4. 人物画
ふらりと工房にやってきた父は、ふいに提案した。
「そういえば、そろそろ人物画を描いてもらいましょうか」
私たち四人は、父の昔の作品を取り出して、それぞれ模写でもしようかと話し合っていたのだが、父のその言葉で描くものは決まってしまった。
「また急に」
私はため息とともに、そう零す。
すると父は首を傾げて訊いてきた。
「おや、不満かね?」
「不満ではないけれど……急だな、と思って」
私たち三人は立ち上がって、動き出す。
先日描いた静物が、まだそのままそこに置いてあったから、片付けなければいけない。
「いやそろそろ、セウラス殿下にも人物画を描いてもらおうと思いましてな」
「人物画、ですか」
セウラスは父の言葉に、拳を口元にやって考え込む。
「そういえば、描いたことありませんね」
「宮廷画家の描くものは、ほぼほぼ人物画と思っていいのでね。やはり人物画を描いていただかないと」
王族や貴族の肖像画。宗教画。宮廷画家が手掛けるものは、そういうものがほとんどだ。
「だったら、モデルを雇ってください」
私は手に持った花瓶を窓際に置きながら、そう要望した。
「いやあ、急に思いつくし、私の予定もどうなるかわからないし」
飄々と返してくる父に、ため息をつく。
宮廷画家としての父はそれは素晴らしい作品を描く人だが、人間としての父は娘の目から見ても、いかがなものかと思う。一度絵筆を握ってしまうと、周りのことが一切目に入らない人だ。
国王は、どうしてこんな人に王子を預ける気になったのか、と疑問に思う。
まあ、他の宮廷画家も似たり寄ったりではあるのだろうけれど。
「座位ですか、立位ですか」
フィンがそう尋ねると、父はうーんと考え込んだあと、顔を上げる。
「座位にしようか。私も描こう」
その言葉に、私たちは浮き立った。
ソファで、と指定を受けて、いそいそと四人で部屋の端に置いてあったソファを移動してくる。
「じゃあアメリア、座って」
けれど父のその言葉に、肩を落とした。
やっぱり。
「……私?」
「そう」
「……はい」
つまり、私は描けない。なんてつまらないんだろう。だからモデルを雇って欲しいのに。
父は女性を描くことに定評のある人だ。だから必然的に、モデルは私がすることが多くなってしまう。モデルをすること自体に特に抵抗はないが、ただ、その間は自分が描けない。そのことだけが不服だ。
私は渋々ながら、棚に置いてあった大きめの砂時計を手にする。
そして一番近くにいたセウラスに、それを手渡した。
「はい」
「え?」
砂時計を手に持ったまま、彼は首を傾げる。
そうか、なんのために渡されたのかわからないのか。
私は砂時計を指さして説明する。
「その砂が落ち切ったら、休憩するから。そうしたら足とか手とかに印を入れに来て」
「印?」
「素描を描くときの木炭でいいわよ」
理解したのかどうなのか、セウラスは戸惑った様子だったが頷いた。それを見届けると、私はソファに腰掛ける。
「先生、どうしますか」
不機嫌な声でそう父に問うと、父は腕を組んで、悩んでいた。
「まあ、楽な姿勢でいいかな」
「はい」
「髪は解いて」
「はい」
私は後ろでひとつにまとめていた髪を、紐の端を引っ張って解く。手櫛で簡単に整えて、両側に垂らした。
ソファの肘掛けに腕をかけ、もたれかかるように座る。
ちら、とセウラスを見ると、慌てたように砂時計をひっくり返した。
瞬きはなるべくしないよう、私は目を伏せる。視線の先の床に黄色の絵の具が飛んだ跡があったので、そこを目印にして視線を固定した。
頭の中で、自分の姿勢を再確認する。左腕は肘掛けに。右手は左手首を握っている。足の先は印をつけてもらうからいいとして、太ももの重なり具合は、少しズレた感じ。肩は右肩が落ちている。
よし、大丈夫だ。
静かな中、絵筆を走らせる音がする。
いいなあ、と羨ましく思う。
次のモデルはセウラスに頼めばいいのに、と考えた。なにせ王子さまだ。本当に肖像画を描かれる可能性が高いのは、セウラスに決まっている。
もしかしたら私たちがいつか描くのかもしれないのだから、いい練習になるだろう。
上手く描ければ、本当に王城に飾られるかも。と、少しワクワクしてくる。
でも彼はこのように描かれることに慣れているだろうか。慣れていないと、ずっと静止しているのは、なかなかつらいものだ。
いや、私は描く側の人間だから、なるべく動かないようにしなければなどと思うが、肖像画を描かれる側の貴族たちに、動くな、というのは難しいのかもしれない。その場合は、どうしたらいいんだろう。
そんな考えを巡らせているうち。
「時間だよ」
セウラスの声がして、顔を上げる。
ずっと静止しているのはつらいけれど、いろいろ考えていたのが良かったのか時間が短く感じられ、さほど苦痛ではなかった。
「セウラス、木炭持って来て」
「あ、ああ」
言われた通りに、彼はやってくる。
「肘のところ、印つけて」
「ソファにつけていいの?」
「そうよ」
彼はおずおずと、ソファに肘を囲む形に線を書いた。私はそれを見届けると、上半身を起こす。
息を吐いて、肩を少し回した。楽になる。
「太もものところにも」
「えっ」
彼が動きを止めてしまったので、手を差し出した。
「貸して」
「あ、ああ」
木炭を受け取ると、さっと太ももの両側の外に線を引く。
「あと、足の先だけ」
「わかった」
再度、私から木炭を受け取り、彼は足元にしゃがみ込んだ。
「……ごめん」
「え?」
足先に線を書くと、彼は急いでいるかのように、ぱっと立ち上がった。
私もその線を確認すると、立ち上がって伸びをする。
「今の、なんの謝罪?」
なにか失敗したのかしら、と思って首を傾げる。でも失敗するような難しいことはなにもないのだけれど。
「いや……なんとなく」
「なんとなく?」
顔をよく見ると、少し頬が染まっていた。
つまり。私の足にあまりに近寄ることに、恥じらった……ということだろうか。
そんなこと、気にしなくてもいいのに。
今、私はモデルで、セウラスは絵師だ。いちいち気にしてなんていられない。
私はソファに投げてあった髪紐を手に取った。
「セウラス。私が休憩している間は、背景とか描くといいわよ」
私が休憩すると、一緒に休憩してしまうのではないかと思ったので、そう忠告した。
「わかった」
彼は自分の席に戻ろうと踵を返す。
「ん、ああ、もう」
解いた髪をまたひとつにまとめようとしていたのだが、紐を上手く結べなくて、何度かやり直す。
すると振り向いてその様子を見ていたセウラスが近寄ってきて、手を出してきた。
「貸して」
「えっ」
半ば奪い取るように紐を手に取ると、私の後ろに回り込んで、私の髪を持つ。
「えっ、あのっ、えっ?」
「ひとつにまとめればいい?」
「え、えっと、はい」
「わかった」
ロイドとフィンが驚いたようにこちらを見ているのが、視界の端に入った。
セウラスは撫でるように何度か髪を指で梳く。
急に身体が熱くなった。ぞくぞくと身体の芯をなにかが這い上がっていく。
恥ずかしい。どうして。別に肌を触られたわけではない。髪だ。なのに。
「はい、できた」
そう声を掛けられたので、頭の後ろに手をやる。
どうせ次にまた描き始めるときには外すので、適当でよかったのだが、きちんと結んでくれているようだった。
「あ、ありがとう」
「うん」
そう応えると、自分の席に戻っていく。
そのとき、呆然とセウラスを見上げていたロイドとフィンと目が合ったらしく、彼は首を傾げた。
「どうかした?」
「いや……王子さまって、なんか、すごいな、と思って」
「え? なにが?」
「……なんでもない」
ロイドとフィンのほうが恥ずかしがって、俯いてしまっていた。
セウラスは、訳がわからない、というように首を捻っている。
足元にしゃがみ込むことには恥じらうのに、髪を触ることにはなにも思わない。
なんともちぐはぐな人だな、と思った。