帰り道
時雨は沢松金融からの帰り道、大きな欠伸をしながら孤児院へと帰っていた。沢松金融へと入ったのが1時のことで、今はもう4時だ。実に3時間近くはあそこに留まっていたことになる。いくら朝ご飯を食べて、時雨が小食だったとしてももう昼過ぎだ。眠い上に腹の虫も騒いでいる。
-4時かぁ…。もう帰ってもいいんだけど、もう少しだけブラブラして帰るか、まっすぐ帰るか…迷うな。…どうしようかなぁ。
こうして考えるだけ考えてなにも思いつかずにグダグダと過ごすのがケイウス王国での日常だったが、ここ地球ではまだまだ気になることが尽きない、知識だけでしか知らない面白そうなことがまだ、たくさんある。
-う〜ん、こう考えるとやっぱり学校に行ってみたいよなぁ…。いや、銀杏さんのことだからもしかしたら通わせてくれるかもしれないけど、僕が入るとしたら高校からかぁ…。てか、僕って義務教育を受けてないことになるのかな?だとしたら…まずいよなぁ。いろんな意味で。
などと、口で小さく呟きながら懸念事項を確認していく。そして、どんどん本来考えていたことから脱線していくのだった。
時雨が小さな裏路地を右へ左へと抜けていき、街道へと歩いていく。だが、歩いている途中で急に強い風が吹いてくる。風は足で踏ん張っていないと転んでしまいそうなほど強く時雨は両手で顔を隠して立っていた。
-なんだ急に?ビル風かな…いや、ここってビルはないしただの風かな!?
考えを纏めていると後ろから嫌な気配がする。時雨は跳ね飛ばされるように前へと転がり反射的に後ろの方を蹴り上げる。
カァン!
と、金属を蹴った時のような甲高い音が辺りに響き、時雨は反射的に後ろを見る。
「ほぉう…良い餌かと思ったのだが。…なかなかに噛みごたえのある奴だったようだのぅ」
そこには両手に鎌のような爪を持ち、鼬の姿をした生き物が浮いていた。
「鼬?鎌…もしかして、鎌鼬かい!?」
「ふん、人間が付けた名などで呼ぶでないわ」
「だって、君の名前知らないし」
「人間などに呼ばす名は生憎と持ち合わせてないわ」
「…面倒臭い畜生だな」
「…なんだと、この猿が!」
この青筋を立てて怒っている鎌鼬というのは日本では結構メジャーな妖怪だ、鼬のような見た目をしていて両手に鎌のような爪を持っている。一説によっては翼が生えていると書かれたものもあったが、今いる鎌鼬はまさに鎌が生えているでかい鼬だ。
「にしても、妖怪なんて本当にいたんだね」
「なんて…とは、随分な物言いだな小娘…いや、小僧か」
そう鎌鼬が言った途端、時雨はキラキラとした目で鎌鼬を見て言った。
「僕のことを初めから男だって分かるなんて…今なら僕、君と友達になれそうだよ!」
「…過去のお前に何があったんだ…」
鎌鼬は時雨の食いつきに若干引いていた。だが、鎌鼬は咳払いをして、調子を整えて時雨に宣告する。
「まぁ、友になるなど到底無理な話だがな」
「あぁ、そう言えば餌がどうのこうのってなんなの?」
「なんなのと言われても…お前…餌…OK?」
「いや、そうじゃなくてさ。良い餌ってどういうこと?」
「…今から食われる奴に話すこともないと思うんだのが?」
「まぁまぁ、冥土の土産程度に教えてよ」
「それは我のセリフだろう…まぁいい、もう逃げられないだろうし特別に教えてやろう」
時雨はちょろいな…と、鎌鼬が気づかない程度に呟いた。鎌鼬は空中で器用に丸くなると時雨の方を向いて話し出す。
「小僧…お前にはいい匂いがする…と、言ったことを感じたことかあるか?」
「そりゃ、あるさ。美味しい食べ物とかは匂いで分かる程だからね」
「そう、美味そうな匂い…それがお前からするんだよ」
鎌鼬は舌なめずりをしながら時雨のことを見下ろしている。まるで、自分が絶対的な捕食者だと、言い表しているかのような態度だ。
「我らは妖力という力を身に宿している。そして、妖力の濃さが餌の旨さに比例するのだ」
「つまり、僕は妖力が強いということ?」
「いや、お前からは…なにか少し違う匂いがするのだ…それも幾つか別の匂いが」
-あぁ、魔力のことを言ってるのかな?こっちの世界にはないし分からなくても当然か。
そう結論づけて時雨は頷き笑顔で鎌鼬にお礼を言った。
「いやぁ〜、ありがとうございました。聞きたいことは聞けたし、もう満足です」
時雨はジリジリと後ろへと下がっていく。鎌鼬は気づいてはいるようだが特に行動は起こしてこない。だが、その毛で覆われた顔はどこかニヤニヤと笑っているように見えた。
「…止めないのかい?」
結局、鎌鼬の真意が測れずに気になってしまった時雨は鎌鼬に聞いた。鎌鼬は時雨の足元を爪の鎌で指さし笑う。
「ふふふ、その出血量で逃げきれると思ってるのか…」
「…は?」
時雨は鎌鼬が指を…鎌を向けている足元を見ると、そこには、少なくない量の血だまりが広がっていた。時雨は自分の背中へと手を伸ばして触れる。ぬめりとした感触にパックリと割れた背中が指に触れる。
-血?…誰のだ?いや、僕のか…いつ切られたんだ?違う…どうして今まで気づかなかったんだ?
時雨が困惑していると鎌鼬は答え合わせをするように言ってくる。
「分からないのか?最初に斬りつけた時…あの時、お前は鎌は弾いたが、刃は届いていたんだよ」
鎌鼬は無造作に右手の鎌を横に振り抜くと、遠くにあったコンクリートの壁が切れる。鎌鼬との距離は大体5メートル近くはある。
「斬撃を飛ばした?…違うな、風かな?」
時雨は右手を背中に回したまま冷静に観察する。壁にできた切れ目には一閃された鎌にしては周りに細かい傷もついていた。斬撃を飛ばしたにしては傷が多過ぎる。鎌鼬は感心したように時雨を見て言う。
「ほぉう、観察眼だけはあるようだな。そう、これは妖力で形作った風を飛ばして切ったのだ。お前の時は切れ味が落ちてしまったがな」
「なるほどねぇ…通りで痛みもなかったわけだ。構え太刀とはよく言ったものだね、見事な切れ味だ」
時雨は背中の傷を触りながら言う。時雨の顔はどう見ても劣勢にたっているのに笑っている。鎌鼬にはそれが不気味で仕方がなかった。
「なぜ、笑ってる」
「そりゃあ、嬉しいからですよ。人は嬉しければ笑う、楽しければ笑う、当たり前のことですよ」
「何がそんなに楽しい?」
「この世界にはまだ誰も知らない未知がある。それがどれだけ嬉しいことか…あなたに分かりますかね」
「…気味の悪い奴だ」
「くすくす…よく言われましたよ」
ひたすら不気味に口を歪めながら笑い出す。鎌鼬は時雨に気圧されたのか鎌を持ち上げ警戒態勢をとっている。
「ふん、なんにせよお前が死ぬことには変わりはない。笑いながら死ねることを幸福に思うんだな」
鎌鼬は鎌を振り上げて辻風のごとく時雨に接近する。時雨は鎌鼬に抵抗するでもなくただただ立っているだけだ。鎌鼬は無情に右の鎌を振り下ろし時雨の首を刈る。はずだった…
ガキン!
と、音を立てて何かが宙を舞い地面に突き刺さる。地面に刺さったのは鎌鼬の鎌だった。
「うぐっ!」
鎌鼬は自分の右手を見るなり地面に蹲り右手を抱えた。どうやら、鎌には神経が通っているらしい。
「お前は…なにを!」
憎しみを込めた赤い瞳を向けて時雨に吠える。時雨は鎌鼬に視線を向け直して、背中にやっていた右手を前に出す。
「これさ」
時雨の右手から出てきたのは血で真っ赤に染まった一枚の紙切れだった。