風邪切ない
風邪だ。咳がつらい。頭はこんなに重かったろうか。昔、科学資料館のおじさんに、ほぼ一方的にうんちくを聞かされたっけ。
「頭は実は○○kgあって、首がそれを全部支えているんだよ。」
とてもいい人だったということでどの思い出も処理しているよ。思い出はなぜかいつも悲しさを纏うから、せめて登場人物くらい善良にしておきたい。善良だから悲しさが際立つのか。リアルタイムで相手の気持ちを汲むことを共感と呼ぶ。そして共感は、後々になって出来事を思い返し、その人の立場に立ってみることで力量が伸びていく。だから結局は他人の気持ちさえ自分の延長なのだ、というのは中二哲学の範囲だけれど、とにかくあのときおじさんに聞かされた科学知識は未だに役に立ってるよ。おかげでこの酷い頭痛にも納得がいく。夜七時ほど今日の日についてハッとさせられる時間もなかった。風邪とはいえ、今日僕はなんもしなさ過ぎだった。
夏風邪で学校を休んだ日はあっという間に夜になった。つけっぱなしのエアコンも相まってすべてが重苦しく、僕の中で神話と夏風邪のイメージが繋がったのはまさにこの瞬間だった。風邪を引いても風呂には入りたかった。頭も体も洗いたかった。湯船にはダルさでそこまで浸かってはいれない。さっさとダルダルあがってしまうと、隙間をあけておいた小窓から夕立のあとの風が入ってきて涼しかった。そして僕はなぜかすごく切ない気持ちに駆られた。何も失ったわけでもないのに不思議なほど切なかった。僕はタオルも持たないで小窓の隙間をみつめていた。脱衣所で全裸のまま、僕はまっとうな少年だった。
当時は小窓のところに何か答えがあると思っていた。答えには形がなくてはいけなかったからだ。でも今なら形のない答えだって扱えるし、あのときの切なさの正体も見抜けるような気がするんだ。さっさと言ってしまおう。大したことじゃない。風邪で頭が悪くなっていたんだ。切なさやロマンチックとは思考停止の類義語。頭の中をサアッと何かが通り抜けていくあの気持ちのことを、切ないと言っているんだ。しかし切なさは、同時に思考停止状態も両立してしまうから、きっと僕は一生かかっても、頭の中を過ぎ去っていく切なさの正体を知ることはないだろう。そもそも知るつもりもない。いつだって思考停止は楽しいままにしておくべきだ。風邪は切なかった。