3
遅い夕食を終えた二人は、戦前の面影が残る村の散策をはじめた。
馬車は町外れの茂みの中に隠すことにした。もしもこの村の者に不審に思われたら面倒だからだ。
王都は外部との交流がない。いつからないのかは、正直定かではない。戦争が終わった年もわからなければ、終戦後何年経過したのかも、残された人々にはわからないからだ。戦争は捉える側面によって人々の感覚を掻き乱し麻痺させる。たとえば昔話として口伝される戦争の話であれば気の遠くなるような過去を見つめることになるし、修復中の王都を見渡せば昨日のことのようにも感じるからだ。だからこそ、村が王都のことを知っているという考えは捨てるべきであり、ロキはそれを実行した。
単純に考えても、王都が孤立している以上、この村も外部の者との接触があるとは考えにくい。そもそもここは山の中腹であり、まともな交通網も持っていない。陸の孤島のようなものだ。
中央庁特認政務官からこの村に関してなんらかの情報がもたらされていないということは、ここまで用心していいだろう。中央庁が特認政務官に隠し事をする必要はない。むしろ、ロキのほうが隠し事をしている。わずかに生き残った人々の中には悪魔の存在を知らない者もいるからだ。
「これで、少し世界が広がった気がするよ」
ロキは嬉々として言う。
戦争によって世界のほとんどが滅んでしまったと思っていた。王都以外のコミュニティはないと思っていた。それでも現実として、自分の目でこの村の風景を見つめることができている。人間は思っている以上に独自のコミュニティを作り、たくましく生きることができることをこの村の復興した姿が示している。この先、王都と交流をすることで、大きな文化圏を構築することも夢ではないとロキは考えた。特認政務官としてこんなにもわくわくすることはない。
「どうすればいいのかな。王様と一緒で偉い人がここにもいるんだよね。てことは向こうにある大きなお屋敷に行けばいいのかな。でもなんて挨拶をしたらいいのかな。王都って言ってわかるかな、ね、ラズリー」
「少しは落ち着きなさいよ」
「落ち着いているよ。でも王都以外に村があるなんて、すごく嬉しいんだもの」
「はぁ」
きょろきょろと周囲をせわしなく確認するロキに対して、ラズリーはため息を漏らした。
「そんなんだから違和感を感じ取れないのよ」
「んっと、いよかん?」
「変な顔しないでかわ……気持ち悪い。……違和感よ、違和感。王都にあってここにないもの。そのくらい自分の感覚でどうにか気がつきなさいよこのうすらボケ」
「むむむ」
ロキの半歩後ろを歩くラズリーは、冷静だった。
ふと立ち止まった。今まで視界に留めてきたすべてを思い返す。どこにその違和感があるのかを考える。村は王都よりもはるかに規模が小さい。しかし、みすぼらしい印象はなかった。綺麗に踏み固められたきめ細かい粘土質の道からさらに小径が路地のほうへ分かれている。民家は木造と石造りとが織り成し、王都に広がる城下町の一角にある織物業や金属加工業が集まってできた職人街を思わせた。おそらく採石場から切り出した石を用途ごとに加工する職人が住んでいるのだろう。家々には明かりが灯り、それがときおり、風に揺れる若木のようにゆらゆらと揺らめくことから、蝋燭の光であることがわかる。しかし、窓に人影が映ることはない。
「そういえば、誰ともすれ違っていないね」
「そうなのよ」
ロキは気がついた。ラズリーの言う違和感の正体はこの王都の生活感と比べて遜色ない村に人間がいないことだった。気がつくと、耳に静寂が張り付く気がした。
「でも……、いないと言うわけではないよね」
「それを確かめるのがあんたの仕事でしょう」
ラズリーは左の手のひらを胸の前でくるりと返した。ちょうど何かを差し出したり、受け取ったりするような位置だ。そこに闇夜よりも濃い黒々とした歪みが発生する。歪みは徐々に形をなし、一冊の本になった。新悪魔の経典だ。ラズリーは一言、ぼそりと言った。
「悪魔の反応はなし」
「じゃあ悪魔の仕業じゃないってこと?」
「さあ、まだわからないけど。身を隠すことはできるからね。それでもここはあまりにも現実世界のまま。……でも近くに悪魔がいる可能性はあるわよ。……なんたって眷属がいたのだから」
「用心しなきゃ」
ロキは小銃を収めたホルダーに手をかけた。好戦的な悪魔がいることをロキは過去に学んでいた。悪魔は不意打ちをしてくることもある。
「でも、今日のお昼のようにはいかないか」
どんなに身体をこわばらせても、悪魔はやってこない。ロキは嘆息した。
悪魔はラズリーの第六感的感覚に頼るか、ロキ自身の目で悪魔の姿や悪魔のおこないを見抜かなければならない。そうしなければ悪魔を記録することはできない。ラズリーに新悪魔の経典があったとしても、ロキに力があるとしても、ロキ自身が愛する対象を捉えラズリーがその愛を記録しなければ意味がないのだった。
「この場合、もしも悪魔の仕業じゃないとしたら、考えられることはなんだろう」
「なんでもありじゃない?」
ラズリーは投げやりに言った。
「このご時世なのよ? 王都以外にも人が住める場所があることがわかったのだから、いくらでもその他の可能性は広がるわよね。ここ以外にも村や町やもしくは一国家があるかもしれないわ」
「違うよラズリー。人がいない理由だよ」
「あんまりそんなところに敏感にならなくていい気がするのだけどね」
「どうかな。身近なところだと犯罪者集団による殺人とか……」
「誘拐かもしれないわよ? この村に優れた石細工がいるなら価値あると言えるかもしれないわね」
二人はそろって顔を見合わせた。ロキは肩をすくめた。
「キリがないよ」
「そうね」
「……誰かが死ぬところを想像してしまった私を戒めたい気分だよ」
目に付いた屋敷は石造りの二階建てだった。この村の平均的な大きさの家だ。ロキとラズリーはそれぞれ扉の双方に張り付いた。扉の隙間からわずかに香ばしい匂いがした。何かを焼いているような、そんな焦げたような匂いだ。
ロキは慎重に扉に手をかけた。軽く押してみるとぎぃと軋んだ。どうやら鍵はないようだ。扉の隙間から中を覗き込むと木製のテーブルの上に蝋燭を立てて入れるタイプのランプが置かれていた。他にも、使いっぱなしのマグカップが置かれていた。そばの椅子には羊毛か何かで織った赤と緑が基調の色鮮やかなブランケットがかけられていて、ついさっきまで誰かが暖をとるために使っていたように感じる。床やテーブルの埃は一切なく、他の内装や調度品もすぐにでも使えるように綺麗に整えられていた。ただ、人間の姿は見当たらなかった。
ロキはラズリーに背中を押され一歩中に入った。
しかし、ロキは立ち止まらざるを得なかった。ラズリーは語気を強めた。
「ちょっとはやく行きなさいよ」
「ラズリー、そんなこと言われても。私のジャケットを離して欲しいな」
ロキはラズリーの手を軽く叩いた。
「触らないでよ。変態」
「ラズリーは私に触っているけど」
すると引っ張られる感触がなくなった。ラズリーの右手がいつの間にか自分自身の背中に回されていた。
「き、気のせいよ。そんなことより、どうなのよ、何か見つかったの?」
ロキはやれやれと肩をすくめた。部屋を見回す。
特におかしなところはない。
いや、それがおかしいのだ。
誰かがここをさっきまで使っていたような、生活の温度があるのだから。
そのときだった。二階の奥の方から物音が聞こえた。木の板を軽く叩くような小気味いい音はすぐに足音であるとわかった。ロキは体勢をわずかに低くして、ラズリーの前に立った。
「人だといいんだけど」
「…………どうだっていいわ。さ、さっさとやっちまいなさい」
ロキはぐいっと引っ張られた。またラズリーがジャケットの裾を掴んだのだ。しかしロキは何も言わない。小銃を直ぐに抜けるようにだけしておく。ジャケットを掴んでくれていた方がどこにラズリーがいるのかわかりやすくていい。それに、悪魔以外の何かならば一緒に行動できるリーチの範囲内にいてくれたほうが安心する。特認政務官になるために様々な訓練と試験を受けてきたけれど、実戦経験はこれがはじめてだ。二階へと続く階段に足先が見えた。しかし、ロキは結果として小銃を使うことはなかった。
「……あら」
この家の主は、二人の姿を見て、気の抜けた声を漏らした。
ロキはその姿を見て、全身の力が抜けてしまった。
「……人間ね」
ラズリーは安心しきった声音で言う。そう言い切れてしまうのは、きっと悪魔の反応を察知することができなかったからだ。それに目の前のあどけない少女からは敵意も感じられない。
「女の子だね」
ロキは声を漏らした。
家主はどこからどうみても人間の少女だった。簡素な生成りの長袖のワンピースを着た少女はロキと同じくらいの年齢に見える。化粧っ気はまるでないけれど、簡素な中に綺麗さもうかがえた。それは野暮ったさのない独特の雰囲気となって少女を彩っていた。ロキにはそれはどこか人形のようにも思えた。
手持ちランプに照らされた少女の顔が、ぱぁっと明るくなった。
「お客様でございますよね?」
どこかぎこちない丁寧な言葉遣いは彼女の年齢を確かなものにした。あどけない表情は笑顔になると余計に子供っぽさを滲ませる。少女はロキとラズリーの前まで来ると、会釈した。そして申し訳なさそうに言った。
「今日はもう閉店してしまったのです。明日は日の出から日没までパンを焼き続けているので、都合のいい時間に来ていただけると助かるのです」
「どういうことよ」
ラズリーはロキの背中からそっと顔を出すと、少女を睨み付けた。
ロキも不思議に思った。パンとはどういうことだろう。この民家でパン屋を営んでいるなんて思いもしなかったから彼女の行動も言動も予想外だった。
「私、ジーナ・ソニ・エリです」
ぺこりと少女は頭を下げる。少女の髪の毛からバター甘い香りが舞った。
「申し訳ありません。ええと、今日の分はもうすべて売れてしまったのです。……お店はまだ小さいけど、麓の宿場の方々に人気なのもので、ありがたいのですが、私ひとりで切り盛りしているので、数多くは提供できなくて……」
麓の宿場……? そんなものがあっただろうか。なかったはずだ。
ロキは一瞬、ほんのわずかだけれど、目眩がした。
この民家に入る前に嗅ぎとっていた匂いはパンを焼いた匂いだとわかったが、うっすらと記憶がなくなっていく感覚を覚えた。瞬きをする。そして我が目を疑った。
「もしよければ、お名前を教えてください。予約の受付もしているのですよ」
少女はそう言っていそいそと奥の部屋へ入っていく。
――奥の部屋など、ついさっきまでなかったのに。
「問題が発生したね。これは、とてつもないことになりそうな予感……どうしよっか」
「ロキ、少しは当事者意識を持つべきよ、あなたは。ぼーっとして!」
ロキは反論できなかった。さっきから、どこか身体がだるいのだ。気合いでどうこうできる話ではなく、どうしようもなかった。
「……悪魔の反応は?」
ロキは聞いた。
「まだないのよ。……おかしいわね」
「てことはあの子は悪魔ではないんだね」
ロキは改めて周囲を見回す。そう簡単に悪魔は姿を現してくれないらしい。しかし、悪魔の行使した力は目で確認できた。
部屋の内装が一瞬で、まるで写真をすり替えられたかのように変化している。中央で大きく陣取っていたテーブルはなく、部屋を半分に仕切るようにカウンターができていた。こちら側には所狭しとよく磨いて艶を出した木造の棚が組まれている。パンを並べる棚だろう。売り切れの札がいくつか貼られている。ロキは似たものを王都で見たことがあった。内装はすっかり様変わりして、パン屋になっていた。少女の話に合わせているかのようだ。
少女はカウンターの向こう側に続くパン工房から出てきて、そして引っ込んでいったのだ。姿は長袖のワンピースだけではない。簡素ではあるが品のあるエプロンドレスも身につけていた。小麦粉や窯のせいだろう。裾が白くなり、ところどころ煤けていた。少女が現れたのは二階からではない。確かに二階から出てきたようにも記憶しているが、二階などこの民家にはなかった。記憶が新しいものにすり替えられていく恐怖にロキは身震いした。体感として確かに現実を感じている。パンの匂い、身体にかかるラズリーの重さ、じっとりと湿った手のひら、そのすべてが、ここが現実であると告げている。
「……ロキ」
ラズリーのジャケットを掴む手が、より一層強くなった。震えすら、服を通して伝わってくる。
「うん、わかっている。わかっているよ」
一連の現象は悪魔の仕業だ。こんなことを容易にやってのけるのは悪魔しかいない。空間を歪め、時間の流れを変化させる眷属を麓に放っていた悪魔の本体が、おそらくこの一帯にいる。それは容易に想像できた。
「あのジーナとかいう人間、あれは無害よ。この土地に、もしかしたら悪魔が寄り添っているのかもしれないわね。空間を変質させる悪魔は古今東西たくさんいるわ。だからまだどの悪魔がここに寄り添っているのかはわからない……徹底的に悪魔の本体を探す必要がありそうね。じゃないと記録もできやしない」
今のところ、部屋の様子が変化している……だけだ。
ラズリーは言う。
「このまましばらくジーナという小娘の様子を観察すべきね。ひょんなことから悪魔が尻尾を出すかもしれないわ」
「わかったよ」
ロキは頷いた。
ジーナはペンと紙をボードに乗せて持ってきた。ロキは素直にパンの予約をすることにした。自分の名前を記し、二人分の量のパンを注文する。するとジーナは恐る恐る訪ねるようにして言った。
「この辺りでは見かけないお名前ですね。どちらからいらしたのですか?」
ロキは少し思案した。正直に答えることに抵抗はないが、相手の知らない名前を出すわけにはいかない。だからと言って、答えないわけにもいかないし、変な嘘をついても仕方がない。難しいところだ。
「王都……だけど」
「まぁ!」
ジーナはボードを胸で抱えると、ぽんと手を打った。
「王都……というと、隣国のベッテでしたか!?」
「ベ……?」
ロキは困惑した。その名前を知らなかった。が、ジーナは嬉しそうにしている。
「至る所に花が咲き誇る花の都ベッテ! 私、憧れているんです!」
きっとどこか別の都と勘違いしているのかもしれないと思った。しかし、この少女は外の世界のことを知っている様子だ。悪魔ではなし、悪魔に寄り添われているわけでもなく、まるで無害な彼女ではあるが、ロキはやはり身構えてしまう。それにロキの知らない外の世界を知っているジーナはロキたちとはまるで違う世界に生きているかのようだ。ラズリーがロキの小脇をつついた。
「確かベッテは王都先代女王の愛称よ。王都は王都だけど、そのときの王によって愛称があったことくらい政務官のくせに知らないの? このポンコツ」
「や、思い出したよ。ちょっと動揺してたんだ……」
ロキはこめかみの辺りを押さえつけた。また目眩が襲ってきたのだ。先ほどよりもほんの少し強い痛みが伴うような……。まるで身体を削られているようだ。
ジーナは目をまんまるにした。
「先代だなんていやな冗談はよしてくださいよ」
「何寝言を言っているの? 先代は先代じゃないのよ。……先々々々々々々代って記録もあるけれど」
過去を正しく伝える史実はほとんど残っていない。戦争のこともそうだが、文化や国家その他すべてに置いても、あらゆるものが錯綜している。ただ、昔、ベッテという女王が王都の玉座に君臨していたことは人々の記憶の中にある場合もあれば、王都の記録に残っている場合もあるのだった。
「そんなことを言って意地悪しようとしても無駄ですよ」
ジーナは拗ねるように言った。ラズリーに不満があるらしい。
「今や帝国と共和国の衝突を円卓会議で回避させるまでにその手腕を中立王国ベッテの若き無血戦乙女ベルベッタ様といえば、私たち共和国の人々の間ではアイドルですよ! わかったわ。あなたはそんなベッタ様を独り占めしようとしているのでしょう?」
「そんなわけないじゃない。そんな国民的アイドルに会ったこともないわよ」
「そうなのですか。ふぅん、あなたみたいな意地悪には会ってくれないのかもしれませんね。女の子はもっと素直になるべきですよ。そんなんじゃいい女になれないですよ」
「な、なんですって」
「私は信仰深く生きて、必ずやベッテ様にお会いするのです。そしてはやく戦争が終わるように、お願いするんですから」
「無駄よ。会えるわけないわ。会えないったら会えないんだから!」
「そんなことないわ!」
ジーナとラズリーはむっつりとふくれた。ラズリーはいつも通りだ。しかし同様にジーナから改まりすぎた礼儀正しさがすっかり抜け落ちていた。
ロキはふと気がついた。戦争は終わった。ジーナの記憶はおかしい。記憶の問題化は定かではないにしろ、ジーナの持つ情報は明らかにおかしいものだ。そしてさらにまたロキの知らない情報がジーナの口からもたらされたのだった。
共和国と帝国。中立王国ベッテ。そのどれもがロキにとって新しくもあり、記憶の片隅にあるようだ。どこかで記憶の束を握られていて、それを都合よく足し引きされているような、誰かに操作されている感覚。ロキはまたこめかみをおさえた。
頭が痛い。ロキは猛烈に馬車に戻りたくなった。今いるこの場所は、記憶を不安定にさせる。それだけじゃない。身体に力が入らなくなっている。
「ラズリー、夜も遅いし、そろそろ戻ろう」
ふくれっ面で睨み付けていたラズリーは頬の空気を抜くと、ふいっとジーナに背を向けた。ジーナは慌てて取り繕うと、赤面しながら言った。
「ご、ごめんなさい、つい」
「大丈夫だよ。ラズリーはいつもこんな調子だから。寝たら治るよ」
「あ、あたしをそこら辺の単純バカと一緒にしないでくれるかしら!」
「まぁまぁ」
ラズリーも同様の症状が出ているかもしれないと思ったが、その心配の必要はないらしい。
ロキはジーナに会釈し、明日また伺うことを約束した。悪魔の居場所がわからないのであれば、はやく馬車に戻って休みたかった。本当であればどこかで身体を洗い流し、気持ちよく眠りにつきたかったが、そんな体力は残っていない。
ロキは扉を開け、外に出た。
そのとき、まぶしさに目を閉じても引き返さなかったのは、ロキがあまりも疲れていたせいだ。向かいの民家の明かりが目の中に入ったくらいにしか、考えられなかったせいだ。ラズリーに何か言われたことをロキは覚えている。ラズリーは叫んでいた。その声は喇叭のような激しい音にかき消された。眠気を吹き飛ばす荒々しい音だった。
そして、綺麗な歌を聴いた。
闇の中で、双子の少女が歌をうたっている。それは少女たちがお喋りをしているようにも感じるし、無邪気に笑っているようにも思える。とても繊細な音の集まりだ。刃物のように鋭利で、恐ろしいほどに綺麗に研ぎ澄まされているようだ。身体の中にゆっくりと流れ込んでくるようで、その歌は身体を食べているようにさえ……。
何よりもその歌は、まるで泣いているようだ。
――手を引かれた。ロキは何者かに引っ張られ、記憶が巻き戻る感覚を覚えた。
重たいまぶたをゆっくりと開けると、青空が飛び込んできた。まぶしさに目を細めると、その上に何かが覆い被さった。
「ロキ、大丈夫!?」
「う、……うん」
「よかった。あたしよ、ラズリーよ、わかる?」
ロキは頷いた。きっと手を引いたのはラズリーだろう。ロキは徐々に覚醒する意識の中で、朝まで眠ってしまったのだと思った。パン屋を出てすぐのところで力尽きてしまったのだろうと思った。
「ごめん、寝ちゃったかな」
「違うわ」
「……えっと」
ロキは驚いた。
「……外に出たら朝になっていた。それに景色も。ロキが意識を失っていたのは数分間くらいのものよ」
「…………なっ」
ロキはラズリーに起こされて、そしてまた驚いた。
村の風景ががらりと変化していた。ロキが寝ていた場所は石畳が綺麗に敷き詰められた王都にも勝るとも劣らない大通の片隅だった。村の面影がある。しかし、規模が違う。家々の数も桁違いだ。唯一変わらないところといえば、大きな時計塔のある屋敷の姿くらいだ。よく磨かれた文字盤が朝日を受け止めて光り輝いていた。きっと誰かが定期的に手入れをしているのだろう。目をこらして見ると時刻は朝の七時を少し過ぎたくらいだった。
今までは暗くてわからなかったせいもあるかもしれない。山の斜面を切り崩して作った街並みが眼下に広がっていた。二人は山の斜面から空へ突き出すように作られた広場へ移動した。街並みは山の麓まで続いている。遠くに宿場らしき建物の群れも見つけた。
「まさか、また悪魔が大規模な改変をしたの? 私はこんなところ知らないよ。でも、同じ村なんだよね、きっと。まるで、戦前の世界みたい……」
「そうだと思うわ」
王都がベッテと呼ばれていた時代が本当であれば、ここは戦前の世界――つまり過去だ。そして戦前から戦時中にかけて人々に寄り添うようになった悪魔ならば、このような改変のできる能力を有していれば、容易に空間を作り上げることができるだろう。悪魔の眷属でさえ景色と時間を固定できたのだ。過去へさかのぼることくらいやってのけるだろう。ラズリーはそのような能力を持った悪魔の候補を指折り数えて、両手がいっぱいになったところでがっくりとうなだれた。
「もしかしたら、悪魔はこんなふうに空間を変化させて、自分の居場所を隠しているのかもしれないわ……。今のままじゃこちらからできることはなさそうよ」
「特定も無理そうなんだね、今のままじゃ」
ロキは嘆息した。この状況はあまりにこたえた。悪魔にもて遊ばれているようにさえ思えてきた。
「空間変異を得意とする悪魔は、能力もてんでバラバラなくせに、もたらされる結果がすべて似通っているの。まず空間に干渉する悪魔と時間に干渉する悪魔がいるわ。前者は空間を復元する、創造する、破壊する、幻想を見せる……とかね。後者は時間を止める、巻き戻す、未来へ進める……などなど」
「……いっぱいあるね。それならわかりそうなものだけど」
「わからないのよ」
「……そっか」
「受け手には仕組みとか、何がどうなっているとか、そんなの関係ないもの。目に見えるものや感じるものがすべてだから。すべて目の前に提示された現象は、空間変異に思えてしまう。どう足掻いても人間は夢と現実を混同してしまう生き物なのよ。それは残念ながら人の姿をとったあたしにも言えることね……」
大通には人々が溢れていた。採石場へ向かう屈強な男達を乗せた馬無しの車が、唸りをあげて通り過ぎていった。ロキはその馬無しの車のことを知っていた。自動車だ。今では王都で見かけることはない先史時代の技術が用いられた文化だ。
ロキは自分の知っている王都以上の活気に気圧されそうになった。こんなに人がいては、ラズリーの声すら聞き取りにくいほどだ。ロキは大きめの声で言った。
「でも、特定できれば記録できるんだよね? 悪魔に振り回されそうだけど、やるしかないよ」
「わかっているわよ。あんたに言われなくても、あたしは悪魔を特定するわ」
ラズリーはむっつりとふくれた。
「この世界は、どうだっていいわ。目に見えるものを受け入れればいいわ。でも、きっとどこかにほころびがあるはずなのよ。悪魔は黙って空間をこんなふうに還ることなんてできやしないわ。たとえばこの空間の目に見えない部分に違和感を覚えるところはない? そこが悪魔の特定に繋がるわ」
ロキは考える。
目の前に広がる街並みも、本来はなかった宿場も、この世界では誰も疑問に思わない。戦前の技術に対してもそうだ。目に見えないもの、それはどういう意味だろう。どういう捉え方をすればいいのだろう。
「……っ」
ロキはこめかみをぐっとおさえつけた。
また記憶が錯綜する。ぐるぐると、身体の内側がまわっているようだ。
「どうしたのよ……変な顔して」
「……ちょっとね。考え事」
ロキは無理矢理笑顔を作った。心配はかけたくない。ラズリーがそのほころびとやらを見つけるまでは、耐えなければならないのだ。ラズリーの荷物になりたくはない。
誰かに呼ばれた気がした。
二人が振り返ると、見知った顔がこちらに近づいてくるところだった。
「ロキさんに、ラズリーさん。昨晩はゆっくり眠れましたか?」
通りから歩いてくる少女は、その少女の時間感覚で昨晩会ったジーナだった。ロキは安心感を覚えた。この村に生きる人々は夜を過ごして今日に至っているらしかった。ジーナは昨日とは違って小花柄のスカートに真っ白なブラウスを着て、バスケットをさげていた。よそ行きの格好なのだろう。バスケットには清潔な白い布が被せてあったが、香ばしいかおりですぐに焼きたてのパンであることがわかった。
「あ、ごめんなさい、今から配達に行くところなのでした。午後にお店まで来て下さい。せっかく王都から来たのです。お茶をご用意してお待ちしておりますね」
そう言い残し、去って行ってしまった。
ロキは時計塔を見つめたが、まぶしくて時刻の確認を断念した。かわりに懐中時計を確認する。こちらはまだ時刻は夜の十時を示している。体感時間のままだ。散策をはじめてまだ一時間ほどしかたっていないことをあらわしていた。
時計塔の針の動く音がかすかに響いた。
しかし、誰も疑問に思うものはいない。
いつのまにか短針が六を示していた。
~続く~