30. 会食
朝、目を覚まして、ベッドの天蓋を見つめる。
しばらくぼうっとそのままの体勢で考える。
妙な高揚感が身体にあって、昨日なにがあったかと考えた。
そうだ、昨日、あのアメリアの肖像を描いた。
最後にと。彼女になにか伝えられればと。
彼女はあれを見て、なにを思ったのだろうか。訊かなければ。
……どうやって?
ああ、今日からもう工房には行かなくてもいいのだ、いや、行けないのだ、と思い至ると枕に頭を埋めた。
あのあと、先生は私の絵を持ってどこかに行ってしまった。そして誰も工房には戻ってこなかった。
仕方なくそのまま屋敷を出て来たのだが、いったいなにがどうなったのだろう。
結局、アメリアは私の絵から、なにかを読み取ったのだろうか。
それもわからない。
彼女の悩みの根源は、私の不甲斐なさにある。もっとしっかりと具体的に考えるべきだった。
私とずっとともにあるということは、王子妃になるということだ。その立場を彼女に押し付けるということを、どうして指摘される前に気付けなかったのか。当たり前のことなのに。
アメリアが宮廷画家になることを、王子妃になることを、想像すらしていなかったのではないか。
私の気持ちは、ふわふわとした漠然とした想いでしかなかったのではないかと、それが彼女を不安にさせたのではないかと、悔いだけがとめどなく浮かんでくる。
結局私は、恋という夢の中でただよっていただけだったのではないだろうか。
彼女が不安に思うなら、王子という立場の私から、彼女に道を指し示すべきだったのではないか。
彼女が宮廷画家になる道。つまり、王子妃となることを拒絶する道。
だが彼女はそれも選びきれない様子だった。
だとすると、私は彼女の才能を潰したのではないか?
女性初の宮廷画家となり輝く彼女の未来を、私という存在が潰してしまったのではないか?
けれど私は彼女を手放したくはなかった。いくら傲慢と思われようとも。
考え出すと、止まらなくなる。
何日考えても、それでも結論は出なかった。
会いたい、と思う。けれど今会っても、彼女を苦しめるだけなのではないか。
そんなことを思い巡らせているうちに、数日が経って。
ある日の昼食の時間となったとき、侍女の一人がおずおずと私の元にやってきた。
「あの、殿下……それが」
「どうかした?」
「あの、本日の昼食は、バーンズ伯爵との会食だったと思うのですが」
「うん、その予定だけれど?」
「それが、来られたのは伯爵ではないんですが、伯爵と言い張られて……殿下にもそう伝えてくれと……、あ、いえ、不審者ではないんですけれど」
侍女の言っている意味がわからない。
どう伝えようかと言いあぐねている様子だったので、私は昼食が用意された部屋へ直接向かうことにする。
扉を開け、中に入る。
すると中にいたその人が席から立ち、私に腰を折った。
「先生」
そこにいたのは、マシュー先生だった。
「どういうことです?」
私がそう問うと、彼は申し訳なさそうに、もう一度頭を下げた。
「バーンズ伯爵に変わっていただきました。脅迫しまして」
「脅迫?」
私は問いながら席に着く。
椅子を指し示すと、先生も向かいの席に腰を下ろした。
「どうしても殿下にお会いしたかったのです。けれど普通に謁見を望むと、手間と時間が掛かって仕方がない。それで、今日の会食を予定されていた伯爵に代わっていただきました。私のことは、伯爵と思ってください」
前々から変わった人だとは思っていたが、ここまで訳のわからないことを言い出すとは思わなかった。
これが先生でなければ、ここまでやってくることすら不可能だっただろう。宮廷画家、しかも私と懇意にある彼だからこそ、門番も衛兵も侍女も皆、私の前に通してしまったか。
先生はそれを確信して、こんなことを企て……いや、たぶん、なにも考えずにやってきた気がする。
私は一度、はあ、と息を吐いてから、先生に向き直った。
「先生がバーンズ伯爵として。伯爵は私になにを伝えたいのです?」
「貴族の方々が王族に謁見を望んだとして、言いたいことなど、ひとつしかないのではないですか」
「なんでしょう?」
「『今後とも我が一族をよろしくお願いいたします』」
私はその言葉に苦笑する。
まあありていに言えば、そういうことではあるだろう。
第三王子との会食に、その効果がどれほどあるのかは定かではないだろうが。
「伯爵は私に脅迫されたのです。お咎めなしということでお願いします」
「いいでしょう」
私はそう応えて首肯する。
先生はそれを見て、頭を下げた。
「セウラス殿下なら、そう仰ってくれると思っていました」
「ずいぶんと舐められたものですね」
「舐めてなどおりません。その優しさを私は存じておりますので。それに」
「それに?」
「殿下も私に訊きたいことがあるのではないですか」
この言葉に動きが止まった。
私は給仕をしていたメイドに、手を上げる。
「なんでございましょう」
「人払いをお願いできるかい?」
「かしこまりました」
並べようとしていたパンや飲み物やスープを急いで机上に置くと、室内にいた者たちは皆、退室していった。
扉が閉まるのを確認すると、私は口を開く。
「で、私はあなたをバーンズ伯爵として扱えばいいのですか? 小芝居でも始めますか?」
「それでも構いませんが」
私はこめかみを指で押さえると、息を吐いた。
「いや……止めておきましょう、マシュー先生」
「それはありがたい」
先生は心底安心したような表情でそう返してきた。
なんだかこの人を見ていると、いろんなことがどうでもよくなってくる。
「参考までに聞きますが、どうやって伯爵を脅迫したのです?」
苦笑交じりにそう問うと、先生は説明を始めた。
「いやなに、伯爵の孫娘の縁談が進んでおりまして。その目に入れても痛くない孫娘が、私に肖像画を描いて欲しいのだと、ずっとねだっているそうでしてね」
「なるほど」
「元々この会食で、それを殿下にお願いするつもりだったようです」
まともに待っていては、先生に肖像画を描いてもらえるのはいつになるのかわからない。
この城の芸術関係の話ならば、私に請うのが早いと思ったのだろう。
だとしたらその画家本人から、肖像画を描くから会食を代われ、と願われれば、断る理由もなかったのではないか。
「とはいえ、殿下の了承もなく交代することには懸念を抱いていたご様子なので、私が必ずお許しをいただく、と言い含めてまいりました。お咎めなし、とのことなので私も安心いたしました」
そう明かして、にっこりと微笑む。
私は眉間を二本の指で揉んだ。これを許していいのかとも思うが、だからといって処罰するような大事でもない。
伯爵もこの画家の飄々としたところに呑まれたのだろうという気もする。
それなら仕方ない、と思ってしまう私も私だ。
「それで? 私が先生になにを訊きたいと言うのです?」
「私の娘の様子です」
そう断言する。
この人はどこまでわかっているのだろうか。
「あの絵を見て気付かない人間がいるのでしょうか? もっとも私は、薄々とは感じ取ってはおりましたが。これでも父親なのでね」
「そうですか」
今さらなにを言い繕えるだろうか。
アメリアへの想いを込めたあの絵を描いたのは、この私だ。
「今は娘は、黙々と絵を描いておりますよ」
「そう……ですか」
では彼女は、もう一度絵筆を握ることを選択したのだ。
つまり王子妃となることは選択しなかったということか。