19. 母の肖像画の前で
絵の具を片付けていると、ふとセウラスがこう訊いてきた。
「思ったんだけれど、君の母君の絵は今はどこにあるんだろうね? 私もそういえば把握していない」
「ああ、あれ? 今は父さんの部屋にあるわよ。買い戻したの。大変だったみたいだけど」
「そうなのか」
「見る? 内緒よ」
私は人差し指を立てて口元に当てた。
「内緒?」
「あまり人に見せたくないみたいなのよね。まあ見つかったところで怒りはしないだろうけれど」
私はセウラスを手招きしながら、工房を出て父の部屋に向かう。
実は私も、何度もこっそり見に行っている。父もおそらくは気付いているだろうけれど、なにも咎めてこない。だからといって、歓迎されている雰囲気はない。
「ここ」
私は父の部屋の前に立って、背後のセウラスに振り返った。彼は少し落ち着かない様子で辺りを見渡している。
「いいのかな」
「いいわよ」
扉を開けて中に入る。セウラスもおずおずと私の後について入ってきた。
「これ」
言って、壁を指さす。
母がそこで、私たちを見つめて微笑んでいた。
「ああ……」
そう声を漏らしたあと、セウラスはしばらく黙って、その絵を食い入るように見つめていた。
私は頬が紅潮するその横顔を見上げる。
「これは……素晴らしいね」
「でしょう?」
まるで自分を褒められたかのように、胸を張った。
母は、ここに蘇ったのだ。何度見ても何年経っても色褪せはしない。
女神のごとくに。
「先生の描く女神の原点は、この絵なんだね」
「そうよ。この世で最も美しいとされる父の女神の中には、母がいるの」
宗教画として描かれる女神。けれどそこには母への愛が詰まっている。なんて不信心な、と思われるかもしれないけれど、父は母にすべてを捧げてしまっているから仕方ない。
今は国中に、母がいる。どこにいたって見守ってくれている、そんな気がする。
「アメリアによく似ている」
セウラスはこちらに振り向いて、そして眩しそうに目を細めた。
「色合いはね」
そう言って苦笑を返したが、彼は首を横に振った。
「いや、よく似て美しい」
そんなことを臆面もなく言葉にするから、また心臓がどくんと跳ねる。
本当に、この人と一緒にいたら心臓がもちそうにない。
「……あ、ありがと」
「でも良かったのかな。私なんかがこの絵を見て」
「セウラスに見て欲しかったのよ」
「え?」
「この人が私の好きな人ですって、報告したかったから」
普通の親子だったら、きっとそんな会話もするのだろう。だから私もしたかったのだ。
初めて好きになった人だから。
するとセウラスは顔を赤くしてしまう。
「……アメリアこそ、私を甘やかしすぎだ」
私たちはどちらからともなく手を繋ぐ。そして母の微笑みを二人で見つめた。
お母さん。
お母さんなら、なんて言ってくれたかしら? 応援してくれたかしら?
とても真面目で優しい人なの。だからきっとお母さんも気に入るわ。
そんなことを思いながら、時が過ぎるのも忘れて、私たちは至高の絵を見つめ続けた。
◇
どたどたと騒がしく、ロイドとフィンは工房に帰ってきた。
「ただいまー! つっかれた!」
「最後のが、一番疲れた……」
馬車の中で眠ってしまった父は、屋敷に到着しても目を覚まさなかったらしい。
もしや死んでいるのではないかと心配するほどだったが、安らかな寝息を立てていたからほっとしたとか。
声を掛けても揺さぶっても起きなかったから、二人で父の身体を抱えて屋敷に入ってきたそうだ。
「……それは、お疲れ様です」
「いやもう、本当に疲れたよ……」
二人は床に座り込んで、息を吐いた。
「あんまりお土産話もできそうにない」
「ええ?」
楽しみにしていたのに。
するとフィンは身を乗り出すようにして言い訳を始めた。
「いやね、足場の上に上がって間近で見たのは見たんだよ。でもけっこう汚れててさ」
「だから俺たちは、黙々と汚れを取る係。下の絵を傷つけちゃいけないし、神経使ったなあ。あと、首が痛いよ」
ロイドは首の後ろに手をやって、首を倒したり見上げたりしている。
「天井画だものね」
「そうそう。右腕も痛い」
フィンは右腕を大きくぐるぐると回した。
「おまけに足場の上で喧嘩が始まっちゃってさ」
「喧嘩?」
「ここは修正する必要はない、とか、もっと違う色だ、とか。宮廷画家同士って引かないからさー」
「お互いの弟子が『先生、止めてください!』って、背中から抱えて引き離して。これ、足場の上の話だよ? 危ないったら」
「へえ……」
父もずいぶんな変わり者のような気はするが、他の画家たちにもそういう一面はあるのだろう。
「父さ……先生は? 喧嘩しなかった?」
「いや、ほんっとーに黙々と修復してたよ」
「その喧嘩もすぐ近くだったんだけどね、先生は我関せず、って感じで。振り向きもしないで黙々と」
「らしいわ……」
その光景が簡単に想像できた。父はとにかく集中すると、周りが目に入らなくなる人だから。
「そうそう、セウラスがいたよ」
ロイドがふいにそう報告したので一瞬心臓が跳ねたが、私はなんとか平静を装った。
もちろん知っている。何日か前からそちらに向かっていて、私は工房で一人で描いていた。
「そう。視察に行くって話だったけれど」
「うん、最終日にね。なんというか、本当に王子なんだなあって」
「思った思った。最初に見かけたときは、つい手を振りそうになっちゃったけど。見ていたら、あ、王子なんだって」
彼らの言うことは、わかる気がする。
セウラスをモデルに人物画を描いたときのような感覚なのだろう。
「礼拝堂の司祭やら、寄付した貴族やら、ぞろぞろ引き連れていて」
「考えてみれば当たり前なんだけれど、皆、殿下って呼んでいてさ」
「堂々としていて」
「一人だけ異質で。この人が王子だ、って言われなくても皆、わかったんじゃないかなあ。萎縮していたし」
それでも、あまり現実感は湧かない。
あまりに近くにいるから、やっぱりときどき、王子だということを忘れてしまう。
そういう人と口づけを交わした……のは……信じられない、というか。
「お嬢さん?」
はっとして顔を上げる。
いけない、意識が飛んでいた。
「うっ、ううん、なんでもない」
特に変には思われなかったのか、二人はそのまま話を続けた。
「それでセウラスがさ、足場を見上げて『上がれませんか?』って訊いたんだよ」
訊いたのか。諦めてはいなかったらしい。
もしかしたら許可が出たのだろうか。それならいいのに。
「そうしたら周りが一斉に、『だめです!』って」
笑いながら、フィンが結末を教えてくれる。
「いや、あれ、面白かった」
「みんな同じ動きだったもんな」
「へえ……」
残念ながら、やはり上には登れなかったようだ。
でも公開前にじっくり見られるというのは、やっぱり羨ましい。
「結局、私だけ見てない」
肩を落としてそう残念がると、ロイドとフィンは笑いながら背中を叩いてきた。
「まあまあ、すぐに公開されるから。それで見ればいいよ」
「むしろ間近で汚れているのを見たから、俺たちは夢が失われた気分だよ。やっぱり天井画は床から見るものだって」
慰めているつもりなのだろう。その優しさに免じて、これ以上不満を言うのは止めておこう。
ふと、ロイドが私の画架に掛けられたライラックの絵を見て指さした。
「あれ、これ、お嬢さんが描いた?」
「そ、そうよ」
「へえ、いいじゃないか。背景が暗くて白が際立っている」
「思い切ったなあ、黒をこんなに使って。でも、いいと思うよ」
「本当? 良かった」
二人に褒められて、私は一気に気分が良くなった。
セウラスの言う通りにして正解だったわ、と心の中で胸を撫で下ろす。
「こういう大胆な感じは珍しいね」
「えっと、セウラスが助言してくれたの」
「へえ、やるなあ。僕も今度、聞いてみよう」
どうやら、なにも気付かれなかったらしい。
私はほっと安堵の息を吐いた。
今はセウラスがここにいないからいいけれど、帰ってきたら私は大丈夫なのかしら。恋心を悟られないかしら。
ここは工房で、絵を描く場所だ。浮ついた気持ちはいけない。
気合を入れないと、と私はこっそりと拳を握った。