変わらぬ街
雨宮の家に友人の立川が訪れた。谷戸の麓に位置する雨宮の家は時折、潮の風が屋根や壁を襲ってくる。その影響がよく見られた時、立川はやってきた。そして、屋根や壁を横目に見て、何も言わずにその哀れみを無表情に表した。
「やあ、どうも。この度はご愁傷様。お悔やみを申し上げます」
立川はそう言うと、手土産を雨宮に渡した。風が強く吹き、手土産を包んだ袋が音を立てて揺らいだ。その子煩い音は雨宮の物憂げな心を一時だけ忘れさせてくれた。
雨宮は立川を家に通した。手土産は草野という女中に渡し、立川を奥の間へと連れて行った。雨宮が僅かに歩き、立川に足並みを揃えて、その緊張のうちに先ほどまで忘れていた物憂げな心を戻した。
奥の間へ通された立川仏壇に線香を灯した。雨宮は立川に座るよう促した。立川はそれに応じ、雨宮の後に続いて腰を掛けた。
「しかし、気持ちの良い天気だ。じいさんが喜んでいるようだよ」
「病気も無く、老衰だったからな。幸せ者だよ。優しい人だった。尾形さんの所のテルを可愛がってたんだよ」
「ああ、近所の犬か」
テルというのは雨宮の隣の家で飼っていた犬なのであるが、その飼い主が飯をやらずにいたため、野良犬のようになっていた。近所の尾形という家がテルによく飯をやっており、テルは緒方の家の下で子供を産んだ。
立川はそう言うと、ポケットから煙草を取り出した。それを雨宮に見せつけ、雨宮は頷いた。会話は煙草の一時を待って行われた。
「久し振りにこの街を訪れたが、随分と賑やかになってたな」
「昔からだと思うよ。ただ、ここらは変わらず静かなままだから。助かるよ」
「景気も良くなってる証だ」
立川の言葉に雨宮は根拠を見出せなかったが、その言葉の色合いに機嫌が良い事を悟った。
草野が茶を持ってきた。机に茶を置く物音が滴る水滴のように響いた。雨宮はこれ程までに静けさが賑わっているとは思わなかった。
湯気が漂う茶を二人とも口にしなかった。ただ、会話はどう始めようかと二人とも伺ってるらしかった。
「尾形さんの息子も嫁と別れたんだって」
「へえ?それはどうして」
「そこまでは知らない。しかし、奥さんは田舎へ帰ったそうだよ」
立川は目を丸くしていた。煙草を吸うと、しなやかに目を細くし始めた。
「美人な奥さんだったのに。旦那は何が不満なのか」
「向こうから別れを切り出したこともありえるぜ」
「はあ、そうとも言えるか」
その立川の悲しさを雨宮はついぞ見たことがなかった。雨宮のおじいさんの死を電話で伝えた時ですら、立川はそのような悲しげな素振りを見せなかった。こんな些細なことで悲しさを見せた立川に雨宮は小さき憤りを思った。
「君、仕事はどうだ?」
雨宮がそう聞くと、立川は顔を少しあげ、雨宮を見つめた。
「楽しくはないな。しかし、金は良い。その為に生きているんだな」
「楽しく仕事できるなら世話ないな」
「君は楽しいんじゃないのか?」
「初めのうちだけさ。今は常に怯えてるよ。死んだじいさんを羨ましく思ったくらいだ」
「それは精神病だ。すぐに見てもらえ」
雨宮はその瞬間に笑ってしまった。それも途切れ途切れに立川に申し訳なさを思ったが為にそのような笑い方になって却って立川を馬鹿にしたようになってしまった。
「そんなら皆、病院行きさ。僕のような考え方は案外普通だぜ」
「そうかな。もしそうなら、俺の方が精神病か」
立川はそう言ったきり黙った。雨宮はその様子が如何にもおかしいらしくじっと見つめていた。
立川の口元がへの字になり、やがて、口角があがり、唇のみが突き出す形になった。
その様子が道化のように思えるも、それは立川の真剣な顔つきなのである。
「なあ、そんなに悩ましい顔されちゃ俺が困る」
「それは俺の顔に言ってくれ。俺に言われたって困る」
それには雨宮も閉口した。しかし、立川は機嫌を直したと見えて
「今は作品を描いてる最中か?」
「ああ、そうだが、見に行くか」
「ああ、そうしよう」
立川はそう言うと、雨宮よりも先に立ち、アトリエの方へ雨宮と進んだ。
アトリエは2階突き抜けの洋館であり、昔はダンスホールにも使われていたらしい。
部屋の真ん中には雨宮の描きかけの絵が寂しげに佇んでいた。立川は椅子のそばにより、絵を眺めた。雨宮はその様子を扉付近から眺めていた。立川のその姿が風が止まるような勇ましさと美しさがあった。
「何の絵だ?」と立川は言い、雨宮は笑ってしまった。
「見たまんまの絵だよ」
東華菜館のベランダから鴨川に向けて佇む女性の後ろ姿を描いた絵だった。
「何を表しているかと聞いてる」
「俺は写実主義だ。そんなものはない」
「そんな事はなかろう。君の絵の女性の背からは随分と離れ離れになった大切な人が透けて見えるぜ」
「女性にじいさんの面影があってたまるか」
「しかし、あるんだよ」
立川は決してふざけているわけではなかった。これさ立川が勝手に見たものなのか。それとも、雨宮が無意識のうちに描き込んだものなのかは見当がつかなかった。
雨宮も絵の方を見つめてみた。
「どうだ?」
「わからん」
「時期にわかるさ」
立川の一言には何か重い錨が後を引いてるように思えた。
しばらくして立川は家を後にした。立川を見送った後、雨宮は再び、アトリエに行き、絵を眺めたが、そこに浮かぶものは何もなかった。




