昨日までの毎日と、今日からの毎日
「じゃあ」
「うん。また」
最近、反抗期で目を合わせてくれないけれど。
「思ったより早く片付いたわね」
「うん」
でもちらりと投げてよこす視線で『寂しい』とは思ってくれているのを感じる。
「体には気をつけろよ。ちゃんと食えよ」
「寮なんだから、3食ついてるって。知ってるだろ」
不機嫌そうに下唇をつきだす。これは幼稚園生のときからのクセ。
「同じ部屋の方に迷惑かけちゃだめよ。ちゃんとご挨拶してね。ほら、菓子折り、ここよ」
「うるさいなあ。わかってるから早く帰れよ。渋滞するだろ。今日中に帰れなくなるだろ」
ぞんざいな物言いの中に隠れる、こちらを気遣う優しさ。
「はいはい、じゃあな」
「ゴールデンウイークには帰ってくるわよね」
「部活によるよ。ほら、先輩が戻ってくる前に早く帰れって」
それが照れ隠しなことも。
「またね、体に気をつけてね」
「わかってるよ、早く行けよ」
あなたのことなら、全部、全部、知っている。
「連絡ちょうだいね」
「わかったから」
追い出されるように廊下に出た夫婦は、バタンと閉じた扉の前で顔を見合わせて苦笑いをした。
「帰るか」
「そうね」
廊下を歩いていると、同じような親子のやり取りがそこここから聞こえた。
息子が高校生になった。
受験戦争を勝ち抜き、第一志望で、県内随一の私立の進学校に受かった。この学校の1,2年生は全寮制で、先輩と同室の2人部屋だ。今日はその引っ越しの日。荷物は先に業者に頼み、親子3人、実家から自家用車でやってきた。
夫と2人、黙って駐車場に向かう。車に乗り込むと、妻はポツリと呟いた。
「あの子、大丈夫かしら」
夫のシートベルトからカチャン、と音がする。
「大丈夫だろ」
車のエンジンがブルンと鳴る。車好きのあの子は小さい頃、この音を聞く度に嬉しそうにパチパチと拍手をしたものだ。
「だって、片付けもできないし、洗濯物も畳めないし。ご飯はいいとして、共有の洗濯機、うちのとは違う型だったのよね」
「よく見てるな。ほら出るぞ。お前もシートベルトしろ」
夫がギアをドライブに入れ、ウインカーを出した。
「そりゃそうよ。同じ部屋の方にご迷惑をおかけしないか不安だわ。受かってから寮になるってわかってたんだから、もっと家事を習慣づけさせとけばよかった。でも最近は話しすらしてくれなかったし、ああ、どうしよう」
頭を抱える妻に、
「そのために先輩と同じ部屋なんだから。それにみんな同じ条件だろ。なんとかなるって」
と、夫が慰めの声をかける。
「お、うまそうな定食屋があるぞ。今日は遅くなったし、食べて帰ろうか」
「そうね」
窓の外の景色を見ていた妻は、(これから何度もここを通るのかしらね)と思いつつ、生返事をした。
「おはよう」
「ああ、あなた、おはよう。ご飯、自分の分、食べる分だけよそってくださいね」
味噌汁をよそった妻は、テーブルをじっと見ている夫に声をかけた。
「どうしたの?」
「……」
妻もテーブルを見る。いつも通りのメニューが並んでいる。
「多い」
「え?量、多かったかしら?いつもと変わらないと思うけど…」
「いや」
そう言ったあと、しばらく黙った夫に、妻が首をかしげていると、夫が
「今日からあいつはこの家にいないんだぞ」
と言った。
妻はそう言われてはっとした。
息子のいつも座っている席の前に置かれている卵焼きと魚と味噌汁とひっくり返した茶碗。
「あら、やだ」
慌てて片付けようとして、夫に止められた。
「俺が食べるから大丈夫」
いただきます、と席について箸を手に取る。
「ごめんなさいね、つい」
妻が決まり悪そうな顔をすると、夫が笑った。
「そうだよな。習慣って恐ろしいな。わかるよ。俺も、つい、『朝だぞ。起きてるか』ってあいつの部屋をノックしようとして、そうだったな、この部屋にはいないんだよなって思ったからな」
夫が味噌汁をすする。妻はテーブルの上を眺め、ため息をついた。
「あの子、ちゃんと食べているかしら……」
「そこは大丈夫だろ。寮母さんが3食作ってくれるんだから」
朝から腹いっぱい食うのも悪くないな、と最近また少し出っ張ってきた腹をさすりながら、夫は仕事に出かけていった。
「このまま私の習慣が変わらないと、あの人、もっと太っちゃうから。気をつけないと」
いってきます、と手を振るその後ろ姿を、あの子に「父さん、お先〜」と追い越されないその後ろ姿を、玄関先で見送りながら思う。
きっとあの子も新しい生活に戸惑いながらも少しずつ慣れていくのだろう。
「こちらも負けないようにしなくちゃ」
今日はいい天気だ。大きく深呼吸をして、うーんと伸びをして家に戻った。




