笑い声ではない。笑い声なんて、聞いていない。――本当に?――そうだ――でも、じゃあ、あれは――その答えを、灯里は知っている。そのはずだ。そうだ、あれは子どもの、彼らの――彼らって?――それは、奥の……おくの、たくさんの――そうだ、奥。奥には、わたしの、い……
後頭部に、ばちん、と衝撃が走った。遅れて、じんわりと痛みが広がる。
「いっ……たあぁい!」
「それだけ声が出せてりゃ問題無い」
「問題無い……ってどこが!? 女の子の頭を殴るって問題だらけだよ!」
「……もう少し元気が無くてもいいくらいだ」
なんて失礼なやつなのだろう。こんなやつに一瞬でも見惚れたなんて、先程の自分を殴ってやりたい。灯里は唇を尖らせた。
こちらが真剣に怒っているというのに、本人は飄々としている。そのことが更に神経を逆撫でた。
「で、どうやってここに?」
「どう、って。……なんで言わなきゃならないの」
質問に素直に答えることが嫌になって、ふいっと顔を背ける。ちょうど、視線が建物の玄関を捉えた。直後、背筋に冷たいものが走った。
「ひっ……」
引き戸の横、薄汚れた柱。そこに備え付けられた表札が黒く塗り潰されていた。まるで幼い子どもが悪戯したかのように、無邪気に、無造作に。子どもがそれをした時の笑い声が、今にも聞こえてきそうだ。その情景が容易に浮かんでくる。ひとりの女の子が、何かを持っている。それは黒いクレヨンだ。半ばで折れて、もはや残り僅かなそれを、普通なら捨ててしまってもおかしくないようなそれを、女の子は浅黒く汚れた手で握り込んでいる。
くすくす……あは……あはは……
笑い声がする。その中で、女の子は手を伸ばす。指先が黒かった。
――どうして手が届くんだろう。
引き戸の上部に揃うように配置された、木製の表札。
こんなところ、ひとりの小さな子どもの手で届くだろうか。
――いや、そもそも、これは想像だ。なんの根拠もない。なのにどうしてか、灯里は知ってしまっているのだ。これは彼女がしたのだと。
手が届いたのは、踏み台を使っているからだ。人の形をした踏み台を、たくさん、たくさん使って、彼女はこれを塗り潰したのだ。
だって、ここは彼女の家なのだから。他のものは、全員オトモダチで、全員メシツカイ。
彼女こそが、ここの主人なのだ――。
ついさっきまではなんともなかったはずの薄汚れた家屋が、今はひどく怖いものに映った。どうして自分はこんな恐ろしい場所に平気で入ろうなどと思ったのだろう。
また脳裏に少女が現れる。慌ててぶんぶんと頭を振った。
「あ、あぁ、私、その……」
嫌な想像を自分から切り放そうと、灯里は男の質問に答えることにした。不遜な男と話をしている方が随分とマシだ。
「に、西浦の山道で、急に道が途切れて……。もう三時間も歩いてるの。足がくたくたで……それで、あの……ぐ、偶然ここに」
胸の前で両手を組み、ぎゅうと力を込める。そうして、手の震えを隠そうとしていた。声も震えていたはずだが、男はそれを指摘しなかった。
「へえ、西浦? そこからこの家は、三時間じゃ普通、辿り着けないけどな」
「え、でも……」
実際、携帯の時間も――鞄から携帯を取り出し、画面を見る。え、と再度声が漏れた。
時間が違う。
否。時間どころか、日付も……迷った日の、三日後になっていた。そんなわけはない。だってあれから食事も睡眠もとっていないのに。空腹感なんてなかった。眠気とも無縁だ。あるとしたら、足の疲労感だけ。
携帯が壊れているんだ。
灯里はそう信じ込もうとした。
それを邪魔するように、子どもの笑い声がする。彼女だ。家のなかからこちらを見ている。骨に皮を貼り付けただけの手足。一切の肉を削ぎ落としたかの如く、痩けた頰。それらとは不釣り合いな、風船のようにぶくりと膨れた腹。
わかる。知っている。あれはもう生きていない。
――なのに、どうして。
黒く窪んだ眼窩の奥に潜んだ目が、じっとりと灯里を見ていた。
――なのに、どうして、彼女は笑っているのだろうか。
はやく、はやくきて。彼女は灯里を急かしている。不気味にはしゃぐ声に、つい身体が傾きかける。ちがう、だめだ。そっちに行っちゃ、だめ。灯里はきつく唇を噛んだ。
表情を強張らせた灯里を見て、男がため息混じりに呟いた。
「――そこで隠されたわけか」
「かく、された?」
「正気に戻って命拾いしたな、あんた」
「どういう意味……――って、ちょっと!」
おもむろに扉へ手を伸ばした男に、慌ててしがみつく。
「何やってんの! なんで開けるの!」
笑い声が強くなった気がする。あどけなく、幼気な響きを持つ声。囃し立てるような声。そこにははっきりと歓喜が滲んでいる。幼いのに、ひどく嗄れた声が、頭に響く。灯里は男のシャツを皺が寄るほど掴みながら、自分の頭を掻きむしった。彼女は言う。はやく、さがしにきて――。
「駄目だよ! ここは彼女の家なのに! 見つけちゃだめなのに!」
あの子を見つけてはいけない。激しく警鐘が鳴っている。がんがんと。頭が割れてしまうのではないかと危惧するほどに、強く、強く。激しい頭痛の波に、嗄れた笑い声が重なる。灯里は頭を押さえながら、思わず、うううぁ、と呻いた。
ふう、と目の前の男がため息を吐く。
「……と言われても、俺は掃除屋なんでね。ここの持ち主に頼まれてるから、中を掃除しなきゃいけないんだよ。しかしまあ、よく考えたらあんたをここに置いていくのも、問題だな。一応、まだ生きてるみたいだし」
「なっ、人を勝手に殺さないでよ」
自分で口にしておきながら、殺す、というワードに寒気がした。ぶるりと身体が震える。
「そ、それに、私は――!」ああ、そうだ。すとん、と落ちてくる。自分の使命。どうして忘れていたのだろう。自分が怖いからって、あんまりだ。指先に込めた力が、ふっと抜ける。「い、いもうと、わたし、妹、私の妹、を」
さがさなくちゃ。
譫言のように口にしながら、灯里は自分の言葉に猛烈な違和感を覚えていた。
自分が本当に探していたのは――
片手で男のシャツを緩く掴み、もう片方の手を口に当てたまま目を見開く。
ぽつん、と声がこぼれた。
「妹がいるの。奥に」
それだけ口にして、じっと黙り込んだ灯里を見下ろして、男は、はあ、と大きなため息を吐いた。
「この家の中にいんのか、あんたの妹は」
「……そう」
「なら、どのみち一緒に行くしかないよな」
灯里は渋々頷いた。憎たらしいが、確かに彼の言う通りだ。
幸いにも頭痛はすっと鳴りを潜めたようだった。これなら平気だ。問題無く動ける。
――あれ? 動いて良いんだっけ……?
嵐が過ぎ去った後のように、凪いだ思考回路。指先を、こめかみに当てる。痛くない。もう何も。
ぼうっと地面を見つめる灯里は気付かなかった。
にたり、と。男の端正な顔が歪んだことに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
不気味な家は、入ってしまえば普通の家と変わらなかった。
障子も襖も破れていたが、年季が入っているからこその崩れ方に思えた。
「平気そうだな」
「え? うん」
そもそも、なぜ自分は、あんなにここに入ることを怖がっていたのだろうか。ただの古民家と変わらないのに。
むしろ、なんだか探検みたいでわくわくする。一人ではないという部分が大きいかもしれない。一人きりは、やはり不安だから。
そう、だから、仕方がないのだ――。
ふ、と家の柱に視線を向けると、目線の高さに、札が貼ってあった。達筆すぎて、灯里にはなんと書いてあるのかわからない。真新しい白色の紙。これだけが、やけにこの家から浮いていた。
「なんだろ、これ」
なんとはなしに手を伸ばすと、男はバシッと彼女の手を払った。なにすんのよ、と文句を言うより先に、男から冷たい目を向けられる。
「――呪われるぞ」
低く、唸るような声に、灯里は言葉を失った。日常生活の中においては、チープな揶揄い言葉に似たソレは、何故だかこの場においては、まったく別次元の言葉として響いた。灯里が息を呑んだ瞬間に、部屋の隅で、ぞわり、と何かが蠢いた気がした。その一言だけを残してさっさと先に行ってしまった男の後を慌てて追う。距離を詰めて、ようやく、ふう、と息を吐いた。
「どうかしたか?」
「……べ、別に」
廊下には、物が散乱していた。男は時折、行儀悪く足でそれらを退かしながら、奥へと進んでいく。
奥。
はやくいかなきゃ、という気持ちと、みつけてはいけない、という気持ちが綯交ぜになる。混ざり合って、曖昧になる。足が竦む。同じくらいのパワーで、前に進む。
(……あれ。そもそも私、なんでここにいるんだっけ……)
くぁん、くぁん、と音が鳴る。
それが警鐘だと灯里は知っているのに。
それなのに。
――なにを、さがしているんだろう。
「ここだ」
男の声が、灯里を引き戻す。
ハッとなって前を見ると、立派な襖が並んでいた。他の古びた場所と違い、ここだけは綺麗な状態が保たれている。あまりにも綺麗だ。
開ける、とも言わず、男は無言のまま襖を左右に思い切り開いた。広がる畳も美しい若葉色で、色褪せも見られない。
「きれい……」
思わずするりと言葉が出てきた。ほう、と感嘆の息を吐く。
ちら、と男は灯里を見た。しかしすぐに興味を失ったようで、視線を部屋の奥へと動かす。灯里もまた、そちらへ目を向ける。奥にはずらりと、人形が並んでいた。彼らは一人残らず、灯里たちを見ている。端から十を数えたところで、灯里は彼らの人数を把握することを諦めた。数えきれないほど、たくさんいる。
そのことに、ほんのりと、安堵を覚えた。
――いや、そんなことよりも。
「おねえ、ちゃん」
鈴を鳴らしたような、可愛らしい声がした。見ると、部屋の中央に少女が一人立っている。
綺麗な赤い着物を纏い、簪を挿した女の子。白い肌はつやりとしている。彼女は嬉しそうにふわりと笑った。
「おねえちゃん!」
――妹だ。
まるで何かに弾かれたように、灯里は彼女に駆け寄った。その小さくほっそりとした体躯を腕の中にしまいこむ。
「よかった、やっと会えた! 本当に、本当に無事でよかった」
ぎゅう、と強く抱き締めて、妹の名を呼ぼうとし、止まる。
――あれ?
指通りの良い髪の間から見える、自分自身の指先を凝視した。そこから自分の中を浚うように、じいっと。
自分の腕の中にいる、この子の名前が思い出せない。――いや、違う。そもそも名前なんて知らない。そうだ、知るはずがない。
だって。
(わ、たしの、いもうと……ちがう。ちがう、違う! 私、妹なんて――――――いない)
さらりとした髪が変化する――否。これも違う。元に戻るだけだ。本来の、本当の、姿になる――黒い髪は捩れ、汚れ、艶を失い、ばさばさに乾いた髪の毛が灯里の指に絡まっている。声にならない悲鳴をあげてその場から飛びのこうとするが、彼女の髪は既に灯里の肘あたりまでまるで蔦のように這っていた。
「おねえちゃん、どうしたの? あはは」
嗄れ声に引っ張られるように、自分の正面へ視線を戻す。そこに、先程までのふっくらした頰はなかった。枯れ木のような身体。窪んだ眼窩からぎょろりと飛び出した眼が、じっとこちらを見上げている。
「あ、……あ、あ……っ!」
悲鳴を。
あげることさえ、できなかった。
後退りすることも、満足にできない。
「ねえ、おねえちゃん」
ひたり、と。彼女は灯里の身体に、いやに冷たい手を押し付ける。ドッドッドッ、と心臓の音が大きく響く。
――みつけてしまった。
――もう、にげられない。
「ぁ……」
自分の荒い息遣いと、彼女の笑い声が混じる。
「これで」
にっこりと、厭らしく、ソレは嗤う。
「これから、ずぅーっと、いっしょ、だねぇ」
ひ、と漏れた悲鳴が、隠された。
――パァンッ
軽い爆発音。一拍遅れて、悍ましさすら覚えるほどの、引き攣った悲鳴が響き渡る。
「ギィヤアアアッ!」
彼女と灯里の間に、焦げ臭いにおいが広がる。彼女がもんどりを打って倒れた反動で、灯里の身体は後方へと投げ出され、そのまま尻餅をついた。腕にはまだ黒い毛が絡みついている。ただし、その先は焼き切れたように縮れていた。
「やっ、いや!」
それらを擦り取るように左右の手を動かしながら、同時になんとかして目の前の彼女から距離を取ろうと、座り込んだまま足で床を蹴り、必死で這いずって後退する。後から思えば、立ち上がって逃げた方が余程早かったのだろうが、その時は恐怖によって頭が回らなかった――ただし仮に思いついたとしても、腰が抜けていた灯里に、そうすることは不可能だったが――。
とん、と背中に何かが当たった。
「ひ!」と短く悲鳴を上げた直後、頭のてっぺんに鋭いチョップが落ちた。
「い――ッ!?」
「落ち着け、阿呆」
痛みを声にできずにいると、頭上から呆れを隠そうともしない冷たい声が降ってきた。その声はいとも簡単に灯里をすくい上げる。
は、と息を吐き出し、大きく吸い込む。身体中に酸素が行き渡る感覚。びりびりと指先が痺れた。現実感を取り戻した身体を、ぎゅう、と抱き締める。ふうううう、とゆっくり息を吐く。
恐る恐る前を見ると、彼女は未だに地面に伏せていた。獣のような声を発しながら、もがいている。下半身を拘束している紐状のものから逃れようとしているようだった。その紐は、男の手元へと伸びている。
「うあああああああ……!」
慟哭。あるいは咆哮か。彼女の叫びに呼応するように、背後の人形がガタガタと震える。今にも動き出しそうだ。
「あー、はいはい。わかった、わかった」
怯える灯里とは対照的に不遜な態度を一向に崩さない男が、ぐいっと紐を引っ張った。つんざくような悲鳴が屋敷を揺らす。
彼女の背後に、ぼんやりとした光が出現する。彼女の身体はその光に寄せられて、ずずず、と動く。どうやら彼女はそれに抵抗しているようだった。細い指を古びた畳に突き刺している――先程までは綺麗に見えていた畳は、そこらじゅうが痛んでいる上に、なにかによって穿たれた形跡が複数残っており、色も燻んだものに変化していた――。
歪に折れ曲がった指が、痛々しい。
無意識のうちに口元を手で覆う。
「……ん」
――か細い声が、正面から届いた。
初めはもごもごとこもっていた声が、次第に鮮明になるにつれ、灯里の身体は凍りついていく。
「おね……ちゃ、……ね……ちゃぁん」
ぎぎぎ、とぎこちなく動いた顔が、灯里を捉える。
――タスケテ。
あまりにも悲痛な声。
目の前の少女は相変わらず不気味な姿をしているのに、恐ろしさよりも、ひどく不憫だという思いが先に立つ。
彼女の身体はやはり骨と皮だけで、お腹だけが異様に膨れている。表情なんてろくにわからない。それなのに何故だか泣いているように思えた。
這いつくばった状態のまま、彼女は片方の手を、灯里へと伸ばした。
「……あ」
反射的に前に出した手を、男がパシンと掴んだ。
「同情してんなよ。だから取り込まれかけてんだ。またさっきみたいになるぞ」
さっきみたい。
その言葉を反芻する。おかしいものを見る自分。おかしいことがわからなくなる自分。きっとあのまま進んでいたら、二度とこちら側へ戻ってこれなくなっていたであろう、自分。
背筋を冷たいものが走った。
黙り込んだ灯里に、わかればよろしい、とばかりに肩を竦めた男は、掴んでいた紐を思い切り引いた。少女が光に飲み込まれていく。
「――アアアアアァ! どォしてェー! やっと、みつけて……くれたのにィィィ――」
最後に言葉を残して、その姿は完全に消え失せた。そこにどんな感情が潜んでいたのか、灯里は意識的に考えないように努めた。
その傍らで、男がぶつぶつ言っている。
「ああ、しまった。少し獲り損ねたか……。ま、上等か」
残ったのは静寂。先程までの、奥に何かが潜む気配がする静けさとは違う。本当の意味での静かさ。変わらず部屋に並ぶ人形たちも、今はもう灯里たちを見ていない。ただそこに置かれているだけだ。
終わった。助かった。
なのにどうしてだろう。こんなにモヤモヤするのは。
灯里は、畳に残る引っ掻き傷をそっと眺めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――とりあえずここは落ち着いたから、先にあんたを人里まで送る。
男に言われるがまま、灯里は今、あの建物を出て歩いている。
一歩分だけ前を歩く男は、先程の現実味の無い現象などまるで知らないかのような態度で、さくさくと足を動かしていた。
そもそも、この男は何者なのだろう。
冷静になってみると、今更のように不安になってきた。助けてもらったとはいえ、それが、イコール味方だという保証はどこにもない。
この男も、少女と同じようなものだったらどうしよう。ごくり、と唾を飲む。
「……ああ、そうだ」
唐突に男が口を開いた。
「あんた結局、本当のところは、どうして迷い込んだんだ?」
「え? だから、それは――」
妹が急に、と口にしようとして、思い直す。それは、本当の理由、ではない。偽りの記憶によるものだ。ゆっくり紐解くように、その時のことを思い出す。
「――道を歩いていたら、目の前にあの子が立っていて」
思い起こせば、邂逅直後は危険信号が鳴っていた。それはすぐに、別のものにすり替えられてしまったけれど。
「かくれんぼすると、いつも見つけてもらえなくて寂しい。だから、見つけて欲しい、ってお願いされて。思わず頷いちゃって。そしたらいつの間にか、私の中で、妹を探してる、ってことに……」
「あー、なるほど。オトモダチの次は、カゾクが欲しくなったってわけか。つか、あんたもさ、いくら耐性も経験も無いったって、明らかに怪しいモンに軽々しく返事するなよ」
「だ、だって、小さな女の子を無視するってちょっと人間としてどうかなって思うでしょ!?」
「そこで既に術中に嵌ってんだよ」
ばっさりと切り捨てられた。それでも何か言い返す言葉を探して、はくはくと口を動かしていた灯里だったが、助けられた手前勝ち目は薄いと判断し、話題を変えることにした。
「あ、あなたこそ、掃除って。あんなところを掃除するの?」
「掃除は掃除でも、箒で掃いたり雑巾掛けしたりするわけじゃない。あーいう輩を退かすのが、俺の仕事。依頼主はさっきも言ったけど、あの家の本来の持ち主だ。あれを取り壊そうとする度に何度も事故が起きるし、人が消える。いよいよもって気味が悪くなって依頼してきたって腹だ」
もっと早くに依頼してくれたら、だいぶ楽だったんだけどな、と男は毒づく。
彼女は、あの家の主だった。少なくとも、本人はそう思っていたのだろう。だから表札を塗りつぶしたのだ。
「元々あの家の子どもだったのか、たまたま流れ着いてそのまま居着いちまったのかは、今となっちゃわからないけど」
「居着いた?」
灯里が、ぱちり、と目を瞬かせると、男は肩越しに彼女を一瞥した。
「たぶんアレは、口減らしで捨てられた餓鬼だ。親か兄弟か、誰だか知らないけど、かくれんぼ、と言われて隠れてたんだろうな。死ぬまで。……なんなら死んでからも」
ずっと。
その言葉が、ずし、と心に伸し掛かる。
自分は――見つけてあげるべきだったのだろうか。
俯き加減になった灯里の前で、男がぴたりと足を止めた。今度はしっかり振り向き、「勘違いすんなよ」と釘を刺す。
「いくらカワイソウでもな、手ぇ出しちゃいけないゾーンに両足ずぶずぶ入ってんだから。見たろ、あの人形の数。あれ全部、やつが隠した元人間のオトモダチだ。あんた、あのままいたら仲間入りだったんだぞ。ま、はじめてのカゾクだから、特別待遇はしてもらえたかもしれないけど」
「い、要らないよ、そんな特別待遇!」
「だろ?」
わかったら、さっさと忘れろ。
そう言わんばかりの眼差しで灯里をひと睨みした男は、再び灯里に背を向けて歩き始めた。
――気を遣ってくれたんだろうか。
ふとそんなことを思う。
口は悪いしすぐに殴ってくるけれど、家の前でも、中に入ってからも助けてくれた。悪い人間ではないのだろう。不思議な力を持つ彼なら、灯里のことを無事に人里まで連れて行ってくれるに違いない。
「あ、あの、さぁ」
せめて御礼を。
そう思って口を開いてから、不意に気付く。
――それにしたって、どうして彼はこんなにも冷静なのか。
掃除屋、と名乗っていた。俄かには信じがたいが、霊的なものを相手にしているらしい。だから慣れているのだ、と言われたら、確かにそうなのかもしれない。
でも。
「――いつから、掃除、してたの?」
「ん?」
「あのお家。初めて入った時の歩き方じゃなかったよね。奥の部屋がどこなのか、迷う素振りすらなかったし。廊下だって、あんなに物があったのに、私たちが歩く場所にはほとんど無かった」
それにきっと、あの真新しい御札だって彼のものだ。
彼は何度も、あそこを行き来しているはずだ。あの子を掃除するために。
では、どうして灯里が来るまでに掃除が終わらなかったのか。
く、と男は笑った。
「なんだ。馬鹿のくせに、意外と見てんのか」
「誤魔化さないでよ」
前を進む背中を睨む。しばらくそうして睨んでいると、面倒になったのか彼は少しだけ肩を竦めた。
「まあ、要はあれだ、囮ってやつだな」
「お、おとりぃ……?」
嬉しくない響きだ。
腕を天へ突き出しながら伸びをしている男は「ぶっちゃけさぁ」と話し始めた。
「何度家ん中を探し回っても、取り巻きしか出てこない。いよいよ期限も迫って困ったなって時に、あんたが来たんだ。いい具合に術にかかってたし、それまで隠れてばっかだった親玉の気配もしたし、ちょうどいいと思って。で、餌ぶら下げたら、案の定出て来た。よっぽどあんたに会いたかったんだな、あれ」
肩越しに振り向き、男は、にたり、と笑う。あまりにも悪びれない態度なので、怒るタイミングすら失う。
「ま、結果オーライだろ。結果的に生きてんだから」
「待った! 結果的に死んでるパターンがある!?」
「むしろ俺がいなきゃ、そのパターン一択だろ」
状況わかってんのか。
ため息混じりに言われて、うぐ、と呻く。反論はできなかった。
「それは……どうも……ありがとうございマス」
ぴた、と男が足を止める。彼はしげしげと灯里を見た。
「あんたさぁ」
「な、何?」
「ほんと、そんなだから憑かれるんだ」
「余計なお世話だから! それにこんなこと滅多に無い、っていうか、もう二度と無いし!」
「……どうだかな」
小さな言葉を拾ってしまい、灯里は、え、と声を漏らす。男の背中が、前方に迫っていた光の中に消えていく。
「まって、どういう意味?」
眩しさに目を細めながら問いかけたが、返答が無かった。ようやく明るさに目が慣れる。そこはもう、木々の中ではなかった。長閑な田舎風景が広がっている。戻ってきたのだ、と瞬間的に理解した。
自然と、涙がぽろぽろと流れた。
それをごしごしと乱暴に拭きながら、男に呼び掛ける。
「あの、本当にありがとう。ていうか、あなたいい加減、名前くらい教えてくれたって――あれ?」
後ろにも、前にも、横にも。
彼の姿はどこにもなかった。幻だったのではないかと思うくらい、忽然と姿を消してしまった。
あの男もまた、幽霊の類いだったのだろうか。それにしては――とても、人間らしかったけれど。
眉を寄せる灯里に、その傍を通りがかった人が「あんれー!?」と駆け寄る。
「あんたっ、上野灯里さんかい?」
「え? そうですけど……」
どうして、私の名前を?
首を傾げた灯里は、そこで初めて、自分が行方不明扱いになっており、大々的に捜索活動がされていることを知ったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その後しばらくの間、灯里の周辺は慌ただしかった。
何をしていた、と問われても、歩いていた、としか答えられない。食事は? 睡眠は? 風呂は? 矢継ぎ早に様々な質問を浴びせられたが、彼女はそのどれにも満足に答えられなかった。答えたところで、信じてもらえるとは思えない。
煮え切らない灯里の態度と、数日間歩いたにしては綺麗な身なり、これといって問題が見当たらない健康状態から、「普通にどっか、男ん家にでも泊まってただけだろ」「どうせ思ったよりも大ごとになって、言い出せなくなったんだって」「そんなにしてまで目立ちたいのかよ」などの誹謗中傷が湧くことも多かった。最近になってようやく、別のニュースに押しやられて消え去りつつあることが救いだ。人の噂も七十五日、とはまさにこのことか。
噂をできる側は、幸福だ。そうやって、忘れられるのだから。
――あのできごとが、いったいなんであったのか。
それを答えて欲しいのは、本当は灯里の方だ。
大学の廊下を歩きながら、はあ、とため息を吐く。
せめて、あの男を見つけられたら――
ふ、と。
すれ違った男に、視線が奪われる。
野暮ったい格好。少し猫背になっている身体。俯き加減の顔。
どれをとっても、彼とは似ても似つかない。
なのに。
考えるよりも先に、灯里は男の腕をがしっと掴んでいた。
「見つけた!」
覗き込んだ先にあった瞳は、余程驚いたのだろう、真ん丸くなっている。その輪郭が、あの不遜な態度の男と、ようやく噛み合う。同じ歳の頃だとは思っていたが、まさか同じ大学とは。幸運なのか、不運なのか。少なくとも今、灯里はそれを幸運だと思っている。
男の丸くなった目が、だんだん半眼に変わっていく。
「あんたさ、やっぱ馬鹿なんだろ。スルーしなきゃいけないとこだろ、これは。なに自分から巻き込まれに来てんだよ」
「そんなの知らないよ! あなたは急に消えるし、あの後どうなったのかわかんないし、私は知らないうちに行方不明者になってるし! モヤモヤはいつまで経っても解消されないし! ほんっと大変だったんだよ! だからあなたには、文句言いたいことも御礼言いたいことも、訊きたいことだってたくさんあるからっ――あー、あるけど、とりあえずまずは名前」
こほん、と咳払いをして、居住まいを正す。
「私は上野灯里。あなたは?」
灯里が、真っ直ぐに彼を見た。睨むように、挑むように。
ようやく観念した彼が名乗るまでの時間は、あと僅か。
その結果、彼らの関係がどう変わっていくのか。それは、彼らのみぞ知ることである。