34. 父と子として
扉を開けて、王室に入る。
父は窓を背にして、執務机の向こうに座って、頬杖をついていた。
「父上」
そう呼び掛ける。すると父は、にやりと口の端を上げた。
「そう呼ばれたのは、いつ以来かな」
「さあ、もう覚えてはいません」
「では話を聞こう。我が息子よ」
指し示された椅子に腰掛け、机を挟んで向かい合う。
父が手を上げると、控えていた侍女や侍従たちが一礼して退室していく。
ぱたん、と扉が閉まったと同時に、父は口を開いた。
「余は、今日はとても機嫌が良いのだ。多少のわがままはなんでも許してやろうという気分なのだ。お前にだけは教えておいてやろう。特別だぞ」
両腕を広げて、芝居がかったように声を張る。
苦笑しつつ訊いた。
「なにかいいことがありましたか」
「なに、マシューが将来有望な弟子がいる、と言うのでな。彼にしては珍しく、余に頭を下げたぞ」
「それはそれは」
そう応えると、父はまた頬杖をついた。
「我が息子にそこまでの才能があるとは思ってもみなんだ」
ふいに抑えた声を出すと、じっとこちらを見つめてくる。
「マシューからではなくお前の口から、願いをこの耳で聞こう」
そして父は口を閉ざして私の言葉を待っている。
本当に、こんなことを言い出してもいいのか。後悔はないか。取り返しのつかないことにならないか。
何度も何度も考えた、その自問自答を頭の中で繰り返し、そしてやはり同じ結論が出た。
答えは、ひとつしかない。
「王族籍から抜けたいと思っています。つきましては、許可を」
私の言葉を聞いて、父は頬杖をついていた手を下ろし、そしてこちらに身を乗り出す。
「抜けてどうする」
「宮廷画家になります」
その返答を聞いた父は、背もたれに身を預け、天を見上げた。
「なりたい、ではなく、なります、ときたか」
しばらくの沈黙が流れた。
父は座り直すと両肘を机に置き、顔の前で手をゆるく重ねてその上に自分の顎を預けた。
そして私をじっと見つめる。
まるで、私の感情の動きをなにひとつ見逃すまいとしているかのように。
「お前は昔から、なんでも言うことを聞いたな。わがままひとつ言わなかった」
「いけませんでしたか」
「言われたことしかやらない人間は、下に置いておくには助かるが、上には置けないのだよ」
「……はい」
そのあたりが、私が常に『三番目』であった理由なのかもしれない。
「だから、王族籍からの離脱も許可しよう」
私はその言葉に俯く。
私の希望を呑んでもらったのではなく、国王から切り捨てられた。
今告げられたのは、そういう意味だ。
自分から望んだくせに、いざそう突き付けられると、胸が痛んだ。膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。
良かったと諸手を挙げて喜ぶ気にはならなかった。
けれど、これが望んだ道だ。これくらいでいちいち落ち込んでどうする。
「だが、王子でなくなるというのは不可能だ」
その言葉に顔を上げる。
父は続けた。
「王の子であることは、純然たる事実だからな」
そう語ってこちらを覗き込んでくる。
忘れるな、と言っているように思えた。
「生涯、王子であることから逃れることはできぬ。たとえ離脱してもだ。それでも?」
「はい」
「仮に宮廷画家になったとしよう。だが、純粋な称賛はほぼないだろう。王子だから偏頗な選出をされた、と揶揄されるに決まっている」
「はい」
「王子であることから逃げ出した、なんと無責任なと非難されるかもしれぬ」
「はい」
「宮廷画家になったのに、一枚も依頼がないことも考えられる。誰しも降りかかる火の粉からは逃げたいものだ」
「はい」
「それらの誹謗中傷にも耐えると?」
「はい、覚悟の上です」
私の返答を聞くと、父は大きくため息をついた。
そして、懐からなにやら取り出した。書状のようだった。
「これは、マシューからの推薦状だ。お前を宮廷画家に推薦すると」
もう、そこまでやってくれていたのか。
だが。
父はそれを両手で摘まむように持つと、手を前後に動かし、破り捨てた。
私はそれを黙って見つめる。
「これには、お前が描いた肖像画への称賛の言葉が書かれていた」
手を開いて推薦状をひらりと机上に捨てると、父は続けた。
「後にも先にも、これだけの才を見ることはない。あの絵を描いた人間を宮廷画家にしないのは国家の損失だ。と、それはまあ、大変な絶賛ぶりで」
両手を広げて、呆れたような声音でそう述べる。
「だが余は、それだけでは宮廷画家になることを承諾することはできぬ」
そして机に左肘をついて、ぐいっと身を乗り出してきた。
「一枚ではな」
そう付け加えて、にやりと笑う。
「一枚では、評価はできぬ。何枚でも、名画と呼ばれる絵を描け」
力の籠った言葉だった。
行く道を照らすような言葉だった。
そして、優しさに溢れた言葉だった。
自分が選んだ道が、決して間違いではないと思える言葉だった。
「周りを黙らせるにはそれしかない」
「はい」
私は立ち上がり、深く深く首を垂れる。
父が仕方ないな、という風に、息を吐いたのが聞こえた。
「よい。王族籍からの離脱は許可する。その日程、詳細に関しては、こちらから伝える。王城からの呼び出しには必ず応じるよう。引き継がねばならぬこともある。ただ、王族籍から抜けても、余の芸術の国にするという計画には、引き続き携わるよう」
「御意のままに」
下げた頭の中で考えた。
もしかしたら父は、所在なげな第三王子を想って、クラッセ王国を芸術の国にするなどと言い出したのではないか。戦略的なこともあっただろうが、元々の発想はそれではなかったか。
まさか任せた王子がこんなことを言い出すとは思ってもいなかっただろうが。
「では、退室を許可する」
「はい」
くるりと踵を返して部屋を出て行こうとした。
だが、背中に声を掛けられる。
「余は言ったぞ」
その言葉に振り返る。
「余の子どもであることに変わりはないと」
そうしてじっとこちらを見つめる瞳を見て、なぜだか涙が溢れそうになったが、なんとかそれを堪える。
「ありがとうございます。……父上」
私の言葉を聞くと、父は小さく頷いた。
一礼して部屋から出る寸前、また声を掛けられる。
「あれはいい絵だった。あれ以上の絵を、本当に描き続けられるのか?」
心配そうな声音。父として私を気遣った言葉。
「描きます」
そう返すと父は小さく笑った。
私は今度こそ、部屋を出て行く。
一礼して廊下に出ると、王室の扉を閉めた。




