32. ロイドとフィン
その数日後、時間のとれた私は先生の屋敷に向かった。
玄関に立って、しばらくその扉を見つめる。
あの絵を描いてから、さほど時は過ぎていないはずなのに、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
アメリアはいるだろうか。先生が見て欲しいと言った絵は完成したのだろうか。
私はひとつ息を吐くと、ノッカーで扉を叩く。
もしアメリアがいたら、なんと言えばいいのだろう、と考える。
彼女の選択を受け入れなければならない。彼女の選択にほんのわずかでも不満を見せてはならない。
仮面を被るのはお手の物ではないか。応援する、と笑顔を見せなければ。
少しして、ドアが開いた。
ドアを開けた人は、私の顔を見て目を見開く。
「セウラス? どうして」
出て来たのはフィンだった。
使用人の誰かとばかり思っていたから、驚いて身を引く。
「ああ、いや、先生に来るように言われていて……」
「ふうん」
私の返答には特に興味なさそうに、フィンは応える。
ふと視線を動かすと、大きな荷物が傍らに置いてあるのが見えた。
「どこかに行くのか?」
私の視線が荷物に注がれているのがわかったのか、フィンは一度その荷物に視線を移してから顔を上げた。
「ああ、帰るんだよ」
「帰る?」
「田舎に帰るんだ」
「えっ?」
「畑を耕すのに、人手がいる。だから、帰る」
「ああ、繁忙期なのか」
自分でそう口にしてから、少しおかしいことに気付いた。
この季節に繁忙期? フィンの実家がなにを育てているのかは知らないが、この国で作られる作物は大抵はまだ実を付けている頃で、畑を耕す時期ではない。
「ちょうど出て行こうとしていたところだったんだよ。会うとは思っていなかった」
「帰るって……まさか、帰ってこないつもりなのか」
「そうだよ」
軽く肩をすくめて、フィンは事もなげに答える。
つまりもう、マシュー先生の弟子ではなくなるということか。いやそれどころか、畑を手伝うというのなら、筆を折るつもりなのだ。
「そんな、だって、宮廷画家になりたいんじゃなかったのか」
「僕には才能がないから」
「どうしてそんな、言い切るんだ」
私の言葉に、フィンはこちらに振り向いた。
彼は泣き出しそうな表情をしていて、私はなにも続けることができなくなる。
フィンは私を睨みつけてきたあと、目を逸らして下を向いた。
「なんでだよ?」
「フィン」
「なんで、なんでも持っているくせに、なんでも手に入るくせに、なんで絵の才能まで持っているんだよ」
なにも返せなくて、黙り込んだ。
ただ、耳を傾けた。
彼の言葉は、私が聞くべき叫びだと思った。
「僕が何年絵筆を握ってきたと思っているんだ。どれだけ夢見て絵を描いてきたと思うんだ。なのに、たった半年で、あんな……」
そうして彼は、重そうな荷物を手に取った。
私はフィンに返すべき言葉を持っていなかった。
「……先生には言ったのか?」
「言ったよ。帰りたければ帰りなさい、ってそれだけだ」
フィンは私の横を通り過ぎる。
「さようなら、王子さま」
そう告げると、フィンは私に手を振って、振り返ることなく立ち去って行く。
私はただ、その背中を見送るしかできなかった。
彼が見えなくなってから、そのまま踵を返すと工房に向かう。
工房に入ると中にはロイドしかいなくて、彼は顔を伏せて椅子に座り込んでいた。
足音が聞こえたのか、彼は顔を上げる。
そして私を見て、何度か目を瞬かせた。
「セウラス? どうして」
フィンと同じように問われた。なので同じように返す。
「先生に来るように言われたから」
「ふうん」
やはりフィンと同じような反応を示す。
「今、フィンと会ったんだけれど」
「ああ、一応、止めたんだけどね。今はもう取り付く島もない」
「そうか……」
ロイドの前の椅子を指し示されたので、それに腰掛ける。
きっと今まで、フィンがここに座ってロイドと話をしていたのだろう。
なにを言えばいいのかと逡巡している間に、ロイドのほうが先に口を開いた。
「フィンのことは放っとけよ。できることはなにもない」
「……ああ」
「それでもまた描きたくなれば帰ってくるだろうよ」
そうしてロイドは息を吐き出し、肩を落とす。
私にできることなどなにもない。本当に、その通りだ。
そして、ここにやってきたそもそもの用事を思い出す。私はアメリアの絵を見に来たのだった。
「アメリアは」
「たぶん、寝てる。最近、絵を描いたら力を使い果たすみたいで、ふらふらしながら部屋に戻るよ。ああいうところ、父娘だよな」
苦笑しながらロイドはそう教えてくれた。
確かに先生はいつも、絵を描いたらふらふらとどこかに行ってしまったりしている。
少しの間の沈黙。
そしてロイドが重く言葉を発した。
「知らなかった。お嬢さんと恋仲だったなんて」
「……黙っていて、すまない」
「いや、いいよそれは。おいそれと口にできるものでもないしね。王子さまだし」
「……そうだね」
「せっかく黙っていたのに、絵があんなに雄弁に語っちゃあねえ」
そう半笑いの声で言った。
それからロイドはこちらに視線を向ける。
「お嬢さん風に言うなら、こうかな」
「え?」
「『愛している』と絵が叫んでいる」
私はその言葉に、目を伏せた。
その通りだ。私はあの絵がアメリアにそう語るように、一筆一筆に愛を籠めて描いたのだ。
「お嬢さん、変わったよなあ」
その言葉に顔を上げる。
「セウラスが来る前は、本当に毎日毎日つんけんしてて。あんまりピリピリしてたものだから、声も掛けられなかったくらいだったんだよ」
「そうなのか」
確かに最初の頃は、ギスギスしていたと思う。それは招かれざる客が来たからだと思っていたのだが、それだけではなかったということだろう。
私という存在が彼女に影響を与えられたのだろうか。そうだといい、と思う。
彼女の人生に、ほんの一筆、彩を添えられたのなら。
「やっとわかった。お嬢さんが、絵が言っている、ってよく言っているけど、それがどういうことなのか。今まで、漠然としかわかっていなかった」
私の絵を見て。それを感じ取ってくれたのか。
「ありがとう」
「礼を言われると困るなあ」
本当に困ったように、ロイドは頭を掻く。
「まあ、あまり泣かせないでやってくれよ」
彼はぽんと軽く自分の膝を叩いた。
「あのきっつい性格が鳴りを潜めたら、調子狂うよ」
そう話しつつ、視線をアメリアの画架のほうにやる。
柔らかな表情で。目を細めて、どこか遠くを見ているような。
「ロイ……」
「それ以上、言うなよ」
口を開きかけた私に視線を合わせないまま、ロイドは続けた。
「俺は今、葛藤中なんだ」
「……わかった」
ロイドが見ているほうに視線を移す。アメリアの画架には、大きな白い布が掛けられていた。
「アメリア、今、絵を描いているんだよね」
「ああ」
「完成したら見てくれと、先生に言われたのだけれど」
「……そうだね。見たらいい。あと二、三日で完成すると思うよ、たぶん」
「じゃあその頃、また来る」
私は席を立つ。
踵を返そうとしたところで、ロイドが声を掛けてきた。
「セウラス」
「……なに」
「俺もフィンも、セウラスが悪いんじゃないってことは、わかっているんだ。自分自身の問題だって、ちゃんとわかってる」
やはり向こうを見たまま、こちらに決して視線を合わせようとはしない。
けれど言葉はまっすぐ私に向かってやってくる。
「悪いな。だから、気に病むなよ。……あれは本当に、素晴らしい絵だった」
「ああ……ありがとう」
私はそう返すと、一歩を踏み出し、工房を後にした。