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静寂が溶けた朝

作者: 久遠 睦

第一部 静かなハミング


佐藤由里子、46歳。彼女の一日は、まだ空がインクを滲ませたような濃紺に染まっている午前5時に始まる。ひんやりとしたキッチンの床の感触が、スリッパ越しに足の裏に伝わる。それは、今日もまた同じ一日が始まるという、静かな合図だった。炊飯器のスイッチを入れる音、まな板の上で小気味よく響く包丁の音、卵焼きがじゅうっと音を立てる匂い。高校生の娘、晴菜と未央のための二つの弁当箱と、夫の健司のための少し簡素な弁当箱が、手際よく、しかし何の感情も込められずに作られていく。彼女の動きは、長年の反復によって磨き上げられた、無駄のない自動機械のようだった 。


食卓に家族が揃う頃には、家の中は一日の始まりを告げる喧騒に満ちる。しかし、その喧騒の中心に由里子はいない。彼女はまるで背景の一部、家の機能を維持するための静かなハミングのような存在だった。健司は朝食のトーストを齧りながら、スマートフォンの画面に映る仕事のメールに眉をひそめている。娘たちは、それぞれのイヤホンで世界から遮断され、指先だけが猛烈な速さで動いている。交わされる言葉は、情報を伝達するための記号に過ぎない。「お父さん、ネクタイは?」「お母さん、体操服どこだっけ?」。そこには感情のやり取りはなく、ただ機能的な要求と応答があるだけだ。家族は物理的には同じ空間にいるが、心はそれぞれの孤立した惑星を公転しているようだった 。

夫と娘たちを送り出した後、家には完全な静寂が訪れる。由里子は、彼らが残していった小さな混沌を一つずつ片付けていく。脱ぎ散らかされたパジャマ、洗面台に飛び散った水の跡、リビングのソファに置き忘れられた雑誌。掃除機をかけ、洗濯機を回し、部屋を整える。この家事という労働は、家族の生活を円滑にするために不可欠でありながら、誰からも意識されることはない。それはまるで空気のように、あって当たり前で、なくなって初めてその存在に気づかれるものだった。なぜ女の労働は見えないのだろう、と彼女は時々思う。それは社会問題として語られることさえなく、家庭という閉じた空間の中で、静かに消費されていくだけだ 。


パートタイムの仕事、スーパーマーケットでの買い物、そして夕食の準備。一日は同じリズムで進んでいく。夕食の食卓は、朝と同じ光景の再現だ。「学校どうだった?」「別に」「仕事は?」「忙しいよ」。会話はすぐに途切れ、娘たちは食べ終わるとすぐに自室の殻に閉じこもる。思春期の娘との関係は、日に日に薄いガラスの壁が厚くなっていくような感覚があった 。健司は食後もダイニングテーブルでノートパソコンを開き、見えない壁の向こう側で仕事の世界に没頭している。家族とは、こういうものなのだろうか。長く連れ添った夫婦とは、皆こんな風に形式的になっていくのだろうか。角田光代の小説に出てくる主婦のように、夫や姑との「よくある会話」が、じわじわと孤独の淵へと自分を追いやっているような気がした 。

午後9時、ようやく全ての家事が終わる。由里子にとって唯一の聖域は、湯船の中だった。スマートフォンでSNSを眺めるでもなく、テレビを見るでもない。ただ、湯の中に体を沈め、目を閉じる。今日一日の出来事、積み重なった小さな苛立ちや諦めが、湯気と共にゆっくりと溶けていく。夫には仕事があり、娘たちには学校や部活、友人との世界がある。それぞれが「やりがい」のある毎日を生きているように見えた。それに比べて自分はどうだろう。主婦の役割とはこういうものだと割り切れれば楽なのに、心のどこかで何かが違うと叫んでいる声が聞こえる。幸せって、一体何なのだろう。答えの出ない問いが、寝室のベッドの中で、夜ごと彼女の頭を巡っていた。


第二部 ひび


その朝、由里子は目覚まし時計の音を聞かなかった。けたたましい電子音ではなく、窓から差し込む眩しいほどの陽光が、彼女を深い眠りから引きずり出した。時計の針は午前8時を指していた。血の気が引く。いつもならとっくに朝食と弁当の準備を終え、家族を送り出している時間だ。

慌ててリビングに飛び出すと、そこには嵐が過ぎ去った後のような光景が広がっていた。制服姿の娘たちと、ワイシャツに袖を通した健司が、それぞれの不満と怒りを剥き出しにして仁王立ちしていた。彼らの口から発せられた最初の言葉は、由里子の体調を気遣うものではなかった。自分たちの日常が乱されたことへの、容赦ない非難だった。

「なんで起こしてくれないんだよ!」 「お母さんのせいで遅刻する!」 「お弁当は?今日のお昼どうするのよ!」

彼らの言葉は、「あなた」を主語にした、相手を責め立てるナイフのようだった 。それは、長年にわたるコミュニケーション不全が生み出した、典型的な否定的コミュニケーションの応酬だった 。彼女のたった一度の失敗は、まるで契約不履行のように扱われた。何千回と繰り返されてきた完璧な朝は、感謝の言葉一つなく当たり前のこととして消費され、たった一度の綻びが、これほどの怒りを買う。その理不尽さが、由里子の胸を突き刺した。


彼らはそれぞれの不満を吐き捨てるようにして、玄関のドアを乱暴に閉めて出て行った。後に残されたのは、食べ散らかされた食卓。その静寂の中で、由里子は立ち尽くした。長年、彼女の内側で張り詰めていた細い糸が、ぷつりと音を立てて切れたのを感じた。それは、長年抑圧してきた感情が、ついに限界を超えて爆発した瞬間だった 。

彼女はまるで夢遊病者のように、ゆっくりとテーブルに向かった。引き出しからメモ帳とペンを取り出す。怒りに任せた長い手紙を書く気力はなかった。ただ、震える手で、短い一文を書き記した。

「少し、旅に出ます」

洗い物の残るシンク、作りかけだった味噌汁の鍋。その全てを背にして、由里子は小さなボストンバッグ一つで、静かに玄関のドアを開けた。


第三部 違う空気を吸う


特急電車の窓の外を、見慣れた街並みが猛スピードで過ぎ去っていく。由里子のバッグの中では、スマートフォンが狂ったように振動を繰り返していた。健司、晴菜、未央。三人の名前が、代わる代わる画面に表示される。しかし、彼女はそれを見ようとはしなかった。都市の風景が遠ざかり、車窓に緑豊かな山々が広がり始めると、恐怖と同時に、今まで感じたことのないような解放感が胸に込み上げてきた。これは逃避ではない。自分自身を取り戻すための旅なのだ 。

目的地は、長野の山懐に抱かれた白骨温泉。かつて雑誌で見かけて以来、いつか訪れてみたいと密かに憧れていた場所だった 。バスを乗り継ぎ、たどり着いた温泉宿は、凛とした空気に包まれていた。出迎えた旅館の女将は、深々と頭を下げて言った。「佐藤様、ようこそお越しくださいました」。誰かの妻でも、誰かの母でもなく、「佐藤由里子」という一個の人間として扱われること。その単純な事実が、乾いた心にじんわりと染み渡った。

通された部屋からは、夏の新緑が目に鮮やかな渓谷が見えた。彼女は荷物を解くと、まっすぐに露天風呂へと向かった。乳白色の湯に体を沈めると、まるで薄い絹の衣をまとったかのように、肌が滑らかになるのを感じた 。湯は彼女の体を覆い隠し、日々の役割という名の鎧を一枚一枚剥がしていくようだった。聞こえるのは、川のせせらぎと鳥の声だけ。食料品のリストも、洗濯物の心配も、家族のスケジュールも、今は何一つ頭に浮かばなかった。

その夜の食事は、一人で味わうには贅沢すぎるほどの会席料理だった。一品一品、丁寧に作られた料理が、美しい器に盛られて運ばれてくる。いつもは作る側、与える側だった彼女が、ただ受け取り、味わうことに集中する。地元の酒を小さなグラスで一口飲むと、体の芯から緊張が解けていくのを感じた。これはささやかな贅沢でありながら、彼女にとっては人生を賭けた反逆のようにも思えた。

翌日、彼女は少し足を延ばして上高地を散策した 。大正池の幻想的な風景、梓川の清流、そびえ立つ穂高連峰。その圧倒的な自然の前に立つと、自分の悩みがいかに小さく、そして同時に、いかに切実であるかを悟った。彼女は家族を捨てたいわけではない。ただ、もう以前の自分には戻れないし、戻りたくもなかった。家に帰ろう。でも、帰るのは新しい私だ。そして、私が帰る場所も、新しい家族でなければならない。彼女は、自分自身の足で、自分自身の人生を歩む決意を固めていた。


第四部 嵐と静寂


三日後、由里子が自宅の玄関を開けた時、目に飛び込んできたのは、彼女の不在が作り出した物理的なカオスだった。リビングにはコンビニの弁当容器が散乱し、シンクには汚れた食器が山積みになっている。洗濯物はカゴから溢れ、家全体が淀んだ空気に満ちていた。それは、彼女という歯車が一つ欠けただけで、家族という機械がいかに脆く、機能不全に陥るかを雄弁に物語っていた。

リビングのソファに、健司と娘たちが座っていた。由里子の姿を認めると、安堵と怒りが混じった複雑な表情で立ち上がる。「どこに行ってたんだ!心配したんだぞ!」という健司の言葉は、すぐに非難の色を帯びた。「勝手にいなくなるなんて、無責任すぎるだろう!」

かつての由里子なら、ここで「ごめんなさい」と謝っていたかもしれない。しかし、白骨温泉の白い湯と上高地の澄んだ空気を吸い込んだ彼女は、もう違う人間だった。彼女は、彼らの非難の嵐に、静かな、しかし揺るぎない声で応じた。彼女の言葉は、相手を責める「あなたメッセージ」ではなく、自分の心をありのままに伝える「わたしメッセージ」で紡がれていた 。

「(わたしは)とても寂しかったの」

涙が頬を伝う。しかし、声は震えていなかった。

「毎日、みんなのために食事を作って、掃除をして、洗濯をしても、誰からも『ありがとう』の一言もない。まるで、わたしがこの家にいないみたいで…。(わたしは)みんなが当たり前だと思っていることをするのが、どんどん辛くなっていったの。あの朝、みんながわたしを責めた時、(わたしは)自分がただの家事をする機械なんだって、はっきり分かってしまった。それが、たまらなく悲しかった」

彼女は続けた。

「(わたしは)家族を辞めたいんじゃない。もう一度、本当の家族になりたいの。昔みたいに、お互いを思いやって、助け合って、一緒に笑って過ごせる家族に。お互いを一人の人間として尊重できる、そんな家庭に戻りたいの」

彼女の、魂からの叫びだった。それは、長年蓄積された感情のわだかまりが決壊した瞬間であり 、同時に、家族関係を修復したいという切実な願いでもあった 。

由里子の言葉は、物理的な衝撃となって三人を打ちのめした。彼らは、初めて彼女の痛みに触れた。便利で当たり前のサービスを提供してくれる「母親」「妻」という役割の向こう側にいる、傷つき、苦しんでいる一人の人間の姿を、初めて直視したのだ。

非難の言葉は消え、誰も何も言えなかった。重い、しかし何かが変わる予感をはらんだ静寂が、散らかったリビングを満たしていた。嵐は過ぎ去り、そこには変革の前の、深く、厳かな静けさが訪れていた。


第五部 丁寧な再構築


翌朝、由里子が目を覚まし、恐る恐るキッチンへ向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。長女の晴菜が、不格好ながらも必死に卵焼きを巻いていたのだ。ご飯は少し柔らかすぎたが、それでも彼女は弁当箱にご飯を詰めようと奮闘していた。由里子に気づくと、晴菜は気まずそうに、しかしはっきりとした声で言った。

「おはよう、お母さん。これからは…私たちも手伝うから」

それは、変化の始まりを告げる、小さくも確かな一歩だった 。

その週末、健司が提案した。「これからは、週に一度、家族会議をしないか」。最初の会議は、ぎこちない沈黙から始まった。しかし、彼らは事前にいくつかのルールを決めていた。それは、ただの話し合いを、意味のある対話に変えるための約束事だった 。

誰かが話している時は、最後まで口を挟まずに聞く 。

スマートフォンやテレビは消す。

目的は相手を論破することではなく、お互いを理解し、一緒に解決策を見つけること 。

まず「今週あった良かったこと、大変だったこと」から話す 。

この安全な枠組みの中で、彼らは少しずつ、自分たちの言葉を取り戻していった。ある会議で、次女の未央が門限について不満を口にした。以前なら「わがまま言うな!」と一蹴されていた場面だ。しかし、彼女は学んだばかりの新しい言葉を使った。「(わたしは)友達ともっと一緒にいたいけど、門限も大事だって分かってるから、どうしたらいいか悩んでる」。それは、単なる反抗ではなく、助けを求める対話の始まりだった。

健司も変わった。夕食後にダイニングで仕事を続けることをやめ、書斎に移動するようになった。「(わたしは)君たちと一緒にいるのに、心はここにいないことが多かったと気づいたんだ。(わたしは)それを変えたい」と彼は言った。それは、家族と向き合うという、彼の決意表明だった 。

そして、彼らの日常に、以前は存在しなかった言葉が芽生え始めた。「お母さん、夕飯ありがとう。美味しかったよ」「由里子、学校の書類のこと、やってくれてありがとう。助かったよ」。感謝の言葉は、ささやかだが強力な接着剤のように、家族の新しい関係を繋ぎ止めていった。感謝を表現する習慣は、ポジティブな感情を育み、関係性を豊かにすることが研究でも示されている 。

数ヶ月が過ぎたある週末。彼らは家族会議で、休日の過ごし方を話し合っていた。以前なら、目的もなくショッピングモールへ行き、結局は別行動になるのが常だった 。しかし、その日は違った。みんなで意見を出し合い、海辺の公園へピクニックに行くことに決めた。それは、共に時間を過ごし、共通の思い出を作るという、明確な目的を持った選択だった 。

海へ向かう車の中、四人は笑い、話していた。窓の外には同じ景色が流れ、彼らの視線は同じ方向を向いていた。それはもはや、同じ屋根の下に住む同居人ではなく、同じ未来へ向かって進む、一つの家族の姿だった。由里子が流した涙によって溶けた静寂の朝は、彼らにとって、本当の家族としての新しい夜明けとなったのだ。


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