14. 温もり
まだ外は、雨が降っている。雷の音は遠くはなっているけれど、未だ聞こえる。
あの日のことを思い出して、私は自分の二の腕をさすった。
「私、怖かった。一心不乱に描く父が。外は雷が鳴っていてね。雷雨になると、それを思い出すの」
「そうか」
セウラスは、短くそう応えた。
なんだか空気が重たくなってきたような気がして、私は努めて明るい声を出す。
「そのときね、死にそうになっていたのよ。父もだけど、私もなんにも食べていなかったから。様子を見に来た画商の人が、私を助けてくれたの」
苦笑交じりにそう語ったが、セウラスはますます暗い顔をして考え込んだ。
「……ひどいな」
何に対してそう評したかはわからなかったが、ただ彼が、私を労わろうとしているのは伝わった。
「そのときの絵はね、本当に素晴らしかったの。母が絵の中で生きているみたいに思えたわ。母が絵の中に蘇ったんだと思った」
宮廷画家となるきっかけの一枚。至高の一枚。
「だからね、その絵を見て私は全部許しちゃったの。お腹が空いて、寂しくて、とてもつらかったけれど、でも、まあいいかあ、って思っちゃったのよ。どうしたわけか」
茶化すような声音を出したが、セウラスはこう返してきた。
「けれど君は今も、雷が苦手だ」
こちらをじっと見つめて彼は指摘する。
私はなぜだかその目を見ていられなくて、目を逸らした。
「でも私が今、絵を描き続けていられるのは、その絵のおかげよ」
「おかげ?」
「父は、そのときのことを悔いているみたいなの。だから父は私には弱いの。工房に弟子として出入りするのを拒否できないのは、そのときのことがあるからよ。私はその弱みにつけこんでるの」
私はそう口にして自嘲的に笑ったけれど、セウラスはにこりともしなかった。
「その絵がきっかけで、父は宮廷画家となった。宮廷画家になれるって聞いたとき、父は笑っていたわ。泣きながら、声を上げて笑っていたわ。今さら、今さらって、何度も言いながら」
私たちの様子を見に来た画商は、慌てて人を呼んで父と私を助け、そしてあの至高の一枚を持って帰った。
その一枚は貴族の目に触れ、評判となり、王城でも評価された。過去の作品もそれと同時に評価が上がり、これだけ描ける人間が埋もれていてはいけないと、宮廷画家として王城に雇われることになった。
大喜びの画商の報告を聞いた父は、まず小さく鼻で笑った。喜ぶと思っていたのであろう画商は首を傾げる。
どうしたんだよ、宮廷画家だぞ? これ以上の話がどこにあるんだ、今までの努力が報われたんだぞ、と言い連ねるその言葉を聞いて、父は大きく笑い始めた。
今さら? 今さら宮廷画家になって、なんになるっていうんだ。エマもいないのに。今さら認められたって、どうにもならない。
父の目からは、涙が流れ続けていた。笑いながら、泣いていた。
狂ってしまったのだと思った。父の悲しみがあまりにも深くて、私はなにも言えなくなった。
それでも画商はなんとか父を説得して、結局、父は宮廷画家となった。
「宮廷画家になるって家を出るとき、近所の人はみんな黙り込んでなんとも言えない顔をしてたかな。でも子どもたちは、すげえすげえって喜んでくれた。それは嬉しかったなあ」
屋敷を与えられた私たちは、さしてない荷物を簡単にまとめて、王城が用意してくれた馬車に乗って引っ越すことになった。
近所の子どもたちは引っ越しのときには集まって、父の出世を喜んでくれた。
アメリアの父ちゃんの絵は本当にすごかったな、と笑ってくれた。そして、助けてあげられなくてごめんな、と泣いてもくれた。
けれど私と同じく子どもであった彼らに、なにができただろう。その気持ちだけで十分だった。
「おかみさんもバツの悪そうな顔してた。でもそのあと、屋敷にお金の無心に来たことがあるのよ。店が潰れそうだって。助けてくれって。父は笑って追い返してたわ。あなたは助けてくれたのかって。たぶんあのまま潰れたわね。私たちの部屋がもうないのは、少し残念だけれど」
母との思い出の場所がなくなってしまったのは、寂しい。
けれど私たちには父が描いた絵があった。
あの絵に母のすべてが籠められているから、それでいいのだ。そう思えるほど、あの絵は素晴らしかった。
けれど。
けれど、後悔がないわけではない。悲しみがなくなったわけではない。
「母に、宮廷画家として父が活躍しているのを見せてあげたかった。母が生きている間に、こんな風に生活できていればよかった」
「うん」
「でも、母の死によって父の才能は開花した。たぶん母の死がなければ、あの絵は生まれなかった。皮肉ね」
「うん」
彼はただ、私の話を聞いて相槌を打つだけだった。それがとてもありがたかった。
「ごめんなさい、私の話ばかりしてしまって」
そう話を打ち切って笑いかけると、セウラスはまたこちらを見つめてきた。
「笑わなくていい」
「え?」
「無理して笑わなくていい。泣いてもいい」
真面目な顔をして、そう口にする。なんだか少し申し訳なくなった。暗い話をしすぎてしまっただろうか、と。
「え、あの、別に私、泣きたくなんて」
顔の前で手を振って、彼の言葉を否定する。
だが彼は口を結んだまま、こちらを見つめているだけだ。
リーブリング礼拝堂に連れて行ってもらえなかったとき、泣かないで、と言った彼。そんな彼が泣いてもいいと発言した。そんなに泣きそうな顔をしているのだろうか。
「いやだ、私、大丈夫よ。心配しないで」
「本当に?」
「本当よ。だってもう、十年以上も昔の話だし……」
そのときふいに、はらりと頬を涙が伝った。
「……え」
そのことに、自分で驚いた。なんの前兆もなく、いきなり涙が流れてきたのだ。
「え、なに、これ」
ぱたぱたと涙の粒が落ちていく。いったいなんの涙なのか、自分でもわからない。
自分の涙を両手を広げて受け止める。母が死んだとき、もう十分に涙を流した。流す涙など残っていないような気がしていた。
なのにまだ私の中に、なにかが残っていたのだろうか。
ふいに頭を抱えられて、顔を彼の胸に押し付けられた。
「君は、よくがんばったと思うよ」
その言葉に、こみ上げてくるものがある。喉が震える。涙がまた次から次へと溢れ出る。
私は彼の背中に腕を回す。そして、声を押し殺して泣いた。
父がいなくなって、誰も助けてくれなくて、私だけが母の生命線で。
だから長い道を一人で歩いてご飯を買いに行って、水の入った重い桶を何回も運んで、残ったお金がいくらくらいかと何度も確認して。
周りは遠巻きに見るばかりで心細くて幾度も泣きそうになったけれど、それでも耐えなければとがんばった。
なのに助けられなくて。
そして助けてもらえなくて。
なにも報われなくて。
父の悲しみは深かったけれど、それでも宮廷画家になるという結果は残った。
けれど私にはなにも残らなかった。
だから私も宮廷画家になりたいのだ。
あのとき助けられなかったけれど、でもがんばったのだと誰かに褒めてもらって、抱き締めて欲しかった。なにか結果が欲しかった。
我慢できなくて、嗚咽が漏れた。セウラスの腕に力がこもって、私をぎゅっと抱き締めてくる。だから私もさらに強く抱きついた。
涙は止まらない。
けれど。
ずっと与えられなかった温もりを、今、手に入れたのだ、と思った。