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すべてが海になれればいいのに

作者: 腰越 おん

 優くんと最初に出会ったのは、中学一年の秋のことだった。

 転校したばかりの私は、生徒会の集まりで初めて音楽室に足を踏み入れた。

 そこに、ひとつ年上の優くんがいた。

 窓から差し込む光に白く満たされたその部屋で、彼の姿だけがやけにくっきりと見えたその瞬間の空気や匂いが、今でも胸の奥に残っている。


 彼は中学卒業後、つまり、高校入学と同時に、男子校の寮に入り、ほとんど地元には戻らなくなっていた。


 ただ一度、コロナで学校が休校になったとき、優くんが帰省していた。それは、私が高校二年、優くんが高校三年の時であった。

 数年ぶりの再会に照れながら、夜ご飯を食べたあと、二人であの街を歩いた。


 不思議な夜だった。車はたくさん走っていたのにエンジン音が聞こえることはなかった。そして、店の灯りも人通りも、ぼやけていて、私と優くんの二人だけがその街に溶け込んでいたのだと思う。あの時を振り返ってみると、街を歩いていた人々たちは、おばけのいたずらで、街灯になっていたかもしれないと思う。


 何を話したのかはもう曖昧だ。

 ただ、街灯の明かりと2人だけの足音が、別の世界への入口のように思えた。街の出口に差しかかったとき、優くんは唐突に私を抱きしめたてくれた。世界が止まり、胸の奥で時間が焼きついた。

 あの夜、確かに私たちは「二人だけの街」にいた。今もそう信じている。


 そして今。

 七里ヶ浜は春一番にかき回され、白い波頭がいくつも立ち上がっていた。

 優くんと並んで見ている景色は、まるで映画のワンシーンのようだった。久しぶりの再会だからこそ、そう見えたのだろうと思う。


 浪人を経て、私が大学一年になった春。

 東京に住んでいる優くんに会いに行き、二人で鎌倉に向かった。


 鎌倉駅から商店街を抜け、寺を過ぎ、石畳の路地へ入る。潮風と線香の匂いが混ざり合い、胸が詰まった。


 夕日に染まる街角で言ったと思う。

 「優くん、あのね」

 「ずっと優くんのことが好きだった」


 声が震え、足元が揺れた。

 優くんは驚いたように目を開いたあと、静かに「僕もだよ」と答えた。

 その一言で、時間がほどけていった。

 夕日は落ち、世界そのものが私たちを祝福しているように見えた。


 公園で優くんの書く小説の話を聞き、文豪の名字ばかりの住宅街を歩き、「文学の神様に助けられてるのかもね」と笑い合った。


 そしてその夜、横浜に戻り、パシフィコ横浜の階段に体操座りをして港を見た。

 ビルの光は涙ににじみ、夜景はかすんだ。

 「付き合えて嬉しい。でも、会えない時間の方が多いのが怖い。別れるのが来るなら、最初から付き合わなければよかったのかもしれない」


 震える声に、優くんはしばらく黙って、それからこう言った。

 「出会えば必ず別れは来る。でも、その時までの今を満たせばいいんじゃないかな」


 その一言で救われる気がした。けれど、救いを信じることすら怖かった。私は夜景に顔を埋め、声をあげて泣いた。


 その翌日の出来事。

 2人で恵比寿に向かう途中、本屋に立ち寄った。

 平台には「街とその不確かな壁」の新刊告知が積まれていた。

 「昨日話した、春樹の新刊」

 「うん。やっぱり出るんだ」

 照れくさく笑い合い、ガーデンプレイスの展望台へ上がった。


 眼下に広がる街の光は、糸の網目のように絡み合っていた。

 「昨日、あの本の中に“永劫的”って言葉があったよね」

 「海が永劫的にどうこうってやつ」

 「永劫って、なんだろうと思って」

 答えは出なかった。けれど二人で考えること自体が答えだった。


 その夜、夜景に満ちたホテルの部屋に向かった。アロマキャンドルの炎が揺れて、甘い香りが溶けた。

 「いい匂いだね」

 私がそう言うと、優くんはふっと火を吹き消した。キャンドルなど最初から必要がなかったのわかったのは、夜景が灯りになると知った数時間後だった。


 闇に沈んだ部屋で、香りだけが残った。そこに確かにあるのは、怖さだけだった。


 ロマンティックに言えば、吐息、手の温かさ、視線。それらが恐怖を少しずつ溶かし、私たちは触れ合い、交わり、二人でありながら一人になった。

 言い換えれば、獣化した優くんの頭を撫でては私の頭を優くんが撫でるような一連の行為。


 「海になれればいいのに」と思った。

 そうすれば切り離されることなく、このまま永遠に繋がっていられるから。


 けれど白波は必ず引いていく。

 寄せては返すその運命に、私たちもきっと逆らえない。


 それでも、あの夜だけは確かに優くんと一つになれた。

 その記憶は、今も波の音のように胸の奥で響いている。

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