あの日の記憶とあの人の後ろ姿
朝守くんに特別な思いがあったから、無視されてショックを受けたわけじゃないのだ。
たった半年間だけど、心を尽くして接してきた相手に、あんな形で避けられたことが、どうしようもなく悲しかった。
その悲しさ、やるせなさをマロンケーキのやけ食いにぶつけた後、今度はカラオケで発散させることとなった。カラオケはいい。余計なこと考えないで済むから。
しょぼくれた私に付き合ってくれたゆうちゃんは、何度か疑問を口に出していた。
「あの和服、相当な上物よ。しかも身のこなしが洗練されてて、着物に着られてる感もなかった。極めつけはあの黒塗り高級車。ただのお金持ち……にしては、鍛えすぎのような」
「筋トレが趣味なんじゃない? というかもういいよ、朝守くんのことは……」
本当にもういいんだ。
バイトも辞めて、彼の自宅も家業が何かも知らない。もう会うこともない。偶然あったとしても、今日のように華麗に無視されるのだ。そうだ。早く忘れよう。
電車の窓越しに、ぼーっと薄闇の街並みを眺めていたら、いつの間にか降りる駅になっていた。平日夜の家路を急ぐ勤め人達に混じり、ホームに降り立つ。込み合う改札を避けるようにして歩みを遅くさせると、スマホを取り出し、母宛のメッセ―ジを送信した。「駅に着いたよ」っと。
母は、私があのガス爆発事故に巻き込まれた後、しばらく外出がままならない精神状態になったことがきっかけで、私の帰りが遅くなると過剰に心配するようになった。今日はまだ夜の8時前で、いつものバイトの終了時間よりも早い。心配をかけなくても良さそうだな、と肩の力を抜いた。
その瞬間、駅のホームの照明が一斉に落ちた。
「え……?」
立ち止まり、辺りを見渡す。
おかしい。絶対におかしい。周りにたくさん居たはずの乗客が一人もいない。
まるで映画のセットのように、駅のホームという舞台装置だけが残されているみたいだ。そんな舞台に無理やり立たされているのは、私だけじゃない。何かがいる。
数メートル先の駅のベンチの前に、奇妙に背の高い人影が見えた。薄汚れた鼠色の布を頭からかぶっているように見える。
人――いやいや、あんなに背の高い人なんていない。朝守くんの優に2倍はある。じゃあ、一体。
防衛本能が抑えつけていた3年前の記憶の蓋が、予告なく開いた。
繰り返される爆発の音と視界も呼吸も妨げる粉塵、たくさんの人の泣き叫ぶ声。それに、あの姿。まるで死神だ、私はここで死ぬんだとそう思ったんだ。
そうだ、私はアレを見たことがある。
突然襲ってきた恐怖が喉を詰まらせる。呼吸が苦しい。足が震えて立っていられず、倒れるようにその場に膝をついた。
本当に恐ろしい時、人は悲鳴なんて上げられないんだ。
徐々にアレがこちらに近付いてくるのが、涙で滲む視界でも分かった。
金縛りにあったかのようにその場に縫い付けられ、指1本動かすことができない。
チリン。
鈴の音が聞こえた。恐怖で占められた思考に割り込むように、その清廉とした音色が脳内に響く。
チリン――もう一度、同じ鈴の音が聞こえた。
知ってる。知ってる、この鈴の音。
3年前、『あの人』が助けてくれた時、同じように鳴っていた。
「た……すけて。たすけて……っ」
発声を忘れていた喉を叱咤し、言葉を絞り出した。
まるで鈴の音に導かれるように、何をすればいいのか、迷いなんてなかった。
私の言葉に反応したように、空気が震える。文字通り、私と死神の間の景色が一瞬ぐにゃりと歪み、瞬き一つの間に、黒い人影が現れた。うん、今度こそ人間だ。
漆黒の着物と袴、腰には刀を差している。そして黒のベールで顔を隠している。背を向けたままでも分かる。あの人だ。
背中を向けていた彼は、ちらりとこちらを振り返った。顔を覆うベールで目線なんて分からないけれど、なんとなく目が合った気がした。そう思ったのは一瞬で、すぐさま目の前の化け物に向き直る。
カチャ……腰に下げた刀に手をかけた音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、彼の体は巨体の目の前まで飛び上がっていて、そのまま刀を振り下ろした。
すると、今度は耳をつんざくような断末魔が響く。たまらず耳を塞いでうずくまった。
どれくらいの時間、そうして震えながらうずくまっていただろう。
カツン、という革靴の鳴る音が聞こえて、少しだけ目を向けると、黒い編み上げブーツの足先が見えた。
「……すみません、仁藤さん」
あまりにも、あまりにも聞き覚えのある声と言い回しに、弾かれたように顔を上げた。
さっきまで謎の化け物と戦っていた彼が、うずくまる私のすぐ隣に片膝をついていた。膝の上に置かれた黒い手袋に包まれた拳にぐっと力がこめられ、革が引き絞られる音が鳴る。
顔を覆うベールを見つめた。ベールの向こう側は全然見えないけれど、きっと相変わらずの無表情がそこにある気がした。
「俺のせいなんです。……仁藤さんが襲われたのは、俺のせいなんです」
「…………朝守くん、なの?」
半信半疑だ。それでも間違いないという確信がどこかである。
震える声で尋ねる私に、目の前の彼は少し逡巡したのち、そのベールを頭上に上げた。森の奥深く静かな湖のように澄んだ眼差しと目が合った。……やっぱり、こんな時でも表情筋が仕事してない。
訳が分からないことが続いて、既に脳みその処理能力は超えているようだ。唯一、見知った彼の顔がいつも通りの無表情だったことになんだか安心してしまって、緊張で強張っていた体が次第にゆるんでいった。
「――今、俺たちがいるのは、通常の時空とは異なる時空です。あいつら……俺たちは『妖』と呼んでますけど、標的にした人間を襲う時にこうやって閉じ込めるんです。さっき俺が斬ったやつも同じです」
「え……っと、話がよく分からないんだけど」
朝守くんがきっと今の状況を説明しようとしているのは理解できるのだけど、いかんせん処理能力が下がった今の状態の私ではさっぱり入ってこない。
「そう、ですよね。いきなりこんなこと言われても……ってなりますよね」
少し困ったように眉根を寄せた朝守くんは、一拍置いて覚悟を決めたように息を吐きだした。
「要は、俺が仁藤さんに惹かれてしまったせいで、あなたには『匂い』がついてしまったんです。その匂いのせいで、仁藤さんは奴らに狙われたんです」
「惹か……匂い? 匂いって言った?」
「……引っかかるのそっちですか」
朝守くんのあまりにもな言い様に、何か変な匂いでもさせているのかと、慌てて袖口やら肩あたりに鼻を向けてみる。
いやあ、何も変な匂いしないけど。首をかしげたところで、呆れたように朝守くんが言った。
「匂いって言っても、人間が感知できるようなもんじゃないですよ。ただ、なんでか奴らには分かるんです。妖の天敵である俺たち朝守の者が心を傾ける人間のことが。……それで、とても美味しそうに見える」
「ひえっ」
オブラートに包みもしない率直な言い方に、全身に悪寒が走った。脳裏に先ほどの恐怖がよぎる。
震える私の肩に、安心させるように大きな手が乗ってきた。それは確かに記憶の中の『あの人』の手と同じような気がして、また朝守くんを見上げた。
いつもの無表情がこちらを見返し、口を開いた。
「これ以上、仁藤さんに近付くのは危ないと思って、バイトを辞めて、忘れようと思ったんです。……それなのに、忘れられるどころか気になって仕方なくなってしまって……それでも、もう二度と顔を合わせなければ、大丈夫だと思ってたんですけど」
「ちょ、ちょ、ちょっと、待って。もうこれ以上、無理。キャパオーバ……」
「今日の昼、久しぶりに仁藤さんの顔を見た時、もう駄目だと思ったんです。だましだまし抑えつけていたもの全部、どっかに行っちゃいました」
私の静止なんてまるで聞いてくれていない朝守くんは、表情だけは変えずに淡々と喋り続ける。
ただ、その瞳の奥に確かに揺らぐ熱が見えて、こんな非常事態だというのに、他の意味で体の熱が上がってきてしまうのを感じた。
「巻き込んで、すみません。でも、もう忘れるのはやめにします。仁藤さんが俺のことをただの後輩だと思っているのは知ってます。理解してます。……けど、こっから全力で囲い込みしていきますので」
よろしくお願いします――初めて会った時のような愚直な眼差しで、この人はとんでもない宣言をした。囲い込み宣言……って、なにそれ?
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