第四話
どこをどう歩いたのかは覚えていない。ただ気が付くと自室のベッドに横たわっていた。
服を着替えていたから風呂には入ったのだろう。だとすれば、親に見つかり小言も言われたかもしれない。ちゃんとケータイを屋敷に忘れてきたと言い訳できたのだろうか。それともびしょ濡れだったはずだからそれどころではなかったのか。
そんなどうでもいいことが頭に浮かび消えていった。それよりも今は重要なことがあるのだと。
ユイ。
友であり、子分であり、仲間であり、そして好きになった。好きだったのに、好きだと伝えることができなかった。伝えようとしなかった。自分の気持ちに素直になれなかった。
あの頃は今が永遠に続くと信じてきっていた。変わるはずがないと思い込んでいた。遠くの世界がどれだけ変わろうと、自分を包み込む世界は同じはずだと信じて疑わなかった。
だがそれは、水面に落ちる一滴の雫それだけの波紋で180度顔を変えた。
※回想※
〈飼育小屋〉
ガキの頃、弱いのに強がりだった俺に友達はいなかった。
あいつには関わるな。そんな腫物扱い。誰もが一様に距離を取った。
偶然当番になった飼育係はまさに天職だった。動物たち相手なら俺がボスになれた。
そこにあいつはやってきた。
あいつはキョロキョロと室内を見渡した後、遠巻きに動物たちを見ていた。
俺は相手が女子一人だけだと分かると物陰から顔を出した。
【コウスケ】
「おい! ここから出ていけ!」
彼女ははじめ驚いた様子だった。「え、でも……。」と続く言葉を俺はかき消した。
【コウスケ】
「ここのボスは俺なんだ。勝手に入ってくるな!」
あいつは気が弱いやつだった。おびえた様子でこれ以上反論してくるようには見えなかった。
だから彼女が次に発した言葉を、俺はうまく飲み込めなかった。
【ユイ】
「じゃあ、あの……、どうしたら、ここに入らせてもらえますか……?」
まるで懇願するかのようにそう言った。そんな返しがくるなんて思いもよらず、俺の口は勝手に動いてしまった。
【コウスケ】
「……それは、そうだな……。仲間にでもなれば、いいんじゃね?」
【ユイ】
「え? じゃ、じゃあなります! そしたらここにいてもいいんですよね?」
【コウスケ】
「ぁ、ああ……。え、いやいやちょっとまて。お前女だし弱っちしいらないって。さっさと出ていけ!」
【ユイ】
「で、でも、さっき仲間になったら居てもいいって……。」
【コウスケ】
「知らない、知らない! 早く出ていけ!」
シッシッと手で追い払う。だが見た目によらず彼女は言うことを聞かなかった。
【ユイ】
「うぅぅ、でも……、でも……! さっき、いても……いいって……!」
もはや涙をちょちょ切らせながらも、それでも彼女は出ていこうとしなかった。
思わぬ強情な姿勢に戸惑いながらも、俺は彼女を追いだす。
【コウスケ】
「ほらっ、早くっ、出ていけっ!」
【ユイ】
「うぅっ……、うぅっ……、ねぇ、なんでっ……、ぐす、さっきは、いいって、言ったじゃんっ。……やだぁ、やだっ、やだぁッ!」
【ユイ】
「うぅっ、うわあああぁぁぁあああんッ!」
堪えていた堤防が決壊したのか、彼女は泣きだしてしまった。
そして騒ぎを聞きつけてやってきた教職員に俺は無事捕まった。
それがユイとの出会いだった。
【コウスケ】
「また来たのかよ……。」
【ユイ】
「え……? でも、仲間になったから、ここにいてもいいんだよね……?」
【コウスケ】
「そもそも仲間に認めてねえんだけどな……。それに、こいつらはそうは思ってないみたいだぜ?」
あいつは動物が好きみたいだった。しかし彼女は動物に好かれなかった。昔からそうなんだと彼女は語った。
【コウスケ】
「動物ってのは弱肉強食だからな。俺みたいな強いやつには懐くんだよ。少しは俺を見習って強くなることだな。」
それは俺が彼女に向けて行った、二回目の失言だった。
それからあいつは必要以上に俺に付きまとうようになった。無理やり離すと、すぐに泣きじゃくってしまった。
気が小さく弱虫なくせに、ここぞというときに彼女は強情だった。
そうして強制的に一緒に行動することが多くなった。森を探検したり、川をいかだで下ったり、雨の中泥だらけになってサッカーなんかもした。
そのときに発明家のトリジイの屋敷を知った。町では奇人として有名だったが、話してみると気前のいい人だった。それから俺たちは屋敷にもよく出入りするようになった。
だが彼女の母親はそれを良しとはしなかった。そのせいでひどく叱られたらしい。
しかしそんな状況で、彼女の父親は味方だった。
『女とか男だとか関係なく、子供ならば精一杯好きなだけ遊べばいい。泥だらけになってボロボロになっても、笑顔で楽しく過ごすほうがよっぽどいい。今はめいっぱい好きなことをしなさい。』
俺はおじさんの言葉を信じた。だからこそ、その後も変わらずあいつと遊んだ。
その裏で、衝突していたおばさんとおじさんの仲が悪くなり、離婚に話が進んでいたことを知る由もなかった。
※場面転換※
〈林〉
その日は運動会が近いこともあって俺たちは特訓をしていた。俺は打倒ソウタに向けて秘密兵器を取り出した。
【コウスケ】
「じゃっじゃーん!」
俺は意気揚々と輪ゴムを見せつける。
【ユイ】
「……え? うん……。」
どこか上の空の彼女を気にすることなく、俺は続けた。
【コウスケ】
「今回俺はソウタに勝つ! そのために小遣いで輪ゴムをたくさん買ってきた! なんてったって勝ったらトリジイが、“願いが叶う魔法のカード”をくれるって約束してくれたからな!」
トリジイが自慢していた発明品。それが俺を奮起させるための空想の産物であることを、当時は知る由もない。
【ユイ】
「え? くれるの? くれるってトリジイが言ったの?」
俺は大きく頷いた。
【ユイ】
「……もし勝てたら、コウちゃんは何をお願いするの?」
【コウスケ】
「んなのいっぱいあるぜ。秘密基地をもっと豪華にしたいし、お菓子いっぱい食べたいし、自転車だって新品のを――。」
俺は思いつく限りの願いを連ねた。
だが、一番叶えたい夢は恥ずかしくて言えなかった。
【ユイ】
「そう。……じゃあ、絶対に勝たなきゃね。……勝って、くれるんでしょ?」
その柔らかな微笑みが、俺の脳裏に焼き付いて消えることはない。
【コウスケ】
「お、おう。当たり前だっての! お前もちゃんと応援しろよな!」
【ユイ】
「うん……!」
しかし結果は惨敗。もともと俺は足が速くなどなかった。小細工の輪ゴムひとつでどうにかできるものではなかった。
彼女の応援さえ、聞こえなかった。
そしてそれからしばらく経って、あいつはおじさんに連れられ転校していった。
世界にとってそれはとても小さな変化なのだろう。変わりなく繰り返される日常は、まるで彼女が存在していたことさえも不確定にさせた。
だが確かに、俺にとってそこは非日常だった。
いつもあいつがつまずいていた小岩で、ふと立ち止まる。振り返っても誰もいない。つまずくなよ、と言いそうになる口をきつく閉じる。
木に登っても、下でずるいと喚く者はいない。見下ろす景色がやけにそっけない。
飼育小屋のウサギの寝床で寝っ転がっても、怒る者はいない。
俺はその時になって、失ってようやく気が付いた。
ユイが好きだったのだと。