18. ライラックの花
翌日、朝早くからセウラスは工房にやってきた。
「早いわね」
「待ちきれなくて」
「なにが」
「君に会うのが」
私の顔を見て笑みを浮かべると、彼は足早にこちらにやってきて、そして腕を広げて私を抱き締めてきた。
「ちょ、ちょっと」
「よかった、まだいて」
私は手を彼の胸に当て、腕を伸ばして突っぱねる。
「どういう意味よ。私はいつでもいるわよ」
「いや、なんとなく。見ていない隙に逃げ出しそうな気がして」
「逃げ出さないわよっ」
いったいどうしたというのだろう。
恐ろしく、甘い。放っておいたら、どんなときでもべったりとくっついてきそうな気がする。
そんな彼を見ていると、ふと心配になった。
「父さんにも、ロイドにもフィンにも内緒にしてよね。その……私たちのこと」
「なぜ?」
心底不思議そうに小首を傾げて、そう返してくる。
やっぱり。隠す気はさらさらなかったようだ。
「なぜって……、は、恥ずかしいし。それに、工房が気まずくなるのはいけないもの」
なんというか、やっぱり王子さまだわ、という感想を抱いてしまう。浮世離れしているというか。
私のこういう気持ち、ちゃんとわかってくれるのかしら、と不安に思いながら上目遣いで彼の様子を窺う。
セウラスはしばらく考え込んで、そして頷いた。
「そうだね、そうしよう」
私はほっと息を吐く。よかった、皆がリーブリング礼拝堂から帰ってくる前に確認しておいて。
けれど彼は私に向かって指をさした。
「でも、そうすると心配なのは君のほうなんだけれど」
「え? どうして」
「私はけっこう、感情を隠すのは得意だけれど」
それには素直に納得した。生意気だと思われていたなんて、まったく気付かなかったし。
「アメリアは、感情がそのまま表情に現れる」
「うそっ」
「自覚ない?」
そう言われれば、確かにそうかもしれない。あまり感情を隠すようなこともしたことがない気がする。
「ない……こともない、かな……」
「だから、自分の心配をしたほうがいいよ」
「わかった、がんばる」
私は決意を込めて拳を握る。
セウラスはそんな私を見て苦笑しながら問うてきた。
「じゃあ先生たちが帰ってくるまではいいよね?」
「はい?」
「抱き締めたり、口づけしたりしても」
「はいっ?」
私が驚いている隙に、彼は素早く顔を寄せてきて、口づけてくる。
「な」
私は慌てて飛び退いて、自分の唇を自分の手の甲で隠した。顔が熱い。額から汗が噴き出そうだ。
油断も隙もない。まさかこんなに甘くなる人だったなんて。
セウラスがどうかは知らないが、こちらはそんな免疫はないのだ。手加減して欲しい。
「いいよね?」
私の動揺にはお構いなしに、そう念押しするセウラスはにこにこと笑っている。
いや、いいのかもしれないけれど。
「せっ、節操がないのは、だめよ」
「なんだ、残念」
そう言って肩を落とした。
「だって、半年の期間が終われば、そう頻繁に会うこともできなくなるかもしれないし」
私はその言葉に、動きを止めた。
半年。
そうだ、彼は期間限定の弟子なのだ。
もうすでに、彼が来てから四ヶ月が経過している。信じられない。時の過ぎるのはなんて早いことか。
あと二ヶ月。
そのあと、私たちはどうなるんだろう。
彼は王子なのだし、期間が過ぎればもう私なんて忘れてしまうのかもしれない。
「ずっとそばにいて、と言ったと思うけれど」
そう彼は、真摯な声を向けてきた。
私の表情を読んだのだろうか。私は本当に感情が駄々漏れらしい。
「う、うん。わかってる」
これから先、どうなるかなんてわからない。心配したって仕方ない。
「さあ、描きましょう」
「そうだね」
そうだ。彼のことはもちろん好きだけれど、私にはやらなければならないことがある。今はそのことを考えよう。
女性初の宮廷画家。
どれだけかかるかわからないけれど、絶対にやり遂げるんだ。
「庭にね、ライラックの花がとても綺麗に咲いているの。それを今のうちに描いておきたいと思って」
「へえ、いいね」
「切ってくる」
私は棚にあった剪定ばさみを取って、そして庭に出ようとする。
するとセウラスも後をついてきた。
「私も行くよ」
あと二ヶ月。しかも二人きりでいられるのは、あと少し。
これくらいは別にいいわよね、と私は彼の横に並んで歩く。
そうして庭で摘んだライラックの花を花瓶に活けて、私たちは黙々とそれを描いた。
絵を描くことに、二人の関係が影響しないかと少し心配したが、絵筆を持てば私も集中するし、セウラスも真剣に描いている様子だった。
そのことに少しほっとする。根が真面目な人で本当に良かった、と思う。絵を描いている最中にも甘かったら、きっと嫌いになってしまう。
そうして黙々と描いていると、気が付いたら窓の外が夕焼け色に染まってきていて、私は顔を上げた。
「今日はこの辺にしておきましょうか」
「そうだね」
彼は椅子から立ち上がり、ひとつ伸びをした。
「アメリア、見てもらえる?」
「ええ」
彼の絵の前に行く。白いライラックが見事に咲いていた。
「いいけれど、少し、細部にこだわりすぎているかも」
「そう?」
「小さな花が固まっているから、ひとつひとつに目がいってしまうのね。でも大きな花って捉えてもいいかも。でないと観るほうも、細部しか見なくなってしまう」
「なるほど」
私の感想に、彼は納得したように何度か頷いた。
「私のも見て」
「うん」
今度は私の絵の前に二人して移動する。
「どう?」
「うん、いいと思うよ。でもいいだけに、背景の色はもう少し暗くしたほうが映えるかもしれない」
「ああ、なるほどね」
「思い切って、黒一色でもいいかもね」
「黒っ?」
私は思わず大きな声を上げた。
黒という色は、とても難しい。あまりに強すぎて、少し使うだけで絵の中のすべてを持っていってしまうこともある。
「黒……黒かあ……」
私は頭の中で、目の前の絵に黒を塗ってみた。
どうだろう。いい感じになるような気もするのだが。けれどやはり、こんなに広い範囲に黒を使うのには抵抗がある。
頬に手を当て、うーん、と悩んでいる私に、セウラスはさらに重ねた。
「こぢんまりとまとまりすぎている、って言ったよね」
「そ、そうよね。明日、やってみる」
「うん、やってみて。それで失敗だったら、私のせいだし」
「決めたのは私なんだから、私のせいよ」
私がきっぱりとそう言い切ると、彼は少し驚いたように目を瞬かせたあと、にっこりと微笑んだ。
「なに?」
「いや、そういうところ、好きだなあと思って」
「す、好きって……」
また顔が熱くなってきた。この人と一緒にいたら、心臓がもちそうにない気がする。
「あんまり甘やかさないでよ」
「そんなつもりはないけれど」
でも明日もし、この絵に黒を塗るのが上手くいったら。それはセウラスのおかげだ。
こうしてお互いを高めることができるのなら、この人のことを好きになってよかったと思えるだろう。
恋をするのはとてもいいことだ、と胸を張って言えるような関係になりたい。
私はそのとき、そう、思ったのだ。