22. 浅葱色のドレス
王妃殿下はこちらに向き直って、そして扇をぱたんと閉じた。
腰のあたりで扇を両手で緩く持ち、口元を笑みの形にして美しく微笑む。
「驚かせたかしら? わたくしはクラッセ国王の妃、ソフィア。セウラスの母です」
私たちはしばらく呆然と王妃殿下を眺めたあと。
わたわたと慌てた。
「ご、ご拝顔賜り光栄です!」
「えっと、お目もじ叶いまして嬉しく思いますっ」
「拝顔の栄に浴しまして……ええっと」
ここまで高貴な方に、なんと挨拶すればいいのかまったく覚悟をしていなくて、私たち三人は明らかにみっともなく動揺していた。
しかし王妃殿下は、右手を出してそれらを制する。
「堅苦しい挨拶はよくてよ。よくいらしてくださいました。ゆるりとしていらして」
そう返して、口元に笑みを浮かべる。セウラスの母親ということは、三人の王子を産んだ人だ。
なのに全然、そんな感じはしない。若々しくて、どこか少女のような雰囲気をただよわせている女性だ。
「母上、もういいでしょう」
ため息をつきつつ、セウラスが王妃殿下に声を掛ける。
「あら、つまらない」
「つまらなくてもいいんです」
「もう」
そうして二人を見ていると、王妃と王子という身分ではあるが、普通の親子と同じなんだな、と思えた。
セウラスに追い出されそうになっている王妃殿下を見て、はっとする。
「あ、あのっ、王妃殿下!」
私の呼び掛けに、セウラスと王妃殿下は振り返った。
まさか直接、感謝を伝えられる機会があるなんて思っていなかった。今しかない。
「ありがとうございました!」
そう礼を述べて頭を下げると、王妃殿下は少し首を傾げた。なので補足する。
「えと、以前、素敵な髪紐をいただいて、あの、いつも使わせてもらっています」
今日は髪を下ろしているが、本当にいつも使っている。結びやすくて、綺麗で。あれはとても良いものだ。
「お礼など必要なくてよ」
そう返事して、王妃殿下は口元に弧を描く。その顔がセウラスに似ているな、と思った。
「こんなに可愛らしいお嬢さんに使ってもらっているなら、わたくし、とても嬉しいもの」
ほほ、と笑いながら王妃殿下はそう返してくれる。
所作がいちいち優雅で、私はぽーっと眺めてしまった。
「そうだ、いいことを思いついたわ」
ぽん、と王妃殿下は手に持った扇を叩いた。
「セウラス、お嬢さんを貸してちょうだいな」
その思いも寄らない申し出に、セウラスは眉根を寄せる。
「母上、私たちは今から絵を見に行くのです」
「少しだけよ。いいではないの。悪いようにはしないから。ね? お願いよ」
その言葉に、セウラスは小さくため息をついて、私に振り返った。
「アメリア、ごめんね。こう言い出したら聞かない人だから。少しの間、付き合ってもらえる?」
「え」
いったいなにが起こっているというのか。
「いいでしょう? 少しだけ、わたくしに付き合って欲しいの。意地悪なんてしないから」
そう続けて、少女のように、うふふと笑う。
この状況で、断るという選択肢を選ぶ人がいるのだろうか。
「え……えっと、あの、私でよろしければ」
「まあ嬉しい。では行きましょう」
王妃殿下がそうはしゃいだ声を上げると、侍女たちが静かに私を挟むように立った。
「参りましょうか」
「は、はい」
そうして促されるように歩き出す。
振り返ると、ロイドとフィンはぽかんと口を開けていて。
セウラスは軽く肩をすくめた。
パタンと扉が閉じられると、王妃殿下は私に声を掛けてくる。
「後宮の、わたくしの私室に行きましょう」
「あ、はい」
そうして、侍女たちの指示に従いながら歩く。
ときどき、通りかかる人がこちらに声を掛けてきた。もちろん私にではなく、王妃殿下にだ。
「ソフィア妃殿下、ご機嫌麗しく」
「ご機嫌よう」
扇で顔を隠しながら、立ち止まることなく王妃殿下は歩き続ける。
いったい、『いいこと』とはなんなのか。
王妃殿下にとって『いいこと』とは、私にとっても『いいこと』なのだろうか。
もしかして、私とセウラスが今どういう関係なのか、知っているのだろうか。
それで、あなたは相応しくないだなんて非難されたら、どう返せばいいのだろうか。確かに王子である彼には、もっとふさわしい女性がいくらでもいるのだろう。
すれ違う女性は皆、綺麗に着飾っていて、そして美しくて。自分がひどくみすぼらしく思えて。
こういう中で彼は生活しているのだ。
なにを思って私を抱き締めたのか、自分のことながら疑問に思ってしまう。
そんなことを考えていると、ふいに、王妃殿下がこちらに話し掛けてきた。
「わたくし、姫は産まなかったものだから。あなたのような可愛らしい子がいると、とても嬉しくなってしまうのよ」
「え、あ、ありがとうございます」
可愛らしい、とさきほどから何回か言われている。
年上の、しかも王妃という人に言う言葉ではないのだろうが、私から見ると、王妃殿下のほうが可愛らしい人のように思えた。
しばらくして、目的地である王妃殿下の私室に到着する。
「座って少し待っていらして」
王妃殿下はそう告げると、奥の部屋に行ってしまった。
私は侍女に勧められた椅子に腰掛ける。
そして不躾ながら、こっそりと辺りを見渡した。まさか自分の人生の中で、後宮に足を踏み入れることがあるとは思わなかった。だから、ついつい興味津々になってしまうのは仕方ないと思う。
そこはとても広い部屋で、造りの良い調度品が並べられていて、窓の外に目を向ければ小川の流れる庭園が見えた。
私が幼少期を過ごしたあの小さな部屋が、この部屋の中にいくつ入るのか見当もつかない。
そうしてそわそわと座って待っていると、目の前にお茶を置かれたので顔を上げる。
「よろしければ、どうぞ」
侍女がにっこりと微笑んで、そして去っていく。
「あ、ありがとうございます」
私は茶器を両手で持つと、一口、口に含む。良い香りがするお茶だった。ふう、と息を吐く。少しだけ緊張がほぐれたような気がした。
すると。
「これはどうかしら?」
王妃殿下がそう声を張りながら、奥の間から戻ってきた。
「えっ」
彼女の手には、一枚のドレスがあった。
「わたくしが若い頃に着ていたものなの」
「えと、とても素敵だと思います」
浅葱色の、華美ではない品の良いドレスだ。裾や袖口に金糸で細やかな刺繍が施されていて、きらきらと目にまぶしい。細身で裾の広がりはあまりないもののように見えた。
『いいこと』とは、ドレスの品評会だったのだろうか。
確かに王妃が着用するドレスを見られる機会なんてないだろうし、きっとどれも美しくて目を楽しませてくれるだろう。
なんだ、セウラスとのことではないのか、と心の中で胸を撫で下ろす。
しかし王妃殿下は、思ってもみないことを続けて口にした。
「今着ているものと色合いが似ているから、これがいいかしらと思って。定番の型だし、今でも十分着られると思うわ」
「えっと……」
今着ているもの?
今王妃殿下が着ているドレスは、薔薇色のものだ。浅葱色とは似ても似つかない。
私が戸惑っていると、王妃殿下は首を傾げる。
くすくすと笑いながら、侍女が助け船を出してくれた。
「ソフィア妃殿下、こちらのお嬢さまになにも説明しておりませんわ」
「あら? そうだったかしら」
「お嬢さま。妃殿下は、そちらのドレスをお嬢さまに着ていただきたいのです」
「えっ?」
私?
私は自分の姿を見下ろす。確かに今自分が着ているものは露草色で、王妃殿下が持っている浅葱色のドレスと色合いは似ていた。
もちろん、王妃所有のドレスはとても素敵で、誰しもが着たいと思うものだろう。
「でも、私、あの、そんな、畏れ多くて」
私は慌ててぶんぶんと両手を胸の前で振った。
王妃殿下のドレスを着る? どうしてそんな話になったのか。
「まあ、遠慮することはなくてよ」
「でも私なんかが、王妃殿下のドレスなんて」
「いいのよ、わたくしが着て欲しいのだもの」
「でも」
私は思わず立ち上がって、少し後ずさった。
すると王妃殿下は、うーんと考え込んでいる。
「セウラスには少しの間、って言ってしまったから。いいわ、脱がせてしまいなさい」
「かしこまりました」
「ええっ」
侍女たちが一斉に私に向かってやってきた。
「ええーっ」
そして私は、あれよあれよという間にワンピースを脱がされ、そしてドレスを頭から被せられてしまった。手際が良すぎる。
なんだかんだでそのドレスをきちんと着させられ、私はその場に呆然と立ち尽くして俯いた。