菊火てんてん 1
「藍、まずいことになった」
顔をこわばらせた虎太郎が座敷に身を入れた。明るい縁側に座していた妖は、青年が握っている板切れのような電話機を見るや、
「なんと、月若のご老人が……」
と袖で口もとをおおって眉根を寄せた。
「祖父さんは回復中だ。そうじゃなくて、客。家に人がくる」
焦った様子で腰を下ろした虎太郎を、藍は「は、それが?」と拍子抜け丸出しで見つめ返した。相手はとんでもないというふうに畳に手をつく。
「だってお前がいるじゃないか! 妖怪とはちあわせたら普通の人はたまったもんじゃないんだぞ、しかも思いっきり平安だし……」
「落ちつきなさい虎や、たいていの者には私が見えぬ」
肩を叩かれた虎太郎は、「そ、そうだっけ」と戸惑いながら力を抜く。
「そんなにうろたえて帝でもお越しになるというのか? 案ずるな、玉露を献上すればじゅうぶんに間がもつ」
大真面目にさとされた虎太郎に風が吹き、やっと冷静さが戻ってきた。彼はため息をつき首筋をかく、少し気まずそうに。
「帝じゃなくて、大学の同期」
「ほう、大学寮(古代の役人養成所)か」
「それ違う気がする、いや大学の寮生ではあるけど」
煮えきらない虎太郎に、藍は「どんなお人か、一言で示しなさい」といさめるように尋ねる。虎太郎はうろたえてから首をひねり、ぽつりと答えた。
「まだ、直接会ったことない人」
「なんと……?」
呆れかえる妖につづきを話しながら、虎太郎は数日前のできごとを思い返していた。
前期の講義を無事に終えた虎太郎は、古楽器同好会と初めて顔を合わせた。
「本っ当に助かるよ月若くん! 風前のともしびの前に現れたさすらいの竜笛吹き、これぞ渡りに黒船だよね!」
構内のカフェテリアに明るい声が響き、なにごとかと視線が集まる。眼鏡をかけた長身の女性はそれを一切気にせず、虎太郎の手を数珠ごと握りしめた。
「あ、いえ、そんな大層な……」
笑顔で固まった横から「もう会長ったら、月若くん困ってますよー?」と利発なおかっぱ頭がのぞく。阿ヶ瀬という珍しい名字の彼女は虎太郎と同じ新入生で、さっぱりした気性が言動によく表れていた。
「びっくりしたでしょー。会長いつもあんな感じだけど、三味線さえ持たせれば静かになるから」
「それ聞いて安心した。いい人だな、会長さん」
最寄り駅に向かいながら虎太郎は笑う。同期、しかも女子と喋りながら歩いている今の俺はどこから見ても普通の大学生だ。そんな気分が彼を持ちあげる。
あいづちを打っていた阿ヶ瀬がパッと顔を向けてきた。
「そうだ、本番で写真撮られるんだった。そういうの平気?」
「写真?」
虎太郎はふいをつかれて小柄な同期を見下ろす。
「うん、学科の友達。サークルとかじゃないんだけど、モデル探すの苦労してるから協力したくて。寮生でね、課題もバイトも色々がんばってる子」
かたむけた日傘から子供のような笑顔が見上げてくる。
虎太郎は返す言葉に少し迷った。すごいね、偉いね、という共感はちょっと軽いように思う。苦しまぎれに、
「その子、伝統文化が好きなのか」
と尋ねたところ、阿ヶ瀬は「そうなんだよねー! いいスポットとかも探してるみたい、月若くんなにか知ってる?」と食いついてきた。
そして質問に質問が重なったはてに、虎太郎は月若邸についてみごとに聞き出されていたのだった。書家の祖父が持つ和洋折衷の屋敷、モダンな洋間に書院造の和室……
「すっごいばっちり、それハルちゃんに教えていい? 絶対撮りたいと思う!」
「あ、うん。そんなきれいな家じゃないけど」
「じゃ連絡しとく、今!」
阿ヶ瀬は目を輝かせスマホを取り出す。虎太郎は「どうしよう……」と景色に助けを求めた。
ゆるやかな下り坂、濃い影がアスファルトに落ちる。広く青い空の下に町並みが広がり、今日の帰り道はそのまま夏の真ん中へ続いているようだった。
ひととおりの事情を聞かされた藍は、
「まずいも何も、墓穴ではないか」
と信じられないように虎太郎を見つめた。相手はがっくりと首を垂れる。
「はいそうです…… アホだってのは言わないでいい」
藍はしょっぱい表情で当主代理を眺めていたが、「まあ、お前の一存で呼べばよろしい」とさしたるこだわりもなくうなずいた。深い色の目が穏やかに細まる。
「なにがこようと私はかまわないよ。万一に備えて透けておきますから」
「消えておけよ」
「おめでたいね虎や、女人をお迎えとは。赤飯をこしらえるなら私の分は小さく握って三つ四つ……」
「消えてくれよ」
相手はちっとも動じず「ふふん」とからかうように顎をそらす。本日も七月の快晴、裏庭の松もいっぱいに陽を受けている。日光は座敷まで染みてくるが、青の間は不思議と心地よい気温にとどまっていた。
藍がすっと立ちあがり、涼やかな空気が動く。
「来客とあれば妖の忠告、少しはまわりを片づけた方がよい。私からすると現し世には品が多すぎる」
と言う澄ました横顔を眺めてみれば、長い髪をかけた耳が少しとがっていることに虎太郎は気づく。正体がどんな姿かは知らないが完璧に隠しておくのは難しいらしい。
しげしげ観察していると、整った真顔がこちらに向いた。
「聞いているのかね虎や」
「あ? ああそう、片づけだな。うちの祖父さん、掃除はしても物は捨てないから…… 藍、手伝ってくれるのか?」
彼が笑顔で肩を並べた瞬間、妖は墨の影になって消えようとした。虎太郎は慌ててつかみかかる。
「おい待て、少しは飲み食いの分を返せよ! 妖怪玉露減らし!」
しかしその時、彼ははじかれたように天井を見上げた。
今、なにかが通り抜けていった。
「二階……?」
虎太郎がつぶやき、ふたりは同時に顔を見合わせた。先日の怪異が脳裏によぎり、虎太郎は不安と緊張に表情を硬くする。
藍は、そんな彼を励ますように凛々しい微笑みを返した。
「喜んで手を貸しますとも。こちらの片づけならばね」