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 特認政務官ロキと悪魔ラズリーを乗せた馬車は、ゆっくりと蛇行しながら山道をのぼってゆく。山道といっても人間が煉瓦を敷き詰め舗装した道でもなく、動物が草や地面を踏み固めた獣道でもない。操舵者のいない馬はラズリーから指示を受けて、戦前の地図に記された今なき道を進んでいた。夜空の下、馬車が巻き起こす風が草木を薙いでゆく。ざわざわとした夜の音が馬車の後方に広がった。

 馬車の中、ロキは金糸のような髪を流れるままに広げて、席に横たわりすやすやと眠っている。力を使い果たしたため、とても深い呼吸をしているようだった。当分の間、目を覚ますことはないだろう。向かいに座ったラズリーは困ったような複雑な表情をした。

 ラズリーには、戦時中に人間達の手によって悪魔の経典から解き放たれた悪魔を回収し、新悪魔の経典に記載し直すという悲願がある。それは言い換えれば、すべての悪魔を従え悪魔の頂点に君臨することとなる。

悲願の達成のためにはロキの《あまりにも普遍的でそれでいて特別な感情》が必要だった。その力は誰しもが持つものであるが、ロキのその感情の純粋さはどこか異質だ。異質で、奇異で、それこそ悪魔のような側面を持ちあわせている。それはラズリーでさえ恐怖し、魅了されるほどの純粋さだった。

ラズリーは歴史のある悪魔ではない。さほど力を持った悪魔でもない。人間の残した数々の神話に登場する悪魔や堕天使に比べればラズリーは無のようなものだ。逸話もなければ、寓話もない。ゆえに、悪魔を本来あるべき新悪魔の経典へ還す力を行使するとき、ロキの力――《あまりにも普遍的でそれでいて特別な感情》が必要不可欠で、力のないラズリーは効率的に力を使うことができず、ロキの力を毎回フルパワーで使ってしまのだった。

力の加減はできない。

そして、加減してはならなかった。

旧悪魔の経典には編纂されたときの欠点があったからだ。

悪魔の順位付けだ。悪魔には序列があるという見解が一般的だった。

しかしそれは悪魔自身が決めたものではなく、人間が己の都合で決めたものだ。人間は群れをなし国家を形成しその中に王を見いだす。それを悪魔にも当てはめたのだ。

本来悪魔には序列はない。能力に違いはあれど悪魔はあらゆるものから独立しており単体で完結している存在である。それなのに、人間は悪魔の存在のあり方を歪めてしまった。人間があらゆる現象や精神に悪魔を見いだせば悪魔は生まれ、存在してしまう。人間が求めれば悪魔はその人間に寄り添う性質を持っている。だからこそ、いつしか人間は国家の王を求めるように、悪魔の王を求めてしまった。いないはずだったものも、いると見なされ求められればその瞬間から存在する。

悪魔の王は序列を形成する一歩となった。すると、本来悪魔同士でその存在を浸食しあうことはなかったはずなのに、戦争に利用され雌雄を争う一要素となった。戦に勝てばより強力な悪魔を模索する。負けてもより強力な悪魔を心の内に見いだす。そして世界は終わった。それが旧悪魔の経典の欠点だった。

ロキは昔話として世界の終わり方を知っていた。

繰り返してはならないと、ロキはラズリーに言った。

世界を愛している気持ちに違いがあれば、本に記録される悪魔に序列ができてしまう。それではいけないのだ。もしもいつか新悪魔の経典が完成し、それを読んだ人間がいたとして、強い力を求め、得ようと思ったとき、それを防ぐ方法はないのか。いつの日かロキは提案したことがある。

――もしも、新悪魔の経典に記載されたすべての悪魔の力が平等でまったく特徴のないものにできたら。そこに人間の欲望を叶える悪魔の姿がなかったら。人々の心に悪魔を生み出すきっかけを削ぐような、幸せな本にできたら。そしたらきっと……。

この途方もない夢の話をするとき、ロキは決まって笑顔になる。ただ、愉快な気分で話をしているわけではないことを、ラズリーは知っていた。ロキの望んだようなことが起こる保証はどこにもないということも知っていた。

――そしたらきっと、人間と悪魔の関係も変化していくかもしれないよね。

ラズリーはいつもこの話をするロキを無視してしまう。

――私たちがはじめられたみたいに。

《あまりにも普遍的でそれでいて特別な力》とは、愛のことだ。それも一方的な自己犠牲を伴った歪んだ愛だ。ラズリーはこのロキの愛に平等性を見出せないでいる。ロキは悪魔であり人間ではない。ロキに負担を強いる今の関係性は人間同士の愛ではない。それにロキが愛しているのは世界だ。世界を愛するロキに自分の姿がどのように映っているのかラズリーはわからなかった。

ラズリーは本を読んでいた。料理本だ。ラズリーは夕飯を作ろうと思っているのだ。普段はロキが主に料理を作る。しかし夕飯時に力を行使したため舌を満足させる生命線のコック長は寝てしまっていた。

ばふっ、という音にラズリーの眉がわずかに吊り上がった。

毛布を蹴る音だ。馬車の中でくぐもった音がこだます。狭い馬車内において寝相が悪いというのは精神衛生上最悪だった。ロキの足だけは元気だったのだ。

料理本はずっと同じページのままだった。目の前のロキの寝顔が気になって仕方がないせいだ。数分に一度の間隔でロキは毛布を蹴り飛ばす。そのせいでせっかく風邪を引かぬよう肩までかけてあげた毛布は無残に舞い落ちた。台無しである。そのたびラズリーは不機嫌そうにふくれてゆっくりと立ち上がり、毛布を掛け直し満足して、席に戻った。もうそんなことを何十往復も繰り返していた。ラズリーは短気なわけではない。我慢強い方だ。

ラズリーはむっつりとふくれた。小鳥がさえずるような小さな声で、なにやらぶつぶつとつぶやいた。そして次第にその声は聞こえなくなり、色素の薄い白磁のような顔がみるみる真っ赤になって……。

「うううううううんんんんにゃああああああああああああんっ!」

 ついに癇癪を越した。「ふー、ふー、ふしゃー」と荒く息を吐き出し、料理本を馬車の底に叩きつけた。こめかみには青筋が浮き上がっている。

「あ、あたしの施しを無下にするこの……かわい……、不細工な小娘は……なんなのよもう! もう辛抱たまらないわっ!」

 ラズリーはロキの襟を掴むと、めいっぱい引っ張った。ロキの頭が前後に揺れる。口がぽかんと開きラズリーの引っ張る腕の上に覆い被さるように倒れ込んだ。

「あ、や、ちょっ! よだれっ!?」

 ラズリーは戦慄した。ロキの口元から透明な液体がじゅるりとこぼれ落ちそうになっている。全身がこわばって動けなくなった。つーっと透明な液体は口元から小さな顎にたれ、そして雫となって今にもラズリーの袖口に落ちそうだ。ラズリーは動かない身体のかわりに目を回した。ただし、純度の高い雫の行方はしっかりと捉えている。そしてついに、ぴちょん、とフリルから覗く可憐な手の甲に滴った。

「……あ、……あっ、…………にゃあああああああああああああああああああッ!」

 ラズリーは腰を入れてロキをおもいきり突き飛ばした。

「へぶちっ!?」

 ロキはカエルを潰したような声を捻り出して、そして、ぐったりとしたまま動かない。ラズリーは震える声を絞り出した。

「あ、あんたが悪いのよ……よだれなんか垂らすから……ご、ご褒美じゃないんだから……ってちょっといつまで寝てるのよ? ……あれ、ちょっとロキ……?」

 ラズリーの真っ赤だった顔は見る間に青ざめた。ロキをあわてて抱き起こし、不慮の事故に対してあまりにも惨いことをしてしまったことを後悔する。元はといえば寝ているパートナーを引っ張り起こした自分が悪い。

 ロキのまぶたが静かに持ち上がった。

「ん……ラズリー……おはよ。あれ、毛布……かけてくれたの?」

 今まさにされたことにロキは気がついていないようだった。

「そ、そうよ」

 ラズリーは声を震わせながら、首肯した。

「……ね、ねえ、大丈夫?」

 馬車の底に膝をつき、ロキの頭を腿に乗せた。ロキの顔を覗き込む。どこか痛めていたら自責の念にかられて泣いてしまうかもしれない。

ロキの表情は優しかった。それが怖い。彼女の怒った表情を見たことがないせいかもしれない。どうやって怒るのか知らなかった。

「うん……大丈夫だよ。寒くないよ。だって、毛布かけてくれたから。ありがとう」

「え、やっ、そ、そうじゃなくって……その」

 口をぐにぐにと動かした。頭の中には言いたいことができあがっているのに声に出せない。どうしても出すことができない。怒ってくれた方が素直になれそうだ、なんて思ってしまう。

「なあに? どうしたの?」

「な、なんでもないわよ」

 言いかけた懺悔を飲み込んだ。するとロキが手を伸ばした。

「あ、私の帽子、男物なのに、ラズリーも意外と似合うね」

「なっ……なぁっ……!」

 ラズリーはロキの軍帽がずっと自分の頭の上にあったことをすっかり失念していた。

「しっ……、皺になるし他に置くところがなかったから乗せていただけよ! 言っておくけど被ってないんだから! 被ってないんだからね! わかるでしょ!?」

「うん、ありがとう。あ、もう大丈夫、起きれるから」

「な、ならさっさと起き上がりなさいよ。足が痛くてたまらないわ」

 ラズリーは起き上がったロキに軍帽を投げつけた。ロキはそれをしっかりと受け止めてくれたからいいものの、底に落ちていたらまた後悔するところだ。

 普段通りだといえばそれまでだけれど、いつまでこんな調子を続けていればいいのだろう。どうしていいかわからない。

ラズリーはいつもロキに対して言いたいことをそのまま言えなかった。何気ないことを言うにも余計なことを言ってしまうし、自分のことや自分の気持ちを伝えるとなると自制が効かなくなる。

「うわぁ……寝癖付いちゃって、髪の毛まとまらないや……」

「……寝相が悪いからそうなるのよ。そんなに邪魔なら短くしてしまえばいいのよ、まったく」

 髪を束ね軍帽の中に仕舞い込むロキを横目にラズリーは今すべきことを考えた。夕飯作りだ。ラズリーが寝ている間にすべてを作り終えてびっくりさせてあげようと考えていたけれど、ロキを起こしたのは何を隠そう自分自身だし、それはまたの機会にすることにした。

ラズリーは料理本を拾い上げ、ふと考えた。今夜の夕飯は自分で作ると宣言したものの、もしかしたらロキが突然作ると言いかねないと心配になった。ロキがそんなことを言い出す前に、ラズリーは釘を刺そうと思った。

「あ、ロキ、あたし食べたいものがあるの。ちょうど材料はそろっているし、ここのキッチンでもじゅうぶん作ることのできる、それなりにお手軽でいて、こだわるところにこだわり続ければ宮廷料理にも勝るとも劣らない、あたしにピッタリの料理なのよ。でね……その……」

 あたしが作るから――言えない。

「あんたの口に合うかわからないし、う、うまくできるかわからないけど……」

「んー、どんな料理?」

「野いちごと青カビチーズと塩漬け肉のキシュ。……でね、その、それでね」

 ――あたしが作ったそれを一緒に食べて欲しい。

 言えない。じれったい。むずがゆくて、逃げ出したくなる。なぜロキに対してこうも本心をさらけだせないのか。どんなことでも受け入れてくれるはずなのに、どうして。

「うん、いいよ」

 何が、とラズリーは言う。

「私が今からちゃちゃっと作っちゃうね。もう夕飯時も過ぎちゃってるし、ラズリーってばお腹空きすぎたんでしょ?」

「ち、ちがっ!」

「私もお腹空いたよ。一緒だね」

「………………違う」

 ロキは嫌な顔をせず、むしろやんわりとはにかんだまま、中腰になって立ち上がると席の向こう側にある、人ひとりが座るスペースがあるだけの簡易キッチンのほうへよじ登って行ってしまった。ラズリーは料理本を持つ手に力が入っていることに気がついた。なんとなくこうなることがわかっていた。ならばせめて料理本だけでも投げつけてやればよかった。まったくもってロキには必要ないものだったけれど。

 少しの間ぶるぶると震えて、ゆっくりと立ち上がった。ちょこんと席に戻る。ゆっくり息を吐き出して、深く沈み込んだ。もういい、どうにでもなれ。身体の内側からそんな言葉が浮かんでくる。本当はそんなことは思っていないというのに。

 かちゃかちゃと卵をかき混ぜる音が聞こえ始めた頃だった。

 馬がいななき、ゆっくりとスピードを落とし始めた。

 ラズリーは馬にうながされて外を漠然と見た。

 そこはぽっかりとひらけた土地だった。

 伸び放題の草木はなく、荒廃した様子もない。馬車の窓へ入り込む空気はほどよく冷却されちょうどいい心地だ。ラズリーはその感覚を知っていた。王都の夜に似ていた。

 馬車が完全に止まると、ラズリーは外に出た。ラズリーのブーツは高い音を立てる。馬車の灯りを利用して外の様子と戦前の地図とを何度も見比べた。

「ここ、本当にそうなのよね?」

 馬はぶるるっと鼻を鳴らし肯定する。ラズリーは我が目を疑わざるを得なかった。踏み固められた道の両端には綺麗に手入れされた木造民家や石造りの民家が軒を連ねていたからだ。その道の奥には背の高い建造物がある。月の明かりに照らされたそれは煉瓦造りで、時計塔付きの大きな屋敷だった。屋敷は左右対称になっており、向かって正面右側にその時計塔がそびえ立っている。王宮と比較するとはるかに規模の小さいものだけれど、王宮にこれほどの建造物は他にない。屋敷の周囲は城壁のように木々が並び、荘厳にさえ感じる。風が吹くと炭の香ばしい匂いがした。

「地図にあった採石場近くの村かな……?」

 馬車から出てきたロキがラズリーの隣で考え込んだ。

「あの子はそう言ってるわ」

 ラズリーは馬を指さして言った。馬の方向感覚や距離感覚に狂いはない。そういう能力を有した悪魔だからだ。疑いようもなかった。けれど、ロキはどこか違うところに疑問点があるようで、珍しく首を傾げたままだった。

「ここだけ、戦禍を免れたのかな」

「そうじゃないの? よかったじゃない」

 とは言ったものの、無責任だったとラズリーは思った。

 今にも人々の声が聞こえてきそうなほど、生活感のある、清潔な風景だった。まるで戦争から隔離されて今に至ったかのようなそんな雰囲気さえある。復旧をしたのだとしても、王都でさえいまだに復旧作業をしている最中なのだ。復旧に必要な物資はほとんど不足していてまるで進んでいないけれど。

「うーん」

 考え込むロキにラズリーは言った。

「採石場が近くにあるんでしょ? それに木材も手に入る。それならこの程度の規模の村なら修復できた可能性もあるじゃないのよ。生き残った人々がいるのかもしれないわよ」

「その可能性もあるけど、にわかに信じられないよ」

「そういうのを調べて情報を持ち帰るのがあんたの仕事なんでしょうに」

「うん、そうだね。考えていても仕方がないや」

 ロキは頷いた。

「それに、人間がいるなら好都合よ。悪魔はひとに寄り添うのだからね」

 山の麓に、まるで入山を拒むかのように悪魔の眷属がいたのだ。ここに悪魔がいる可能性は高い。いるのであれば、ラズリーも仕事をするまでだ。

「そうそう」

 ロキは思い出すように言った。

「ごはんできたから、食べてから散策してみようか」

 ラズリーは静かに頷いた。

 そのとき、時計塔の長針の動く音が聞こえた。さび付いたブリキのゼンマイが長い時をかけてようやく動いたような、重々しい音だった。月の光でぼうっと浮かび上がる時計盤に秒針はない。時刻はちょうど夜の九時をまわったところだった。

 ラズリーが吸い寄せられるように時計盤を見つめていると、ロキがラズリーの手を握り、優しく引っ張った。二人は屋敷に背を向けて馬車の方へ歩き出す。

 ――カシャン。

 長針がまた動く。

 二人が訪れるときをずっと待っていたかのように。


~続く~

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