(6)
スマートフォンの時計は、十五時四十分に秒数を刻んでいた。今、一分増える。
流は、その確認が終わると、ズボンのポケットに、スマートフォンを滑り込ませた。瑠奈のトイレ待ちだったが、丁度、姿が見えたからである。遠目から見る瑠奈は、やはり、周りの女性より落ち着いて映った。パンツスタイルが、良く似合っている。
「お待たせしました」
流の座っていたベンチに辿り着くと、瑠奈は、そう言った。流は、立ち上がると、そろそろ時間である事を伝える。
「そうですか。そろそろ、戻りましょう」
少し表情を変えて、瑠奈は答えた。残念に思ってくれたのだろうと、流は感じる。それが、少しだけ温かい。
「巨大迷路に、時間が掛かったからね」
「そうなんですよね。ナメてました」
二人は、ゴーカートの後、予定通りお化け屋敷に行き、流は服に沢山シワを作った。その後、巨大迷路に挑戦して、今に至っている。迷路の終わり際は、制限時間付きのような物でもあった。
「歩き疲れてもいますから、丁度良いですよね」
「ダイエットには、なったかな」
流が、お腹を叩きながら答えると、瑠奈は笑った。そして、納得もしてくれる。その雰囲気は、嫌いではなかった。
二人は、園内の待ち合わせ場所へと、歩き始める。座っていた広場までは、十分くらいで着くだろう。
巨大迷路の高台からの風景について、瑠奈と話をしながら、流は周りを見た。飲み物が欲しいのである。できれば煙草もと思ったが、それは気合で我慢した。
瑠奈は、それに気が付いて「何か飲みますか?」と、流に訊ねる。気を遣わせてしまったと、流は思ったが、素直に同意した。
「じゃあ、彼処で買いましょう」
「あぁ、うん。僕が奢るよ」
二人の視線の先には、ストライプ柄の日除けがついた売店があった。橙色と黄色で、無理矢理に明るくしたような色合いが、目に痛い。
流は、目印の意味もあるのだろうが、と頭の隅で考えながら、その売店へと歩いて行った。
誰も並んでいない売店の従業員は、二人の姿を見ると、他人行儀な声色に変わる。さっきまで雑談していた声より、キャラメル一個分、ワントーン高くなった。営業スマイルと、営業ボイスのフル装備は、客商売ならではかもしれない。
そんな従業員を横目に、二人は、売店のメニューを見た。
売店のメニューは、コーヒーから始まるソフトドリンクと、バニラから始まるシェイク、メロンから始まるフローズンに分かれていた。スナックとして、ホットドックやアメリカンドックなども書いてある。メニュー表の中にある手作りポップが、従業員のやる気を表していた。
流はメロンのフローズンを、瑠奈はレモンティーを注文する。流が支払いを済ませると、店員が「直ぐに出来ますから」と声を掛けてきた。流は、その場で待つ事にすると、瑠奈へ、「ベンチに座って待ってて」と言う。瑠奈が、少し踵を気にしていたので、流は、靴ずれかもしれないと考えたからである。
瑠奈が、売店近くのベンチに座った頃、流は、飲み物を、売店の従業員から受け取った。「ストローの大きさで、何方がフローズンか分かります」という声を付けて貰いながらである。大抵が予想出来る事であるのだが、それを言う事に意味があるのだろう。
「どうぞ。少し飲んでから、行こうか」
瑠奈に飲み物を手渡しながら、流が言うと、瑠奈は柔らかく頷く。その反応を見てから、流は、瑠奈の隣に腰掛けた。考えていた事を、今の内に言っておいた方が良かったからだ。過ぎてしまうと、タイミングが無くなってしまうからである。
瑠奈が、一口目を、ストローで吸い上げて飲んでいるのを見て、流は、心の中でリズムを取り始めた。自らが持つメロン味のフローズンを、一口、一口、と飲みながら、時間が来るのを待っているのである。
二人は、そのまま無言で、三分ほど過ごした。職場の休憩みたいに、不可侵な時間だった。個として存在しているだけの、何も絡ませていない状態である。
流にとっては、そうであるが、瑠奈にとっても、そうであるようだった。人が、沢山居る中で、ただの個になって休憩する。社会人には、必要なスキルなのかもしれなかった。
ふわりと風が吹く。なんとなくの合いの手で目が合うと、瑠奈と流は会話を始めた。あの空間が、硝子が割れるように消える。粘膜が、心の一部に回収されているのである。
「踵は、大丈夫?」
「はい。あぁ、でも、絆創膏を貼っちゃいます」
瑠奈は、ボーン・サンダル風の履物を脱ぐと、深く座ってから膝を曲げて、ベンチの上に踵を乗せた。ピンと張っているズボンが、脚のラインをはっきりと浮き立たせる。
「なんか、行儀が悪いですね」と瑠奈は言いながら、鞄の中で絆創膏の外側の紙を外した。それをクシャッとすると、バックの中の小さな袋へと入れた。そこを、ゴミ箱にするタイプなのだろう。ポーチがいくつかあるのが、流には見えた。
「後で、剥がした方が良いよ。乾燥させた方が良いから」
「そうですね。お風呂、染みますよね」
「それは苦手?」
「はい、お湯に浸ける時の感覚が。ちょっとだけですけど」
そう言いながら、瑠奈は、履物を履き直した。するりとは、いかなかったようで、一瞬、止まったのが分かる。それでも、良しという顔になると、瑠奈は姿勢を正した。深くベンチに座るのは、嫌いなタイプであるらしい。
流は、瑠奈の発言に苦笑いしながら、頭の中にあった物を出す事にした。ここで出しておけば、今日の役割は終わりである。
「ごめんね。僕と組んだばっかりに」
「いえ、そんな。私も、履き慣れてない物で来たのが、いけなかったので」
「でも、お洒落の一部だからね。それは、必要な物だし。ごめんね。ついでに、少しお願いしても良いかな?」
いきなり話が飛んだので、瑠奈は少し驚いた顔をした。お願いというフレーズに反応して、髪を触っている。右側というのは、決まっているようだった。
流は、瑠奈の様子を見て、説明が足りていない事に気づいた。今度は、流の方が焦っている。
「そっち系のお願いじゃなくて、本来の目的を達成する為のお願いだから」
「あっ、はい。そうですよね」
二人は、なんとなく、足元へと目を落とした。その少し先を、家族連れが、喋りながら歩いて行く。
「啓司さんと、二人きりになるようにして欲しいんだ。これで、今日は終わりにしようと思って」
「佐藤先輩を連れ出して欲しいんですね。ジェットコースターに乗りたいとか、さり気なくで」
「そう。それで、もう、後は、二人の問題にしよう」
「妥当ですね。分かりました」
「歩かせて、ごめんね」
「いえ、最後でしょうから。しっかりと、お役目を果たします」
瑠奈は、そう言って笑った。それを見て、流は「ありがとう」と言いながらも、頭の中は、別の事を考え始めている。
引っかけてみても良いなと、流は内心思うが、それでは不自然になるとも思った。相手が自然に話してこそ、そうだと言える物でもあるだろう。話してくれるかは、賭けではあるが、たぶん、此方に分がある。
「時間に、なっちゃいますよ」
その瑠奈の声に、流が反応すると、二人は立ち上がって、待ち合わせ場所へと歩いた。飲み物を片手に持ち、飲みながらである。途中、すれ違った家族の子供が、二人の持つ飲み物を見て、「あれが、欲しいぃぃ」と駄々をこね始めてしまい、その子の両親を困らせてしまったりもした。勿論、気にせずに歩き続けた二人だが、離れた所で顔を見合わせ、なんとも言えない表情になった。
待ち合わせ場所の広場まで、二人が辿り着くと、四人で座っていた席を見た。誰も居なかったから、他の席も見回したが、それらしい服装の人は居ない。千春と啓司は、まだ来ていないようだった。
「四時ジャストだね。元の場所に座って、待ってようか」
「そうですね。佐藤先輩にとっては、いつも通りですから」
「抜けて無いんだなぁ。そりゃ、そうか」
「昔からなんですか?」
「うん。おかしな表現になるけど、筋金入りのマイペースだった」
二人は、歩きながら、他にも色々と言い合った。瑠奈は、日頃のストレスが、少しは発散できた気分になる。
四人で座っていたテーブルに辿り着くと、二人は、隣同士に座った。それにも、慣れた二人になっている。
いつになるかわからないなと、流は考えながら瑠奈に話すと、瑠奈も苦笑いしながら、「そうですね」と言った。ついでに、レモンティーを飲む。氷の崩れる音が、聞こえた。
遠くの方から歩いて来る、見覚えのある服が、流には見えた。くっついたり、離れたりと忙しい。あの二人である事は、間違いなかった。
時間は、四時半を指している。園内の家族連れは、子供を抱きかかえて、帰路に着き始めていた。恋人同士という関係の人間達が多くなり、園内は、その純度を増している。
「すまん。遅くなった」
二人が、流と瑠奈のテーブルまで来ると、啓司が、すぐにそう言った。立ったままで言うその様子から、千春の感覚に、手を焼いているという感情が、流にもよく分かった。たぶん、千春が時間ギリギリで、乗り物に乗りたいとでも言ったのだろうと、流は思う。
瑠奈は、「いえいえ」と、啓司に受け答えしながら、チラッと流を見た。流は、それに気づいて、左目の瞬きで合図をする。
「啓司さん、佐藤先輩を少しお借りして良いですか?どうしても、ジェットコースターには乗りたくて」
そう言いながら、瑠奈は立ち上がると、立ちっぱなしの千春の手を握った。千春は、既に「良いよ、良いよ」と、返事をしている。
「うん、良いよ。ここで待っているから」
流を見ながら、啓司が言った。流も、顔を柔らかくして見せる。
「じゃあ、啓司さん。飲み物でも買いに行きましょうか」
「あぁ、良いよ。行こうか」
流は、立ち上がると、飲み終わったカップを手に持った。テーブルの上には、瑠奈の飲んでいたカップが、置きっぱなしになっている。
「あっ、私のもお願い」
「わかった、良いよ。捨てておくから」
流は、そう言って、瑠奈のカップも手に取る。まだ、氷が残っている感触が、流の手に伝わってきた。瑠奈は、流に近づいて行くと、「後、これも」と、バックを渡す。
流は、一旦持ったカップをテーブルに置くと、そのバックを肩からかけて、またカップを持った。
「じゃあ、楽しんでおいで」
流が言うと、「はいっ」と、瑠奈は、子供の顔で返した。
組み合わせを入れ替え、二人づつ分かれた後、それぞれの方向へ歩いて行く。途中、ゴミ箱に寄った流と啓司は、飲み物のカップを手順通りに捨てる。啓司が、手伝ってくれるとは思っていなかった流は、やはり面倒見が良いのだと思った。
身軽になった流は、啓司と並んで歩きながら、色々と話をする。大まかに分けて、仕事の話が三割、女性の話が七割だった。
俗に言う「女好き」が、啓司の形であった。嫌う理由が無い。男性が女性を好きになって、何がいけないのだ、と考えるタイプの男である。そして、欲望にも忠実だった。啓司が体験した夜の店についての話が、延々と続いたからだ。
話の締め近くに、「欲望は、人類にとっての宝石だ」と、啓司が言った時には、流は苦笑いするしかなかった。言い得て妙だと流は思うが、口にまで出すのかと、少し千春を不憫に感じる。
「家の会社にも、二次元好きな奴が居るし、別にそれは良いと思う。好きな物は好きでさ。でも、感想が「尊い」って、どうなのかって思うんだよ。何で、ただの欲望を装っているんだってね。ガンガン行けよって思うけど、変わらないんだよね」
「乱暴なのが嫌いですからね。しかも、極端に。仕方ないですよ、優しく作られたんですから」
「だろう。でさ、流君はさ、たまに外側に居るよな。なんとなく、そう思う」
啓司の一言に、内心がざわつきながら、流は笑顔で、言葉を返していく。やはり、分かる人には分かるのだと、流は思う。数回だけ、同じように突っ込まれた事があるからだ。指摘してくる人は、いつも、人を良く見て、頭の回転が速い人ばかりだった。
啓司も、それに当たるのだろう。もしくは、野生の勘か。
二人は、最初に千春と瑠奈が買ったであろう、売店に着いた。こちらの方がシックで、流は好きだった。
店の中では、年配のおばさんが、忙しなく動いている。閉園時間が近いからか、半分は片付けていた。
そこで、二人はコーヒーを注文する。おばさんは、甘さとミルクの量を聞き、二人が、「ブラックで良い」と言うと、「はいはい。ありがとうございます」と動きを加速させた。全く別の事も含んでいると、流には見て取れた。
「ありがとうございました」というおばさんの声を背中に浴びながら、二人は、コーヒーを持って、元の席へと歩いた。
「向こうの店は、若い女の子でしたよ」
流が言うと、啓司は面白い顔で、反応をした。そして、残念そうな顔になる。
「何故、それを早く言わないんだ」
「いや、そんなに印象が、良くなかったので。店に近づく前の」
「あぁ、じゃあ駄目だな。そういう場合は、遠くの若い子より、近くのおばさんだ。ちゃんとしているって事は、重要だよ」
「速さとかですか?」
「違うよ。印象価値さ。客が来ていない時の店員の態度は、そこに並んでいる商品の印象価値を下げる場合がある。そこんところ分からずにやっていると、駄目だよね。色んな事に関して、見た目が重要って言っておきながらだったら、なおさら駄目だよ。映えるって言葉を使っているなら、開いた口が塞がらない」
「厳しいですね。まぁ、見えないなら良いって事ですか?」
「それも違う。見た事が無い物を、今の人達は見たいんだよ。だとしたら、ほっとかないでしょう。しかも、スマートフォン持っているし。ネット環境もある。気は抜けないんだよ。客が来る所ではね」
啓司はそう言うと、我慢ができなかったのか、コーヒーのストローに口をつけた。美味しそうに飲む。
確かに、そういうのはあるかと、流は思いながら、啓司の飲みっぷりを見た。この手のタイプは上手くやるからなとも思う。できれば、敵には回したく無い。だが、流は、もう少しだけ汗をかく事にした。
二人は、座っていた席に辿り着くと、腰を下ろして、更に話をした。やはり、女性の話だった。流が、離さないように、話題を振るからだ。繋ぎ止めている、と言った方が良いだろう。
啓司も、今は珍しいタイプの男だと、嬉しそうに話を広げる。まるで、形が整うのを、待っているようだった。たまに、横目で、カップルをチェックもしている。
「流君の所は、どんな感じ?」
「別に普通ですよ。瑠奈は、変わった事が嫌いですから」
「そっか。じゃあ、この後に直ぐって訳にはいかないなぁ」
「えっと、何の事ですか?」
「ほらっ、交換とかさ」
流は、食い付いたと感じた。これで、約束事を作れば黒である。千春にも、報告が出来るだろう。
「あぁ、なるほど。瑠奈には、無理でしょうね」
「今のご時世、警察沙汰は一発アウトだからな。流君自身は、興味があるだろう?」
「まぁ、そうですね」
流の返答に、啓司はニヤリとしている。流は、啓司に、仲間だと認識されたようだった。その仲間に入っているという感覚は、流にとって、それはそれで面白かった。
話としても、これで進むだろうと、流は思う。千春の顔が浮かぶが、それをかき消した。感情より、実利である。
「三人なら、イケるなぁ。流君は、同級生だったから、色々と燃えるんじゃない?」
「あぁ、そういうのはありますね。昔を知っているというのは」
「連絡先を交換しようか?」
「いえ、それは良いです。千春さんから誘われたのが合図、にした方が、瑠奈も居るので、僕としては都合が良いですから」
「用心深いなぁ。まぁ、確かに、彼女持ちだと、そうか。分かった。じゃあ、飲みにでも誘ったら来いよ」
「えぇ、その時は、一緒に飲ませていただきます」
流は、これで役割が終わったと、いつもより柔らかい笑顔を、啓司へ向けた。一息つける感覚が、流の顔をそうさせた。
啓司は、それを見て、仲間に会ったという形を強くしたようで、更に前のめりになって話をした。話題としては、女性の話から千春の学生時代の話に変わる。千春に対する直して欲しい所が、スラスラと出てくるので、流は、少し困惑しながら相槌をした。
広場に、五時を告げる音楽が鳴った。千春と瑠奈が、此方へ向かって来ているのを、流は啓司に伝える。
「おっ、もう帰って来ている。あれ、あぁ、もう五時過ぎているのか」
スマートフォンを見ながら、啓司が呑気に言った。楽しく喋っていたから、時間を忘れていたという顔である。流は、それを見ながら、歪な欲望に従って生きていると思った。
啓司の形は、良い意味で形を作れば、素直である。だが、素直な感情で、興味を持った物の先が、必ず明るいとは決まっていない。先導が必要になるのだが、多感な時期であれば、一種のフィールドが出来てしまう。何かに打ち破られなかった、そのような存在は、一部分だけが歪になる。日頃の行動からは、全く見えない。俗に言う、普通の人なのである。
「この後、飯食べ行くだろう?」
啓司の問いに、流は、瑠奈の事を考えた。これ以上は、一緒じゃなくても良いだろうと判断して断る。
啓司は、それに頷くと、「また今度だな」と笑顔で返した。そして、二人の方を見ている。
最後になるだろうと、流は思った。思い出を作ってから別れる方が、ダメージにはなるからだ。千春は、最初からそのつもりだったのだろうと、この計画を聞きながら、流には、何と無く分かっていた。そのダメージから、何かを学んでくれる事を、一方的に強く願った。
啓司は、他の事は出来る方の人間だと、流には、認識できたからである。空気があるのだ。居るだけで、場が好転するような空気だ。
だが、別の事を学ぶのだろうと、流には浮かぶ。どうすれば上手く行くか、の使い方は、一つでは無いからだ。
最後に、二人切りで思い出を作って下さい、と思いながら、流は帰ってきた瑠奈に手を振った。