筆と心に添う手は幽幻 6
こんだけ暗くちゃなんにも見えねえや。
と、彼は足をとめた。ずいぶん長くさまよったみたいだが、どうしてここにきたのかは忘れてしまった。ひどく寒くて苦しかった、ということだけ記憶にあり、彼はぶるっと身を震わせた。
そうすると一気に恐怖が戻ってきたようで、思わず声をあげた。
「……おおい、誰かいねえのか!」
「ここに」
涼やかな答えがあり、彼は驚いてふり返った。
「あれ、やっぱりここって地獄かい」
そう尋ねると、三本角の鬼は「ちがう。行きたければ叩き落としてやってもよいが」と物騒に微笑んだ。墨色をした古代の装束に数珠を持ち、襟もとには白い獣がぐったり巻かれている。
えらく優雅な鬼だなあ、と目を丸くしていると、相手は牙をのぞかせて告げた。
「私の主より、深く感謝を伝えたい。お前の勇敢な行いに助けられた、帰る場所が守られたと」
「なに、おいらが勇敢? 鬼さんばか言っちゃいけねえ、美濃屋の武次ってったらちょいと名の通った臆病者で……」
彼は言葉を切った。
なんだ今の名前、そいつがおいらか?
「それでよい」
と、目の前の鬼がにっこり笑った。
すると、空にひと筋の光が伸びた。筆で書いたような、力の抜けたきれいな線だ。
そうだよ、あっちに行くんだった。
足を踏み出したとたん光は消えてしまったが、もうけして迷わないと彼は知っていた。ほら、こっちだ武次、と懐かしい声がしてるじゃねえか。
しかし、なにやら違う名前でも呼ばれていた気がする。さてはそっちが勇敢なおいらだったのか、と彼は納得した。
「褒められんのも悪くないな」
照れ笑いをひとつ浮かべると、武次は少し胸を張って歩いていった。
町を襲ったのは、数十年に一度の雷だったらしい。
葉っぱや泥で荒れた庭を掃除していた虎太郎は、さっそく犬をつれた知り合いにつかまった。
「おはよう虎太郎くん、雷すごかったわねえ!」
身を乗り出す女性に、彼は「昨日、家を離れてて」と頭をかく。
「祖父から電話で聞きました。ひどかったみたいですね」
「そうなのよ、最後に特大のが落ちてね、空が真っ赤に光ったと思ったらガガーンッて…… あら、誰かきてるの?」
屋敷にむかってしきりに吠え出した飼い犬を見て、彼女は不思議そうに尋ねた。虎太郎は笑顔で首を横にふりながら、内心こう答えた。
きたというか、住みついてます。
しかも、増えるかもしれません。
昨日、月の光を抜けた彼が辿りついたのは、嵐の去った夕暮れの庭だった。
あたりに残された雨水がしたたり、燃えるような空が世界を染めている。
「赤色……」
虎太郎がつぶやくと、藍が「名残りだな」と応じた。彼は空に目を奪われていたが、
「虎太郎くん!」
と春瑠が飛び出してきたので仰天した。大雨の中をずっと縁側で待っていたのか、髪からスカートまでびしょ濡れだ。
「沖野さん!? どうしてここに」
駆け寄った彼らは手を差し伸べあったが、ふいに春瑠が動きをとめた。
視線が虎太郎の後ろにむかう。そこに立っている平安装束の藍乃介と、その肩でのびている白い獣をとらえた。
「あ」
と虎太郎も固まったその時。
手を取りあう寸前の二人のあいだに、黒っぽいものがばさっと落ちてきた。「あ」と藍が口を開ける。
春瑠は石のように硬直した。彼女の腕にかぶさってぐったり羽を広げた巨大なコウモリを見て、虎太郎が震えた声を出す。
「お、沖野さん、これは……」
彼女の中でなにかがふり切れた。呆然としながら春瑠は答えた。
「気のせい、には、できない」
気を失っていたはずのシァンフェイは、菊火が夜半すぎに目を覚ますと、すでに屋敷を去っていたという。
「行くあてなんてないのに」
明け方になって、彼女はぽつりと言った。虎太郎はまだうす暗い裏庭を眺める。
「梨那紅の片方が、従者を守ったんだな」
「でも、あいつの気持ちはその反対だった。ひとり残されちゃうとね、半分欠けたみたいになるんだよ」
あたしは知ってる、とつぶやく獣の横顔に、虎太郎が尋ねた。
「それが埋められるってことも、知ってるんじゃないのか」
時間を置いてから菊火は訊いた。
「戻ってくると思う?」
「そんな気がする、多分」
ふたりが会話をかわす背後では、墨妖怪が文机に突っ伏して寝崩れていた。
朝までコウモリを見張る、と受けあっていた藍だが、熟睡具合からしてかなり早い段階で沈没したのだろうと察しがつく。
藍はそれから長いあいだぴくりともしなかったが、やがて机にもたれたまま器用に寝返りをうち始めたので、虎太郎たちは不安ながらそっとしておくことにした。
「まさかこのまま消えたりしないよな……?」
「ううん、なんてったって齢だからね」
しかし心配に反して、夕方になると藍はふわふわしながら廊下に現れた。
「おっ、よかった。大丈夫か」
表庭から急いであがってきた虎太郎に、寝ぼけまなこの妖怪は二言で答えた。
「虎。玉露」




