縁
昼間の残暑の厳しさが鳴りをひそめる、早朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。遠く東の空には既に太陽が顔を出していて、眼下の中庭を眩しく照らしていた。また今日も暑くなるのだろう。店外の掃除が大変だろうな、と喫茶あけぼのを思い浮かべ、ゆるく首を振る。もう俺が考えることではないことだ。
寝ることができたかどうかすら、自分でも分からないほど体が重い。原因は分かっている。夢見が悪すぎた。よりにもよって、大量の妖に囲まれる夢を、しかも仁藤さんが襲われる夢を見るなんて。あれはあり得た未来だ。俺があのまま彼女の側にいたいと願ってしまったら、遠くない未来に起こりうる最悪の展開。
叫び出したい衝動を喉の奥でこらえた。自室に引き返し、木刀を取りに行く。こういう時は無心に刀を振るうに限ると経験が言っている。
「――あら、もう起きてたの? 樹くん」
離れに通じる廊下の奥から、早朝の爽やかな空気にお似合いな、明るい声が聞こえてきた。
目を向けると、若草色の着物を涼やかに着こなした義母、菫さんが笑みを浮かべていた。両腕で桐箱を抱えたまま立ち止まり、俺の部屋の前で優美な仕草で座ると、音もなくそれを傍に下ろした。いつ見ても隙のない身のこなしだ。
「百合さんから、最近また樹くんの朝が遅くなったと聞いていたけど、どうやら違ったみたいね」
菫さんが困ったように眉尻を下げた。内心呆れているのだろう。通いの家政婦である百合さんの名前が出たところで、ここ最近の俺の動向は既に筒抜けとみていいだろう。
さて、お小言か、お叱りか。ん、どっちも一緒か。
「まあ。泰仁さんと同じ顔して。お小言を言いにきたんじゃありません。ご心配なく」
今度は義父を引き合いに出されてしまった。血縁関係は薄いはずだが、この数年で義父と似ているとよく言われるようになってしまったことを不意に思い出す。あの冷徹男と同一視されるのは諸手を挙げて喜べるものではないが、越えたい存在として幼少期よりあった背中に追い付けたようで、半分は誇らしくもある。絶対に口に出したくはないけれど。
「本日の『暁の会』に貴方も出席するように、とのことよ。樹くん」
「……俺が?」
「朝守一族のお偉方が集まる重要な会に、現当主である貴方が今まで出席していなかったことの方が問題です。座っておくだけでいいのよ。朝守の今後を好き勝手に論じるクソ老害野郎共に、泰仁さんと一緒に睨みを効かせてくれれば」
「クソ、老害……」
「汚い言葉を使っちゃった。泰仁さんには内緒にしててね」
年齢よりも幼なげな表情に悪戯っぽい笑みを浮かべたあと、菫さんはすぐそばに置いたままの桐箱に目を向けた。
「本日のお召し物をご用意しておきました。百合さんに手伝ってもらってくださいませ」
普段から家の中では着物で過ごすようにしているが、おそらくあの中に入っているのは、いつもの適当な着流しではないのだろう。権威を示せと言うことかと、義父母の意図になんとなく気付き、辟易しながらもうなづいた。
正直気が向くわけもないが、菫さんが言うことも尤もだからだ。現当主としての務めと言われれば、害虫駆除と同じように励むしかない。
「樹くん。最近はアルバイトで外出するようにもなったと聞いていたけど、もう辞めてしまったの?」
不意に、菫さんの口調が変わった。現当主への改まった態度から、親しい者への声かけに。
「日向さんも残念そうだった。朝守の役目を理由に退職されては、あの人も引き止められないからね。……何かあったの?」
菫さんの気遣わしげな言葉に、自然と仁藤さんの顔が思い浮かんだ。
0.1秒後に、その光景を振り払う。
「私で良ければ、いつでも話を聞く準備はあるのよ。これでも、貴方の母なんだから。……それに、朝守家に嫁ぐことについてなら、前当主の嫁という立場から助言できることもあるのよ?」
ついでのように付け加えられた菫さんの言葉に、悔しくも思いっきり反応してしまった。表情の変わらない俺や義父と何年も共に暮らす義母だからこそ、見抜かれてしまったほんの僅かな動揺だ。
途端に、菫さんは大輪の華が咲いたかのように大げさなまでに表情を明るくして、口を開いた。
「あ、やっぱり? 日向さんがもしかして……って言ってたけど、ねえ、ほんとなの? ねえちょっと樹くん、教えてよ。どんな可愛い子なの? もう告白した? 俺の嫁になってくれって言ったの? え、もしかして振られたの? ちょっとちょっと、一回振られたくらいでバイト辞めるなんて、そんな根性なしに育てた覚えはないわよ。朝守家の男なら、惚れた相手は地の果てまで追いかけて尽くして尽くして囲い込まなきゃ。泰仁さんみたいに!」
……だから知られたくなかったんだ。特にこの人には。
次から次へとマシンガントークのように、菫さんの妄想90%の一人語りが繰り出されていく。彼女自身の元々の特性もあったんだろうが、義父も俺も無表情で無口であるがために、彼女の話し相手になれなかった結末が、これだ。
「……なるほどね。それなら用意しておいて正解だったわ」
ほぼ妄想の一人語りに満足した菫さんは、おもむろに懐に手を入れた。
「貴方にも『コレ』を必要とする時が来たということね」
仰々しく取り出したコレというのは、見慣れた組み紐だった。暁の刀身と鈴を繋いでいるものと同じように見えた。そういえば、菫さんの手首にも同じものがある。
「何それ、って顔をしないでくれる? 樹くん、ちゃんと泰仁さんが説明してくれているはずよ。生涯の伴侶になる人へ渡しなさい、と」
「は? 伴侶?」
「またまた、すっとぼけた顔をして。朝守の当主は、生涯の伴侶と見初めた愛しい愛しい相手にこの組み紐を贈るようにしきたりで決まっているの。……まったく、泰仁さんたら修行修行と体を鍛えることに夢中になって、もしかしてこんな大切なことを引き継いでなかったのかしら。困ったものね。いい? 樹くん。どっちにしろ、この組み紐がないと困るのは相手の方よ。振られてしまってしょげているのは分かるけど、なるべく早く渡しなさい。そうしないと――」
「渡せません。……菫さん。俺には無理です」
たまらず、菫さんの言葉を遮った。
「あの人を俺の人生に巻き込みたくない。こんな、俺のような普通じゃない人間なんかと一緒になったら、普通の幸せなんて」
今朝見た夢が脳裏でフラッシュバックした。両目を覆った。
――分かっている。あんな風に妖が大量に湧きおこることは今後数百年はないことは。それでも、俺がこの当主の椅子に座り続ける限り、妖との戦いは続くものだ。そんな生活、誰が一緒に送ってくれるというんだ。
滅多にない俺の反抗の言葉に、菫さんは一度口を閉じ、それから困ったように呟いた。
「私は、樹くんが言うところの『巻き込まれた』側なんだけどね」
彼女のこぼした言葉に、はっと顔を上げる。眉尻を下げた菫さんは、左腕の組み紐に手を添えながら言った。
「すみません、俺……そんなつもりじゃ」
「いいの、分かってる。樹くんが私を不幸だと決めつけて言ってるんじゃないことくらい。それに、私が不幸に見える?」
間髪入れずに首を横に振った。
「そうでしょう? 私は幸せよ。素敵な旦那様の泰仁さんと心優しい息子の樹くんと一緒にいられて、『普通じゃない』刺激的な毎日を送れているの。……でも、そうね。樹くんの言うとおり、この生活が誰にでも受け入れられるものではないことも分かる。彼女にも選択の権利があるしね。それなら、提案するくらい良いんじゃないの? 振られたばっかりでツライかもしれないけどさ」
「…………ないです」
「え?」
「振られてない、です。ていうか、まだ何も言ってない、です」
「ええ? 告白もしない内から逃げ出したの? 敵前逃亡じゃない! 朝守の当主としてはそちらの方があり得ないわよ、まったく!」
おもむろに立ち上がった菫さんは、項垂れる俺の目の前までやってくると、がしりと俺の右手を取り、組み紐をしかと握らせた。
「必ず、渡しなさい。振られてもよ。お守りだとでも言って、何がなんでも身に付けてもらうの、分かった?」
俺は、俺より小柄なこの人に厳しい目つきで諭されると、無条件でうなずくようになっている。
かつて、彼女に無断で強行登山修行をして数日ぶりに帰宅した時、俺と師匠は正座で菫さんから説教を受けたのだ。俺は子供だったからすぐに解放されたけど、師匠はしばらくお説教が続いていたし、数日は菫さんの機嫌を取る日々が続いた、という。つまるところ、朝守家の最強は彼女なのだ。
「お、なんだそれ、『縁』じゃないか」
菫さんが去ってしばらくしてから、暁が尻尾を振りながらやってきた。当たり前のような顔をしてあぐらをかいて座る俺の膝の上に乗ると、俺の手の中にあった組み紐をくんくんと嗅ぎながら言った。
「えにし? この紐の名前か?」
「ああ、伴侶に贈るのだろう? なんだよ、樹。そんな女子がいたのか? 我に報告がないぞ!」
「いねえよ。つうか、なんで暁に報告がいるんだ」
「我は樹の相棒だからな!」
満面の笑みで吠えるように叫んだ暁は、ぐっと背中を伸ばすと、だらしなくもへそを空に向けて寝転がった。
「ところで樹、朝餉は良いのか? 今日は泰仁と会合に行くと菫から聞いたぞ。今朝の鮭の焼き具合は最高だった。百合は良い仕事をする」
暁は妖が主食のはずだが、人間の食事も美味しいようで、よくつまみ食いをしている。腹を撫でてやると気持ちよさそうにゴロゴロと鼻を鳴らした。こいつ、本当に刀か? 元・妖か?
相棒のだらしない腑抜けた顔を眺めながら、この普通ではない日常を仁藤さんならどう思うのだろうと、しばらく会っていない彼女に思いを馳せた。仁藤さんは犬が好きだろうか。もしも犬派なら……まだ、少しは勝機があるかもしれない。