さ・し・い・れ
芝居小屋のある駅に着いて文庫本をポケットに押し込んでから、俺は自分が手ぶらである事を思い出した。
本を読む為に電車に乗ったんじゃあない。俺はため息を吐いてから財布の中にいくら残っていたか思い出そうとした。
芝居に誘う友達がいればそもそも差し入れなんて買わない。
役者は食うのに困っている訳じゃない。彼らが欲しいのは売り上げと言う実績であって、小分けにされた菓子を座組のひとと仲良く分けて食べる時間じゃない。
しかし俺は孤独で惨めで不細工な、つまりロックンロールリスナー型の人間なので、俺を呼んだ出演者が恥をかかない様にせめて気の利いた差し入れを買おうと百貨店の地下に潜る。
百貨店の地下に並ぶ希望の数々。価格もさる事ながら期待と安心の敷居はコンビニのそれより高い。色も香りも起伏が激しい。
だがそれも結局は仮面だ。立派な仮面。脱げば同じだ。俺が手を伸ばす事は無いだろう。欲しいものはそこに無い。
そうやって冷やかしたデパートの地下を後にする。
駅から劇場までの間の店では他の客が買う差し入れと被ってしまう。そもそも俺に友だちがいれば……文化的な感覚を共有できる消費者側の知人がいれば問題無いのに、俺は何に気を遣っているんだ?
駅のコンコースを劇場とは逆側に抜ける。
狭いアーケードに収まる薄ぼけた商店街。
距離感の近さが俺を窒息させそうになる。
声をかけるな、放っておいてくれ。必要なら俺がお前に声をかける……などと商店街の存在意義を覆す様なことを考えながら歩く。
俺は商店街が嫌いだ。その中にいると俺が何者でも無く、またどうしようもない余所者だと強く感じるからだ。俺の血にも肉にもその土地の歴史や時間が染み付いていない。俺の影だけが縫われず、薄いのだ。
客と言う身分は役割じゃない。いや、物を買わない客は役割の無い景色だ。つまり通行人は役割じゃない。そう言う風景だ。
モノを買う客は金を介して、どうにかこうにか売る人間や作る人間とどうにか関係している。その瞬間だけ「風景」から出て役割を得る。
さらに役割を延長してステージに立ち続けたいならば
「あそこのアーケードにある肉屋のメンチカツが凄く美味かったぜ」
「なら買ってみようかな」
と言う様な行為でそれをする事ができる。
だが生憎と俺には友達がいない。財布の中にはメンチカツを買う金も無い。つまり俺にその様な役割は発生しえないし、俺は風景から出ることができない。
俺がこのまま劇場に寄らず家に戻れば、そこで本来は得るはずであった役割もまた失う。
俺はまだ受付を済ませていない。金を払うまではリストに名を連ねた文字列のひとつでしかなく、俺を呼んだ役者の風景にすらなっていない。最低人気の競走馬の方がまだ役割を持っているし、存在に期待がされている。
俺は財布の中に前日投票で買った今日のレース馬券が入っていた事を思い出した。レースはまだ始まっていないが、芝居が終わるまでには結果が出ているはずだ。
差し入れはこれで良いだろう。紙屑になるか生活費になるか、楽しみにして欲しい。
劇場は不安定な場所だ。
俺は受付で金を払い、パイプ椅子に座る。舞台では芝居が打たれる。俺や他の俺と似たロックンロールリスナー型の観客たちは再び景色に戻る。
出演者たちは舞台の上で役割を熟す。俺たちはその風景を見ている。劇場そのものが風景となる。世界から断絶された風景だ。誰も知らない、何の役割も無い風景。
舞台に立つ役者たちが客席に向かって何かを喋る。俺を呼んだ出演者と目が合う。その瞬間だけ俺は役割を得る。その男も少しだけ他の役割を得る。俺たち以外の全てが景色になる瞬間が通り過ぎる。俺たちはまた景色に戻る。
一列に並んだ役者たちが頭を下げる。俺たちは景色から戻り役割を得る。役者たちはまた別の役割を得る。
中年女性の客は男性俳優の肩や肘に手を添えて取り留めのない話をするし、彼はそれに笑顔で応え続ける。
壮年男性の客は女性俳優を無遠慮な視線で舐め回し、彼女は身を捩るように笑う。
ホストクラブやキャバレーの類。
俺は彼に挨拶をするタイミングを掴めずに風景の中で沈殿する。俺の他にも沈殿したままの観客がいる。
彼女ら彼らはなかなかその役割を手放さない。役者たちもその役を終えようとしない。俺たちは景色の中から出られない。
俺は役割を諦めて劇場を出る。
景色の中から景色の中へ。
劇場を胎内巡りに例える奴もいるが、俺は劇場と言う景色から出ても相変わらず景色のままだった。
競馬のレースは2番目に人気のない競走馬が入賞したらしい。俺の勝ち馬投票券は夢とか希望と言う役割を失って紙屑になった。




