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13. 美しい一枚の絵画

 だから、ついに父は、働きに出ることに決めた。

 そして食堂のおかみさんに頭を下げ、母のことを頼んでいた。


 それを聞いた母はベッドの中で泣いていた。母の病は進行が早く、そのときにはもう立つことも難しくなってしまっていたのだ。


「私のために……絵を辞めてしまうだなんて」

「今だけだよ。船に乗るんだ。少しの間、帰ってこられないけれど、稼ぎはいい。それでお金を手に入れたら、また描くよ。だから病気を治すことだけ考えて」


 父のその言葉に、不承不承、母は頷く。

 母は泣きながら、働きに出る父の背中を見送った。


 そのうちどうしたわけか、母の病気は伝染性のあるものではないかと噂になりだして、父がいなくなってからは食事を持って来てくれていた食堂のおかみさんも、近所の人も、誰も私たちのところにはやってこなくなった。


 だから私は一人で懸命に母の看病をした。幼い私ではできることなど限られていて、それでも私は母のためにできる限りのことをしようとがんばった。


 井戸から水を運んでいると、一緒に遊んでいた男の子たちが手伝おうとしてくれたこともあったけれど、彼らの親が男の子の手を引いて、それを止める。


「近寄っちゃいけません! 伝染したらどうするの!」


 本当に伝染病だったかも今となってはわからない。医者も近所の町医者だったし、ただ弱っていく母に、どんな薬を出していたのかも定かではない。

 ちゃんとしたことはわからないまま、でも私はなるべく母が快適に過ごせるようにと、それだけを考えた。


 踏み台を台所に持って来て、母に教えられるがままスープを作ったり、熱を出した母の身体を拭いて着替えさせたり、近くの店ではご飯を売ってくれなくて、遠くまで行って買ったりして大変だったけれど、母が「ありがとうね」と笑うと、それだけで疲れがとれた。


 お金も次第に底を尽き始め、けれどもう少しで父が帰ってくる、という頃。


「アメリア」


 母に呼ばれて、私は母の枕元に置いてあった椅子に座った。


「ごめんね、アメリア」


 母は目に涙を浮かべて、私の手を握った。柔らかさが失われた、細い指だった。


「お母さん?」

「もうあまり、一緒にいられないみたい。だからね、覚えていて、アメリア。お母さんは、アメリアが大好きよ」


 か細い声。途切れ途切れだったけれど、でも一音一音、しっかりと話してくれた。

 私はぎゅっと母の手を握り返した。

 まさかそんな。そんなこと。


「お母さん! お母さん!」

「お父さんが帰ってきたら、伝えて。絶対に、描くことを、辞めないでって」


 母はそう懇願するように話すと、涙を一筋、零した。


「お父さんの絵……あるかしら」


 母がそう言うので、私は部屋の壁に立て掛けられていた描きかけの花の絵を持って来て、泣きながら母に見せた。


「ああ……やっぱり、とても優しい絵だわ」


 笑みを浮かべ、細い腕を伸ばして、絵の表面を愛おしそうに撫でる。


「マシュー、アメリア、愛しているわ」


 それだけ口にすると、母の手から力が抜けた。父の絵を見て輝いていた瞳には、もう輝きはなかった。


「お母さん……?」


 私は母の身体を揺さぶった。けれどもう母は動かなかった。


「お母さん、お母さん! 嫌だ、嫌だよお!」


 私は母の身体に取りすがって泣いた。だって今まで。今の今まで。目を合わせていたのに。喋っていたのに。信じられない。

 呼んだら帰ってくるのではないか。そう思いながら、母を何度も呼んだ。

 けれど二度と動くこともなく、私の呼び掛けに応えることもなく。

 母はそうして旅立ってしまった。


   ◇


 泣き疲れて、母の身体に取りすがったまま眠っていたが、ふいに音がして目が覚めた。


 振り返ると父がいた。

 部屋の扉を開けて、その場に呆然と立ちすくんでいた。父の足元には、お金の入った布袋が落ちていたから、これを落とした音で目が覚めたのだろう。


「お父さん……」


 父は黙ったままゆっくりと歩き出し、そしてベッドの傍まで寄ると、母の顔を覗き込んだ。


「エマ……?」


 その白い頬に触れ、細くなってしまった手を取って、金の髪を撫でて。

 そして母の死を理解したのだろう。

 父は母の身体に覆いかぶさるように倒れ込むと、おうおうと声を上げて泣いた。

 その姿を見て、私の涙もまた帰ってきた。その場にしゃがみ込んで、わあわあと泣いた。

 二人の涙を止める者は、誰もいなかった。


 泣き声の合間に、父の声が聞こえる。

 どうして、こんなことに、こんなことなら。


「こんなことなら、絵を描き続けるべきだった!」


 そうしていたら、死に目に会えないなんてことはなかった。

 絵を辞めさせたと、母を泣かせることもなかった。

 母はなによりも、父が絵を描く姿が好きだったのに。


   ◇


 母の葬儀は、簡単に行われた。

 父が持って帰ってきた稼ぎがあったので、それで棺を買い、墓所に埋め、近所の教会から牧師さんを呼んで、それだけだった。

 母が死んだのは伝染病ではなかったのか、という噂はまだあったから、墓所に来る人間も少なかった。


 そうして母を埋めてから家に帰ると、父と私は食堂のおかみさんに呼び止められた。


「ねえ、ちょっと」


 私たちは立ち止まる。

 母のことを頼んでいたのに来なくなってから、初めて話し掛けられた。


「こんなときに言いにくいんだけどさ……うち、食堂だろ? 伝染病とかの噂があって困ってたんだよね。エマにはがんばってもらってたから今まで言わなかったけどさ、譲歩してたってわかってる?」

「はあ……」


 父が聞いているのかどうなのかわからないような態度だったからか、おかみさんは苛立ったように声を荒げた。


「あんたじゃ家賃も払えないだろ? だから、近いうちに出て行って欲しいんだよね。しばらく人に貸せないし、えらい損害だよ」


 言いにくい、と言いながら、おかみさんは割とすらすらとそう口にした。

 父は黙ったまましばらく立ち尽くしてから、ゆっくりとおかみさんに歩み寄った。


「な、なんだよ!」


 父の様子にただならぬものを感じたのか、おかみさんは後ずさった。

 父はふっと腕を伸ばす。その手には布袋が握られていた。それが今の父の全財産だった。


「これで」


 眉をひそめてはいたが、おかみさんはその袋を受け取った。そして中を見て、口角を上げる。


「ま、まあ……今までのはこれでいいけど」

「近いうちに出て行きます。お世話になりました」


 抑揚のない声でそう礼を述べると、父は踵を返して私の手を引き、二階の部屋に戻った。


 そして部屋に帰って父がまずしたことは、新しい帆布を木枠に張ることだった。

 なぜか声を掛けることもできなくて、私は部屋の隅に座って、父の作業を見つめていた。

 帆布を張り終えると木枠を壁に立て掛けて、そして黙々と絵筆を動かし始める。

 とても話し掛けられるような雰囲気ではなくて、私は身じろぎもせず、その姿を見つめ続けた。


 父はときどき厠に立ったりする程度で、それ以外の時間はすべて絵に向かっていた。

 私はお腹がすいてきて、でも言い出せなくて、台所にあった甕から水を汲んで飲んだりした。

 明るかった窓の外は暗くなってきて、私は眠くなると、その場で横になって眠る。

 窓の外がまた明るくなって目を覚ましても、父はまだ絵を描いていた。


 なにか食べようと思っても、台所にはもうほとんどなにもなかった。

 買い物に行こうにも、お金がない。


「お父さん……おなか……すいた」


 我慢しきれなくて、そう恐る恐る声を掛けたが、父は振り向かなかった。

 そのあと何度も何度も呼び掛けたけれど、それでもなんの反応も示さなかった。


 仕方なく私は、水を飲んで空腹をごまかして、父の背中を見つめ続ける。

 やっぱりまだ絵を描き続けているので、私はその日もその場で横になる。


 翌朝、目が覚めても、まだ状況はなにも変わっていなかった。

 窓の外が暗くなってきて、雨が降り始めた。

 どこからか雷鳴が聞こえてきて、私は焦る。

 早く買い物に行かないと、嵐になったら出かけられなくなる。

 父はお腹が空かないのだろうか。今のうちにご飯を買っておかないと。


「お父さん、ごはん、食べようよ」


 私は父の背中に手を掛けた。けれど父は振り向かない。


「お父さん!」


 私は父の腕に取りすがって、なんとか振り向いてもらおうとした。


「邪魔をするな!」


 だが父は、私の手を振り払った。私ははずみで床に倒れ込んだが、それでも父は振り返らなかった。

 力が湧かなくて、私は転がったまま、父を見つめる。

 父は一心に絵筆を動かしていた。


 雨と風が窓を打ち付けていて、窓を破ってしまうのではないかと怖かった。

 雷鳴も次第に大きくなってきて、この家に落ちてしまうのではないかと震えた。

 雷が光って、父の影が部屋の中に大きく映し出されて、違う人に見えた。


 横になったまま、父の絵を見る。もう完成が近かった。

 母が、そこにいた。

 女神のごとく、美しく微笑む母がいた。


「おかあさん……」


 涙が一筋流れ出てきた。

 美しい、一枚の絵画。

 母が帰って来たのだと、そう、思った。

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