2. 王子の描く絵
どうやら国王陛下は、我がクラッセ王国を芸術の国にしたいらしい。
なにをどう思ってそういう気になったのかは知らないが、それ自体は大変喜ばしいことだ。
使用人が持ってきたお茶を飲みながら、私たちは王子の話に耳を傾ける。
「私は一応、王城にある芸術品のすべては把握しているんだ。ある程度、教会や貴族が所有しているものも知っている。それもあって陛下は、今後は私をその責任者にしたいらしくて」
「はあ……」
「で、自分でそこそこ描けると説得力も増すと陛下が仰るものだから、半年だけとはいえ、こちらで世話になることになった」
「なるほど……」
すまないね、と王子は言った。
本当に、と私は心の中で思う。
芸術の国にするために、この第三王子はここで半年、なにをするのだろう。本当に父の下で絵を学ぶだけなのだろうか。
もしかしたら、宮廷画家の内情を調査したいのかもしれない。
なんらかの不都合があれば、父の宮廷画家としての首が飛ぶ。父に限ってそんなことはないと思いたいが、たとえばお金の使い方なんかにも調査が及ぶかもしれない。
この絵の具は本当に必要か? この帆布は高価過ぎないか? なぜこの画材屋を使っているのか? 賄賂でも受け取っているのではないか? 調査しなくては。
なんてことになってしまったら、それが濡れ衣としても、疑いが晴れるまでは活動停止の憂き目に遭わされるかもしれない。
そんなことにならないためにも、私たちはしっかりと修行しているというところを見せなくてはいけない。
ロイドとフィンにもちゃんと話しておかなくちゃ、と考えを巡らせる。
まあ、それは考え過ぎとしてもだ。
弟子としてやってきた王子のために、いったいどれくらいの時間を使うのだろう。私たちは一分一秒を惜しんで絵筆を動かしているというのに、彼のためにどれほどの時間を無駄にしなければならないのだろう。
いずれにせよ、あまりありがたくない客人のように思えた。
そんな私の思いを知ってか知らずか、王子は穏やかな声音で話し掛けてくる。
「少なくともこれから半年の私は、マシュー先生の弟子だ。もちろん君たちの実力には遠く及ばないだろうけれど、それでも弟子だ」
ロイドとフィンは、はあ……と曖昧な返事をしている。
「だから私のことは、殿下とか、そういう敬称はつけないでほしい。ただ、セウラスと」
その申し出に、ロイドとフィンは困ったように頭を掻いた。そうは言われても、王子と知ってしまったからには敬称なしに呼ぶのには抵抗がある、と顔に書いてあった。
誰かが突破口を開くしかない、と思ったので、私はトレイに茶器を戻しながら呼び掛けた。
「じゃあ、セウラス」
私の発言にロイドとフィンはぎょっとして振り向いた。父はにこにこと成り行きを見守っている様子だ。
「なにか、描いて見せてくれる? せっかく用意したのだし」
彼のために画材を用意したのは私だ。ならば言っても構わないだろう。
「ああ、うん。ええと、今君たちは、静物画を描いていた?」
机の上に並べられた花や小物を見て、セウラスはそう訊いてきた。
「ええ、そう」
「じゃあ私もそれを描こう。君たちのようには描けないだろうけれど」
「そんなの当り前よ」
ロイドとフィンは、はらはらした様子で、私たちの会話を聞いている。
父はやはり、黙ったままだ。
「私たちが配置を考えたけれど、その位置が嫌だというなら変えてもいいわよ」
この静物画を描く前に、三人でああでもないこうでもない、と話し合って配置を決めた。三方向から描くので、どうしても三人ともが満足するような配置にするのは難しかった。
こっちからだと花瓶の取っ手が真正面になって描きにくいとか、置かれたペンが見えにくいとか、本は広げたほうがいいとか、いろいろ考えて今の形になったのだ。
「いや、いいよ。そのままで」
なんの主張もしてこない。逆に心配になるほどだ。
「今の椅子の位置だと、全光に近いわね。適当に置いてしまったから、いい位置取りではないわ。もう少し寄りましょう」
さっき私自身が窓際に椅子を置いたので、それはわかる。
全光、あるいは逆光のものを描くのは、描きにくいのだ。物の存在の奥行きを表すのは、やはり陰影だ。色の幅も狭まる。どうしても、という理由がないならば、自分から位置を変えたほうがいい。
「そうだね。では適当に動かそう」
「あ、じゃあ僕たちも寄ろう」
「いや、構わなくていいよ」
「いつの間にか位置は固定されてしまうんだ。これから半年あるのだから、今決めよう」
足元に画材やらなにやら置いてしまうから、一度画架を置く位置を決めてしまうと、動かすことはあまりない。
父が描き始めると三人ともが邪魔にならないようにと動くから、それくらいか。
ロイドもフィンも、そして私も、ひとり増えた弟子のために、画架と椅子の位置を少しずつ動かした。私たちは途中まで描いていたが、多少の変化はどうということはない。修正はきく。
四人ともが位置を定めると、私たちは椅子に腰掛けた。
パレットを広げ、油壷に油を入れ、色を調合して、絵筆を走らせる。
いろいろと時間をとってしまったが、やっと絵に集中できる。
私はほっとして、絵筆を動かした。
そして父は黙ったまま、四人の後ろを歩き始める。
いつも、こうだ。父はほとんど口を出さない。弟子、と言いながら、父から教えられることはほぼない。
見て覚えること、枚数をこなすこと、それが父の教えなのだろう。
今日はこうして静物画を描いてはいるが、父の作品の模写をしたり、その描き方を見ているうちに、三人ともが少しずついろんなことを学んだ。そしていつの間にか父の絵に寄ってはきている。
そんな父の下で半年ばかり弟子になったところで、なにか得るものはあるのかしら、と少し心配になる。
工房はしばらく絵筆を動かす音だけの空間となっていたが、父が、ふと声を出した。
「殿下、けっこう描けましたな」
「まあ、当たりだけは」
「どうでしょう。皆に見てもらっては」
父のその提案に、自分の手を止めてまでどうして、とは思わなかった。正直なところ、この王子がどれくらい描けるのかも興味があった。
ロイドもフィンも同じ気持ちだったのだろう。素早く立って、セウラスの背後に回る。
彼らは、感嘆の声を上げた。
「へえ! 驚いた」
「上手いじゃないか! どんなものかと思っていたけれど」
そうなのか。どんな絵なんだろう。
私もいそいそと、セウラスの背後に足を進めて立ち止まる。
「え……」
私はその絵を見て、言葉を失った。
当たりだけ、とは言っていたが、ちゃんと色が入っていて、絵としての評価はできる段階だった。
私たちとなんら変わりないと評していい、きちんとした静物画だ。
だが。ぞっとした。
ロイドとフィンは、上手い上手いと褒めそやしている。
彼らも矜持を持って絵を描いている。絵に対してお世辞を使える人間ではない。本当に心からそう思っているはずだ。
けれど。気付かないのか? 本当に?
恐る恐る、父のほうに視線を向ける。
すると父は、困ったように眉尻を下げた。
父は、気付いているのだ。
この絵の持つ、異様さに。
「殿下、私の娘は絵師としてはまだまだだが、見る目だけは、ずば抜けています。彼女の感想を聞いてみてはいかがでしょうか」
その言葉に、セウラスはこちらに振り向く。
私は少し身を引いた。その栗色の瞳の奥の黒が、怖かった。
だがなんとか気を落ち着かせ、私はロイドとフィンに向かって問う。
「あなたたち、本当にこの絵を見てなにも思わないの?」
「え?」
「本当に? なにも?」
私はロイドとフィンにそう重ねて尋ねた。
けれど彼らはその質問の意味がわからないようだった。
「なにもって……予想外に上手いとは思うよ」
「うん、ここまで上手いとは思わなかった」
「それだけ? 本当にそれだけなら、宮廷画家なんて諦めることね」
「えっ」
「な、なんだよ、それ」
セウラスは訳がわからない、という様子でこちらを見上げている。
「私、こんな絵を見たのは初めて。どんな人が……たとえば年端も行かない子どもが描いたものでも、これよりはマシだわ」
「アメリア、言い過ぎだ」
父がそうやんわりと窘める。
けれどたぶん、父は自分が指摘するのではなく、私に言わせたかったのだと思う。
王城に雇われている宮廷画家の評価ではなく、関係のない第三者の正直な評価。それを彼に聞かせたかったのだ。だから私に感想を言わせたのだ。
「言い過ぎ? そんなことはないわ。だってこんなになにも感じられない絵が存在するなんて、思わなかったもの」
私の言葉に、工房は静まり返った。
怖い。この人は、なんて絵を描くのだろう。
どんな絵にだって、なにがしか訴えるものはある。
子どもがその辺に描いた落書きにだって、それはある。楽しい、とか、好きだ、とか、そういう感情は伝わるものだ。
たった今、同時に描いた私たちの拙い絵にだって、見て、と訴えるものがある。
見て、いい絵でしょう、この静物の配置はなかなか美しいでしょう、と絵が語っている。
それが、ない。
まったくと言っていいほど、ない。
これが本当に、人間が描くものなのか。
身体が冷えてきて、思わず自分の二の腕を自分でさすった。
「上手いだけ。本当に、上手いだけの絵だわ」
怖い。これを描いた人物が。
ゆっくりと視線をセウラスに移す。
すると彼は、何度か目を瞬かせたあと微笑んだ。その笑みが、背筋を凍らせた。
「ありがとう、参考になったよ。そんなこと、考えたこともなかった」
いったいなにを考えて絵を描いているのだろう。
第三王子。
得体の知れない人が父の弟子になったのだ、とそのときひどく怖くなった。