筆と心に添う手は幽幻 7
そうして大きな夜をこえ、日常が戻った。
陽ざしは一日ごとに秋の色に変わってゆく。後期の授業の準備に秋祭りの練習と、虎太郎は細やかな用事で忙しくしていた。
あの後、春瑠とは何度か電話をしていた。最初は長く入り組んだ事情の説明だけだったが、それが済むころには会話も自然になりはじめていた。
「お祖父さん、もうすぐ退院?」
「うん、月末に。やっとだよ」
「夏じゅうずっとだったもんね、よかったね! ……藍之介さんと菊火ちゃん、どう紹介するの?」
深刻な声に、虎太郎も「そこなんだよな」とうなずくしかない。しかし、
「帰ってきたとたん腰抜かしたら困るし、しばらくは開かずの間のままにしておいて……」
「私で手伝えることがあったらなんでも…… アリバイ写真とか……」
と二人で算段をつけていると、案外なんとかなるような気がしてきた。
明るい表情で通話を終え、顔をあげる。するとテンの菊火が廊下を駆けていくところだった。和室をつっきって弾丸のように表庭へむかう。
「あれっ、どこ行くんだ」
彼女は小筆をくわえてもごもごしながら、しかし元気に言いきった。
「ちょっと伊賀まで!」
夏毛が白く変わりはじめた背中を見送り、虎太郎はニヤリとふり返る。ちょうど藍が青の間から顔を出していた。
「してやられたじゃないか」
「隙を作ってやったのだ」
と、憮然とした妖が座敷に引っ込む…… のをやめて近づいてくる。目の前で立ちどまった。
「虎、あらためて申しておく。お前が赤の領域でなしとげたのは、実にみごとな書、会心の術だった」
藍は穏やかな目をしていた。心からの言葉を、虎太郎は少し寂しい笑顔で受けとった。
「けど、助けられなかった。俺の思ったようには」
「最善だった。月若虎太郎と出会った亡花の、新たな願いを叶えたのだ」
虎太郎の心に少女の姿が浮かんでくる。一途にむけられた黒い瞳、嬉しそうな笑顔、はるかな時代の面影。
最後に現れたのは、静かに晴れた春の山の情景だった。薄い紅の花をつけた木がひっそりとたたずんでいる。宗月が初めて見た時の景色かもしれなかったが、もうそこに梨那紅はいなかった。
罪を手放さなかった彼女は、どこへ辿りついたのだろう。
虎太郎は大きな目をまたたかせた。
「叶ってたら。そうだったらいいんだけど」
「そうだとも」
笑みを深くした藍が、「さて」と表情を切り替える。嫌な予感がした時、虎太郎のシャツの袖はしっかりつかまれていた。彼は引きつりながら尋ねる。
「なんでしょうか藍澄さん」
「これで稽古に打ち込めるではないか。私もまだしばらくは世に残れそうなことだ、ひとつ猫を立派な虎にしてやろう」
「お前、月光浴びて元気になったな……」
これは文字の選択を誤ったかもしれないぞ、と彼は自分の中の宗月に呼びかけた。
少しばかり期待した虎太郎だが、筆をとっても平安道士の腕は戻ってこなかった。藍と離れているあいだに書いたという流麗な字を、信じられない思いで眺める。
「本当にこの手が書いたのか? 祖父さんよりかっこいい字だな」
「私には懐かしい。宗月の字によく似ている」
藍もしげしげと紙を手にとった。その横顔を見た虎太郎は、「まったく同じ、ではないんだな」と不思議そうに口にする。
書から目をはずした藍が、
「同じ生をくり返すのではないからな。お前だけの書は確かにあるのだし、もっと善いものを目指さねばならぬ。ここが出発点だ」
と書きたての猫文字を人さし指でつつく。しだいに指が増えてゆき、最後は五指でべしべし叩きだした。
「いや、そんなに強くしなくても……」
とちぢこまる虎太郎を前に、藍がひそかに安心したことがあった。
彼が宗月の魂を継いでいるとわかってから、妖の頭にある推測が生まれていた。
虎太郎の字はいくらなんでも悪筆、いや個性的すぎる。それはもしかして、魂の新しい部分が過去を…… 宗月の魂や書の術、墨妖怪を拒んでいるせいなのではないかと。
しかし、あの大局から戻った虎太郎の字は、因縁を受けとめきった後でも少しも変わっていなかった。
無意の拒絶などない。これが月若虎太郎という青年なのだ。
そう腑に落ちた今、藍自身の大局はようやく終わりを迎えた。
そっと息をついて晴れやかな顔をあげる。
「まだまだ伸びる余地があるということだよ。ああ朱墨が足りない、千年鍛えた妖の腕が鳴る」
「大げさだな、だいたい寝てたんだろ」
じろりとする虎太郎にかまいもせず、藍は「さあ虎もう一筆、陸海空に墨を足すのだ」とわくわくして水差しを取りあげる。だが、虎太郎はふとつぶやいた。
「あ、笛吹きたい」
「なんと」
「少し休憩…… 逃げるわけじゃないぞ、本当だからな!」
そそくさと出て行く虎太郎を見送り、藍は苦笑した。
まあよろしい、今日この日くらいは。
開け放した座敷からさわやかな墨の香りが流れていく。やがてそこに高く澄んだ音が乗った。
妖は永年を残る墨の文字をつづり、人は瞬間に消える音を奏でている。しかしそこに込める心は同じだった。
いま抱くこの思いが、会いたい誰か、会えない誰かへ遠く伝わるようにと。
ふと、笛の音がやんだ。
ばたばたと足音がしたかと思うと、竜笛を握った虎太郎がせわしなく座敷をのぞいてくる。
「なあ藍。最初のころに言ってたよな、怪異も永遠にはつづかないって」
「そうだ」
「俺はそれを信じるって言った」
「ああ、そうだよ」
「それ何百年先の話だ? 表庭に、なんかいる」
頭をかいた虎太郎は困っていたが、恐れてはいなかった。
様子を悟った藍が筆をとめてふり返る。すっかりとり澄ました顔をして。
「そして私は手を添えると言った。参りましょうか、虎太郎道士」
(青の座敷の墨つき妖怪 完 )
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