月の屋敷に藍の澄むこと 7
庭の手入れが終わった、と報告すると、祖父は「ご苦労だった」とうなずいた。
手術をした片脚はがっちり固定されているが、ベッドの上に身を起こしている。虎太郎はホッとしながら椅子を引き寄せた。
「祖父ちゃん、顔色よくなったな」
「よくならないと困る。骨が折れただけのことでお前を一人にできん」
太い声にあたたかな優しさが灯り、祖父と孫は自然と顔を見合わせる。それはずいぶんひさしぶりのことだった。
「社会に出るまで見届けなければ、倖一と清美さんに申し訳が立たないからな。もう三、四年の辛抱だ」
両親の名と並べられた数字は妙に生々しく感じられた。虎太郎はやっぱり怒ったような表情に戻り、
「そういう人にかぎって長生きするんだろ、孫に世話焼かせて」
と口をとがらせ、てきぱきと用事を済ませにかかった。彼を眺めていた祖父が口を開く。
「試験はどんな具合だ」
「大体終わった」
二つの意味で。学業から話をそらそうと、彼は「それより、笛やるかもしれない。夏祭りで」と急いでつけ加えた。
祖父はしばらく黙っていた。あの竜笛は、彼が若いころに騙し半分の高値で買わされ、苦い思いとともにしまいこんでいたものだ。屋敷に引き取った孫がそれを掘り出した時、吹くのはとめなかったものの、あまり喜んでいる様子ではなかった。
今回も聞き流したのだろうと虎太郎は思ったが、ふいに返事が投げられた。
「お囃子か」
「そんな感じ。人が足りないらしくて」
「では、年寄りにかまっている暇はないだろう」
虎太郎が手をとめてふり向くと、祖父の気丈な視線とぶつかった。
「わしのことはほどほどにして、そちらを手伝ってやりなさい。お前のためにもなる」
ブローカー役の三橋に連絡をし、下宿に戻って前期最後のレポートを特急で仕上げ、虎太郎が月若邸に帰ったのは数日後の夕方だった。
座敷のふすまはすでに開いていて、当然のように藍が座していて、しかも文机の上に自前らしい書道具を広げていた。
「おや、おかえり」
筆をとめた藍がなんでもないように顔を向けてきたので、虎太郎は細かい質問を脇にどけることにした。こうやって迎えられると悪い気分ではない、相手が妖怪であっても。
「なんだ、お前も書くのか」
照れ隠しに紙をのぞくと、流麗な書体で “藍澄” と記されている。
「あいずみ?」
「雅号のようなものだよ。本質は藍だが……」
ここで藍は、虎太郎が手にしている細長い包みに目をやった。
「あ、これ竜笛。しばらく練習するから、うるさかったらふすま閉めといて」
彼はひょいと笛をふる。空気が動き清涼な墨の香りが立った。藍はさほどの関心を見せず、硯に置いていた筆を取りあげる。
「笛も結構だが、私としては書を鍛えたい。ひとつお前も」
「絶対書かねえ」
「なんと」
妖に真顔で見つめられても、虎太郎は一歩も退かなかった。こればかりは譲れないのだ。
「苦手なんだよ、本当に。祖父さん直々に教えられても全然だめだったし、その祖父さんも諦めた。根っこから向いてないんだ」
これが書家の孫の字か、と今までどれだけ祖父に叱られ、他人に笑われたことだろう。自分の字を見る機会はできるだけ減らしたい、毛筆なんて特に。
口を引き結んだ青年のみなぎる意志を感じとり、藍は幾度かまばたきをした。
「……まあ、急くこともなし。いずれ、追々」
「絶対書かねえ。宙はよくても紙には書かねえ絶対」
「あいわかりました、重々承知! これは先が思いやられる……」
拒絶の意志でハリネズミのようになっていた虎太郎は、「呼ばれたのも気のせいか」という藍のぼやきを聞き逃した。
「じゃあそういうことで、ちょっと吹いてくる」
立ちあがりかけた彼を藍がとめる。
「ああ虎や、厨で蔬菜が痛んでいたよ。さやを開けば墨染めの豆」
「ん、もらったやつなら早成りの黒豆で…… 待て、お前出歩けるのかよ!?」
「気が向いたなら」
澄ました横顔を見て虎太郎は悟る。さてはこいつ玉露を探していたな……
しかたない、と腰をあげた彼は、台所に向かう前にふり返った。
「なあ藍。お前、家の何なんだ?」
情けなく眉を下げた虎太郎に、妖自身も小首をかしげて答えた。
「ゆかりの者、ということにしておきますか。さて、その黒豆とやらも添えていただこうか、虎や」
( 第一話 了 )