朝守の業
大して面白みのない会合が終わって外に出ると、秋の空には茜色が混じり始めていた。酷暑の盛りは過ぎたようだが、夕方となってもどこか湿度の高い空気だ。冷房で涼んでいたはずの体が、この生温い風で少しずつ汗ばんでいく少し先の未来を予測して、わずかに眉をしかめた。
まったく、初めて朝守の会合に出てみたが、あの菫さんが毒を吐くのも納得のメンツだった。ようやく表に出てきた朝守家当主と、自分らの孫娘をなんとか縁付かせようと何かと誘ってきたが、師匠の時もそうだったんだろう。師匠が呆気なくあしらっていた。いくら俺と縁付かせても、次の当主を選ぶのは暁だ、と。全くもってその通りだ。
こんな椅子ならいくらでも譲るんだけどな。朝守家には莫大な資産がどうやらあるらしいんだが、妖退治という役目も含めてだったら誰も手を挙げないのだろう。
着慣れない羽織に大勢の老人たちに囲まれてやいのやいのされたからか、どうも背中が痛い。
「疲れたか」
くたびれたように首を押さえた俺に、師匠が声をかけてきた。
「戦闘とはまた違う疲れです」
「それはそうだろう。何年も引きこもっていたお前が、よく耐えられたものだと感心すらしている」
「……それはどうも」
褒めているんだろうか。褒めているんだろう。あるいは労っているのだ。この表情の変わらない義父は滅多に褒めないのだ。ありがたく受け止めておこう。
「表通りに車を停めているそうだ。さっさと帰るとしよう」
会合会場を出たところで、重鎮たちに捕まっては面倒になる。言外に含まれた意図に頷き、その背中に従った。
表通りに面したカフェの外観が見えた時、ふと、仁藤さんを思い出した。カフェを見ると条件反射で彼女の顔が思い浮かぶ。アルバイトが休みの日はカフェ巡りをしている、と言っていた彼女の顔を。今日は確か喫茶あけぼのが休みの日だ。今頃、彼女はどこかでコーヒーを飲んでいるんだろうか。ふと、今朝渡された組紐の存在を意識し、懐に手を当てた。
「樹」
先に乗るように師匠に促され、車のドアに手をかけたところで、背中に視線を感じた。
敵意ではない。好奇心の類い。いつもなら捨て置く程度の視線だ。
それなのになんとなく、その視線を追いかけるように振り向いた。
カフェの窓ガラス越しに、視線の主と目が合う。ハッと息を飲んだ。距離にしたら10数m先に、彼女がいた。
一瞬、驚きで目を丸くし、その次の瞬間には破顔し、そして彼女の右手が小さく左右に揺れたのが見えた。全てがスローモーションのように流れる映像を眺めている心地だった。
……仁藤さん。
今まで彼女が見せてくれた色んな表情が、喜びや驚き、ごめんねと言いながら手を合わせた表情、記憶の中の彼女のヒーローに憧れる表情が脳内を駆け巡り、最後に、今朝の悪夢が呼び起こされた。
恐い。彼女に手を伸ばすのが、恐い、と体が震えた。無意識に目を逸らし、俺は後部座席に乗り込んでいった。彼女の視線から逃れるように。
恐い、などと。初めて妖と対峙した時ですら抑えつけられた感情だ。
深く息を吸い、落ち着かせるようにゆっくりと吐いた。
後部座席の革張りのシートがやけに硬く感じる。自分が今どこで何をしているのか、すこんと抜け落ちたようで、ぼんやりと窓の外に目を向けた。茜色の夕空がスモーク越しに目に映る。そうだ。彼女の名前は、茜、だったな。
「なるほど、彼女がお前の決めた相手か」
「……なっ!」
「狼狽えるな、馬鹿が。ここが戦場ならお前はとっくに死んでいる」
冷静な師匠の声に冷水を浴びせられたかのように背筋が凍った。
おいおい、俺は今いったい何を……この鬼師匠の前で、感情を大きく揺らすなんて!
慌てて姿勢を正した俺は、努めて冷静を装い、窓の外に顔を背けた。これ以上の醜態は見せられない。
「菫から聞いている。どうやら『決めた』相手がいるようだ、と」
「何を言われているのか、皆目検討がつきません」
「隠す必要などない。先ほどのお前の様子を見れば一目瞭然だ。無様にも感情を大きく揺らすお前の顔、10歳のガキの頃と変わらずなかなか見ものだった」
「……冗談はそれぐらいに――」
「この際だ。樹、私はお前に言いたいことがあったのだ。屋敷に着くまで大人しく聞くんだな」
朝守家お抱えの運転手が運転席に乗り込む音が聞こえ、車は静かに動き始めた。
シートベルトを締める動作をしながら隣に座る師匠を横目で見やると、相変わらずその顔には何も浮かんでいない。
40代にしては引き締まって見える体躯は、長年の妖との闘いとその精神性を表す姿勢の良さの産物だ。菫さんが目にハートマークを浮かべるほどには整っている顔の造りも、俺からしたら鬼の面にしか見えない。あの顔が地獄のしごきを耐えてきた10代の思い出と重なっているのだから。
師匠が少し口を開き、一瞬ためらった。おや、と思う間に、つぶやくように言葉を紡いだ。
「……お前には悪かったと思っている」
師匠の能面のような顔が一瞬、揺らいだ。目を見張った。
「たった、10歳だ。たった10歳の子供を親と引き離し、過剰とも言える訓練を強いた。全ては世のためだ。大災厄が近いことは分かっていたし、暁がお前を選んだ以上、その大災厄に向けてお前を闘えるほどに鍛えなければ、命を落としてしまう。仕方がない。私はそう自分に言い聞かせながらお前を鍛えた。……結果、世は救われたし、わずかに亡くなった方はいるが、被害は最小限に抑えられた。樹、お前は十分によくやった。だが、その結果……お前は得られたはずの“普通の日常”を失った。そればかりか……我々は成人したばかりの若造一人に失った命の重みを背負わせ、降ろすことのできない重荷をその人生に背負わせてしまっている」
普段の師匠からは想像できないほどの饒舌な口ぶりで言葉を紡いでいた師匠は、一旦言葉を区切り、軽く深呼吸をした。俺の感情を落ち着かせる方法は、この人から教えられたのだ。師匠の表情が、またいつも通りに戻った。その厳しい目が俺に向けられる。
「お前の背負っている荷は、お前だけのものではない。私にも背負わせなさい。それがお前を普通ではない人生に巻き込んでしまった私のせめてもの罪滅ぼしだ。それに……我が子の苦しみを見て見ぬふりなど、親にはできないものだからな」
添えられた一言に、師匠の眦が少し緩んだような幻覚が見えた。
子供だと思ってくれていたのか、と純粋な感想が浮かび上がった。
「――日向の店に樹が行くようになり、少し安心したんだ。また外の世界に目を向ける気が、樹に出てきたことにな。しかも、『相手』まで見つけてきて」
「……彼女は、そういう相手ではありません。彼女にとってはただの迷惑でしかない」
「ふふっ、樹、覚えておくといい。私たちのように暁を振るう朝守の者は、どうあっても普通ではいられない。だからこそ、私たちを現世に結びつけておくには、唯一無二の縁が必要なのだ。見て見ぬ振りをしたとして、果たしていつまで保つか……。これは、逃れようのない朝守の業なのだからな」
ふんと鼻で笑うように口角を上げた師匠は、眉根をしかめた俺を見やった。いつぞやの山岳修行の折、ここまで登って来い、と岩盤の上で不敵に笑った時と同じ顔だ。
高みの見物かよ。到底納得などできない。俺はそっぽを向くようにまた窓の外に目を向けた。
「とはいえ、そんな悠長なことも言っていられない事情があるんだ。さっさとその紐を彼女に渡さないと……っと」
師匠の言葉が途中で途切れたかと思うと、懐からスマホを取り出した。着信があったのだろう。
「ああ、今ちょうど終わって帰りの車の中だ。どうした? ……暁が?」
思いがけない人物(刀か犬か?)の名を聞きつけ、師匠の方を向くと、怪訝そうに眉をしかめた師匠がスマホに向かって何度か相槌を打っていた。
「分かった、まもなく到着する。戦闘着を準備しておいてくれ」
「は、戦闘?」
またもや思いがけない単語が師匠の口から出てきた。師匠は電話を切ると、内心で驚く俺に向かって告げた。
「暁が騒いでいるそうだ。各地で妖の気配が活発化していると。まるで3年前の大災厄の前触れのようだ、と。――理由は不明だが、お前がやることは一つだ。できるな、樹」
「当然です」
何故収まったはずの大量発生期の前触れのような状態になっているのか、分からないことはとりあえず後回しだ。3年前の二の舞にはさせない。誰も死なせない。
俺は勢いよくうなずいた。