彼女のヒーロー
遅めのランチ代を支払い、くたびれたサラリーマン風の男性は店を出て行った。少しばかり開いた店の扉の向こうに、灼熱の太陽が照り付けるアスファルトが垣間見える。店内は涼しいが、店の外は随分と暑そうだ。伝票を綴じながら、次にする予定だった店頭の掃除の段取りを頭で組み立てていると、店の主がこっそりと近づいてくる気配を捉えた。
振り返り、店主の姿をこの目で捉えると、悪戯が見つかった子供のように決まりの悪そうな顔をした日向さんと、目が合った。
「あ、もう気付いちゃった?」
「……なにか」
「樹くんは隙が無いねえ。もう少し隙を作った方が良いんじゃないかな?」
「はあ……」
着地点の見えない話題に首を傾げた。
日向さんは人好きのする笑みを常に浮かべている温厚な人物だが、あの師匠と長年友人関係を続けている人だ。正直油断ならない。
朗らかな笑みをそのままに、彼はレジの前に立ったままの俺の隣に並んだ。
「聞いたよ、仁藤さんから。この間から二人で揃って帰ってるらしいね」
「ええ、夜の女性の一人歩きは危ないと思いまして、駅まで送っています」
「うんうん、いい傾向だね」
「はあ……」
日向さんは満面の笑みで何度も頷いた。彼の意図がいまいち読めず、更に首を傾げる。
先日、俺のせいで帰りが遅くなってしまった仁藤さんを、駅まで送ることにした。そこで俺は初めて、今までも彼女が一人で夜道を歩いていた事実に気付き、自分の察しの悪さに歯嚙みしたのだ。それ以来、俺が彼女と同じ時間に業務を終了する際は、必ず駅まで送ることにしている。
時間にしてたった10分か15分。仁藤さんと二人で話しながら帰る時間は、正直心地よい。……いやいや、俺のためじゃない、彼女の安全のためだ。
「仁藤さんがね、もっと後輩と親睦を深めたいのに、仕事中は必殺仕事人みたいで声をかけられないんだって嘆いていたからね。職場の同僚同士の交流、社会人にはとっても大事だよ、樹くん」
「なるほど、分かりました。今後は仕事中も、意識して隙を生み出すように努めます」
「うーん、樹くんは素直だね。素直なんだけど……隙って、意識して生み出すものなのかなあ」
「一般的にどうかは分かりませんが……少なくとも、俺は」
「あいつの教育の賜物なんだろうね」
ため息まじりに日向さんの呟いたあいつとは、師匠を指すのだろう。
師匠の鬼のしごきに対して、彼はいつも苦言を呈していた。とはいえ、彼のような朝守家の外からの声は、早々反映されるものではなかったが。
「ところで、樹くんはもう聞いた? 彼女の憧れのヒーローのこと」
「憧れの……?」
出し抜けに飛び込んできた単語を、そのまま口先でなぞる。無意識に記憶を辿っていると、つい先ほど話題に上った仁藤さんを送って行った夜の会話が、頭上に浮かんだ。
本物のヒーローにあったことがあるんだ、と。
憧れのヒーロー……憧れ、だと? 憧れというのはつまり、そのヒーローとやらは男で、彼女は特別にその男を想っているということなんだろうか。
勝手に行き着いた推論に、苛立ちと焦燥感で体内が騒つくのを感じた。たまらず、その場で軽く深呼吸をする。感情が暴走する前に落ち着かせるため、昔からやっていた癖が無意識下で現れてしまった。
「もしかしてまだ聞いたことなかった? そうかー仁藤さんね、親しい人には話してるみたいだから、樹くんももう聞いたかと思ったよ。今度聞いてみるといいよ、面白い話だから」
俺の様子に気付いているのかいないのか、日向さんは、言いたいことだけを言い置いたらさっさと厨房の方へと戻って行った。
雑念を払うよう、軽く頭を振るう。
仁藤さんが大学の授業を終わらせてシフトに入るまで、あと1時間程度だ。それまでには平常心で接するよう立て直しくらいできるだろう。彼女を問い詰めていたずらに怖がらせたくはない。というか、嫌われたくはない。
店頭の掃除に取り掛かる予定だったことを思い出し、灼熱の店外へと繰り出したのだった。
「本物のヒーローって、なんのことですか?」
俺は平常心を保てているのだろうか。仁藤さんにずっと聞きたかった彼女の憧れのヒーローのことを、ついに自然な流れで尋ねられるチャンスを得たというのに。必死な様子を見せないよう、努めて自然な雰囲気で聞けているだろうか。本当は初めて妖を前にした時のように心臓が激しく脈打っているし、手にも足にも余計な力が入っているんだが。
俺の質問に、仁藤さんは少し悩む素ぶりをしたあと、気を引き締めて俺を見上げた。真っ直ぐに見上げてくる彼女の瞳の強さと輝きは、薄暗い中だというのに眩しいことこの上ない。
「朝守くん、覚えてる? 3年前のこと」
はっと息をのんだ。まさか、彼女の口から、3年前の妖の大量発生期のことを聞かされるとは。
あの頃は、毎日のように妖と戦っていた。来る日も来る日も湧いてくる奴らへの対応のため、食べる間も寝る間もなく暁を振るう日々だった。
今でこそ、一般の人が気づかないうちに人知れず奴らを狩れるようになっているが、当時は追いつかず、実際に人への被害があって初めて対応することもあったのだ。だからこそ、何人もの人が命を落としてしまった。
仁藤さんが話す『本物のヒーロー』が誰のことなのか、さすがに俺でも分かった。
同時に、そんな純粋な思いで話してもらえる価値なんて、その『本物のヒーロー』とやらにはないことも。
「……恐くなかったんですか。そんな、化け物と闘う奴、なんて」
無意識にそんな言葉を吐いていた。いやに生ぬるい残暑の風が頬を撫でていく。処刑台の前に突き出された大悪党にでもなったような気分だ。
「あの人に恐いなんて、思うわけないじゃない。助けてもらったんだから。……それより、ちゃんとお礼を言えなかったことが心残りだよ。もしまた会えたら、ちゃんと伝えたいんだよね。『助けてくれて、ありがとうございました』って」
俺の安っぽい感傷は、仁藤さんのあっけらかんとした言葉で粉々に砕け散った。
信じられない思いで彼女を見つめると、当たり前のような顔をして俺を見上げ、満面の笑みを浮かべていた。
彼女の輝くばかりのこの太陽のような笑顔を、永久保存していつまでも見つめていたいと、腹の底から願った。きっとこの温かな陽光のもとにいることが叶えば、全てを許され、俺のような人間でも心穏やかに過ごせるのではないかと、大それた妄想を抱いてしまうのだ。
しかしそれと同時に、そんなことは許されないんだと、芽吹こうとする芽を力強く握りつぶした。
彼女に感謝されたことと、俺のせいで失った命への許しは、同じじゃない。
仁藤さんと一緒に居る時間は、俺には心地良すぎる。……だからもうこれ以上、この人の側には居られないんだ。俺のような業の深い人間が、彼女をこんな人生に巻き込んではいけない。
彼女の携帯が鳴り、意識がそちらに向かった瞬間、気配を消した。足音も消し、俺は足早にその場を離れた。住宅街に灯るわずかな明かりさえ、己の浅ましさを照らし出しているようで、疎ましく感じてしまう。全ての光源を振り払うような勢いで、足を進めた。
振り返るな。もう二度と、離れられなくなる。