暁
ヒーロー視点です。控えめに言って暗い…
使い古された表現だと、誰よりも俺自身がよく分かっている。それでも、彼女の温かな笑顔が目に入るたび、何度でも思う。太陽のような人だ、と。
彼女、仁藤茜という女性を紹介された時、俺は真っ暗闇の中にいた。自分の力不足を自覚してもなお、降りられない役割を背負わされているという感覚が、俺の視覚も嗅覚も五感全てを奪っているかのように感じていた。そんな目を塞がれた状態でも、彼女の笑顔は眩しかった。
新しい後輩だよ――バイト先の店長、日向さんが軽い調子で俺の背中を押した。身内である朝守一族ではない他者と対面するのは2,3年ぶりで、一体どんな顔をすれば良いのか分からなかった。とは言っても、どういう感情を抱いていたとしても俺の表情が無表情以外になることはないんだが。
初めて対面した時の仁藤さんは、驚きと、疑惑と、不審と、哀れみと、覚悟……それはもう様々な感情をその顔面に浮かばせていた。驚くほど感情表現豊かな人だと、瞠目したものだ。……いや、これが普通なのか。普通の人間の感覚がよく分からない。無表情の下でそんなことを考えていたら、彼女は遠慮がちに口角を上げた。よろしくね、朝守くん。と。
刀を手放さない日は無かった戦いの日々が終わり、約3年。俺は、いまだに屋敷から出ることなく、引きこもっていた。日の出と共に起き、何をするでもなく木刀を振り、自室にこもって本を読み、夜が来れば寝る。外出と言えば、散発的に対処する害虫駆除のためだけだ。
立派な引きこもりとなった俺に、いつの頃からだったか、義父の幼馴染で幼少期から顔見知りでもあった日向さんが訪ねてくるようになった。今後も朝守の当主としてやっていくためには社会人経験も大事だよ、と耳に痛いお小言までセットで。
朝守の当主。自ら望んだ立場ではないというのに。
それならばと、責任も柵も、全て丸めてゴミ箱に捨てられるのなら、俺は最初からこんな椅子に座ってはいなかったんだ。
日向さんの再三の言葉に、俺は渋々とうなずいた。そして連れて行かれたのが、彼が営む小さな喫茶店「喫茶あけぼの」だったのだ。ここでしばらくアルバイトをしてみないか、と。
席数はたった15席ほど。カウンターが五席、住宅地の一角にある彼の喫茶店は、地元の常連客だけではなく、休みの日になるといわゆる「通」と呼ばれる客もやってくる、知る人ぞ知る喫茶店……らしい。
別に人手不足ではない。だから、仁藤さんは疑問に思ったそうだ。数日経って少し慣れてきた頃、彼女が申し訳なさそうに教えてくれた。てっきり、俺が店長に圧力を掛けて無理やり雇わせたのかと思ったのだ、と。
疑ってごめんね――自分の間違いを恥じるように、恥ずかしさを隠すように、はにかんで両手を合わせる仁藤さんの様子に、また俺は眩しさを感じてしまったのだ。
「樹」
耳に馴染んだ低い声が、俺の名を鋭く呼んだ。思考の海に沈んでいた意識を浮上させ、閉じていた瞼を押し開く。
「狩りの時間だ。さっさと起きろ」
「……了解」
外はまだ暗い。夜半過ぎだろう。あいつらは、おおむね夜も更けた闇の中に訪れる。
それにしても、前回の駆除から2,3か月ぶりか。随分と頻度が落ちたものだ。
素早く寝間着から戦闘着に着替えていると、チリンという涼やかな音とともに、暁が頭の上に乗ってきた。
「樹ーまだかー? 久しぶりの獲物なのだ。我は早く行きたいのだ!」
「もう少し待ってくれ。というか、頭、どいてくれないか?」
浮足立った様子の暁が、俺の頭上からふわりと着地した。身のこなしも外見もただの黒い子犬だが、不思議とこの姿の暁は体重が羽より軽い。その場でステップを踏むかのように足踏みを続ける彼を横目に、俺は手慣れた手つきで『面』を装着した。レース状の黒く薄い布地の向こうに、ようやく準備ができたとちぎれそうなほどの勢いで右へ左へ忙しい暁の尻尾が見える。
本当にこうして見ると、無害なただの子犬だ。この子犬が、元々は平安の世で人々に恐れられた最恐の妖で、今は刀となって他の妖を狩って糧にしているなどと、誰にとっても信じられないことだろう。
「暁」
その名を呼び、右手を突き出すと、暁はその愛くるしい姿から一転、禍々しく濁った刀身を抱く刀に変化した。柄を掴むと、組紐で括りつけられた鈴の音が凛と響く。その音を合図に、俺は暁を大きく振りかぶり、目の前の空間を切り裂くように振り下ろした。
暁を振るう者として、朝守の当主としての役割を得た日から、何度となくやってきたことだ。妖の気配を感じ取ることのできる暁に導かれ、空間を切り裂くと、その現場に一瞬で時空が繋がる。あとは、狩るだけだ。目の前の黒いもやを見据え、もう一度柄を強く握りしめた。
妖は、人々の思念が澱んだ結果として表出するものだと言われている。最初は黒いもやのようなものから、段々と集合して実体を得ると、今度は明確に人間を襲う。人間の魂を得ることで更に増長していくのだ。
俺たち朝守一族の役回りは、妖の増長を未然に防ぎ、人々の安寧な暮らしを守ること。平安の世に、朝廷から与えられた役回りだ。
それもこれも、朝守家の初代様が余計なことをしたせいでーー。
「おい、樹。初代様の悪口は聞き捨てならないぞ」
「……勝手に思考を読むな」
「我が刀の姿でいる時は、お前の強い思考が流れてくる仕様になっているのだ。知っているだろう?」
暁の指摘を沈黙で返し、まだ周囲に漂う妖の思念の残滓を払うかのように刀身を一振りした。キンと鍔を鳴らしながら、暁を鞘に納める。
ふと、空を見上げた。今夜はやけに明るいと思っていたが、満月だったか。妖が出現した地点は、どうやらどこぞの森の中のようだった。そのせいか、街中よりも月の存在感が大きい。
……今夜も、無事に勤めを果たすことができた。誰も死ななかった。
いつのまにか詰めていた息をそっと吐いた。
「お前はよくやっているぞ、相棒。いつまでも自分を責めるでない」
暁は、普段の不遜な態度をどこにやったのか、神妙な面持ちで呟いた。刀に目も口もついていないのだから、あいつが一体どんな表情で言ったのかは分からないが、なんとなく感情は伝わる。……元・妖の現・刀に気遣われるとは。
朝守家は、もとは陰陽師の家系だったそうだ。初代の暁光が陰陽師として妖の討伐をしていたところ、自我を持つ妖と出会い、何故だか意気投合。討伐するはずが、その妖に名を与えた。自身の名から一字取って。暁と名付けられた妖は、暁光の妖討伐に力を貸す見返りに妖の精気を食らうこととなった。そして暁光の死後は、彼の子孫のうち波長の合う者を相棒として選ぶことになり、現代でもその関係は脈々と受け継がれている。
朝守一族に生まれた者が誰でも幼い頃に覚えさせられる、朝守家の成り立ちだ。俺はこの大きな仕組みの歯車の一つでしかない。やけに役割が重い、暁に選ばれた現当主という役割だ。
「樹も暁光も、人とは奇怪なものだなぁ。我にとっては人の命の数などさして問題ではない。十も百も万も同じよ。……されど、どうにもお主らはそう割りきれぬようだな」
縁側で丸くなった黒い子犬は、俺の返事など期待していないかのように言った。久々の獲物を狩り、満腹となった暁は、白み始める空の下での二度寝の誘いに抗えないようだった。
「同じなわけ、ないだろ」
俺のため息まじりの呟きに、子犬は何も応えなかった。丸まった黒い毛の塊は、規則正しく上下に動くだけだった。
6年前、俺は17歳で慌ただしく当主の役目を引き継いだ。まだ成人前の若造に引き継ぐのは異例だったが、事は急を要していたのだ。
500年に一度起こるという、妖の大量発生期が近づいていた。
前回の大量発生期は、戦乱の世とかちあったせいもあり、何万人という犠牲者が出たという。前々回は初代様が暁とともに治めたと伝えられている。今回は、もう随分と前から来たる運命の時に備えて朝守家一丸となって旗印となる当主を探していたようだった。白羽の矢が立った当時の俺はまだ10歳。朝守家の役割など骨身に染みる前に、前当主であり義父である師匠の下、鬼のような修行の日々が始まった。
来る日も来る日も、起きている間は限界まで走らされ、竹刀を握らされ、寝たかと思えばすぐに朝が来て、今から登山だと大量の重りを詰めたリュックを背負わされ、制限時間内に頂上まで到達しろと言われ……。
師匠はまるで容赦がなかった。子供ながらに恐ろしく、この人には絶対に逆らえないと刷り込まれた。何より恐ろしかったのは、ゼーゼーと虫の息の子供を目の前にしても、まるで表情筋が動かないところだ。無表情。無感情。そんな恐ろしい師匠と瓜二つになってしまった現状には辟易する。曰く、これが朝守家当主の誰もが通る道だとか、なんとか。
妖を倒すには、暁の力を借りると同時に、常に凪いだ状態の精神でいなければいけない。さもなければ、妖を前に恐怖に呑まれてしまうからだ。恐怖に支配された体は自由に動かない。自由に動けねば、やられる。自分自身だけじゃない。俺が守らねばならない命は多い。
3年前に失った命の数は、前回よりも少ないと言われるし、一族の誰もが最良の結果だと口を揃えた。
だが、それが一体なんだというんだ? 現に死んでしまったのだ、何人も。俺のせいで。
まだ5時前だというのに、もう夜は明けてしまったようだ。今から暁のように寝る気にもなれず、俺は自室に置いてある木刀を手に取った。解決しようのない胸のわだかまりを見ない振りをするには、これが一番効率的なのだ。
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