筆と心に添う手は幽幻 5
記憶の中で古い名前を呼ぶ人がいる。
手をふってわたしを招く、そのまわりに雪が降る。走り出したわたしは、景色を染める雪がたくさんの白い花びらであることに気づく。
あれは梨の花が咲き乱れる春の野。
淡く描かれた夢のような、美しい園。
穏やかな風とともにあの人の胸へ飛び込む。見上げた顔は優しく、いとおしい。
「お前を家に迎えたい。父の許しを得るまで待っていてくれ」
「約束してくださいますか」
「ああ、誓おう」
明るい微笑みは裏切りに変わり、優しかった手はわたしの首を折って木に吊るした。園のはずれにひそやかにしげった、薄紅の花をつける木に。
“これでよい、死者との誓いは果たせん”
最後にあの人の声を聞いた瞬間、わたしは幽玄の領域に咲き出でた。
心に過去が渦巻く時、いつも「やめて」と止めるものがいる。
薄くて弱い、泣いてばかりのもうひとりのわたし。
「悲しいことは嫌。忘れてしまいましょう」
いいえ、この魂に刻み覚えている。折り取られた一枝に眠り、海を越えて目覚めてもなお。
「わたしはあなたが怖い。宗月さまはどこ?」
そんなにも泣くのなら、むかえに行けばいい。
「待つと約束したもの」
呼ぶわ、この心を解き放つ強い力を。自由になってあの方とひとつになる。嘆くだけのわたしに邪魔はさせない。
「やめて、お願い……」
いいえ。
いいえ……!
新たな誓いをくれたいとしい方。あなたを手に入れたら苦しみが終わる。
わたしはあなただけを。
虎太郎は、目前に迫った赤い雷光をただ見つめている。
それは彼だけに向けられた、刺すように熱く凍える想いだった。俺はなにをしてやれる? そうだ、この身体に受けとめればいい……
両手を伸べようとした時。
虚空になにかがひらめき、光を裂いた。
天に昇った文字が月となり、領域を照らしだす。
晴れゆく夜の野に立っているのは一匹の鬼だった。雷を払った爪の手に、墨染めの袖が風をはらむ。流れ舞う黒髪が月光をはね返していた。
かたむけた顔に薄い瞳が光り、主の姿をとらえる。
強く射抜かれて青年は思い出した。本当にやるべきことを。
断たれた雷光が花びらとなってはじけた。それはまたたく間に天の雷雲におよび、草も野原も、領域そのものが散ってゆく。
まばゆい月の輝きがすべてをつつみ込んだ。
やわらかな光の世界で、彼女を見つけた。
「そこにいたんだね」
手を差し伸べると、彼女はゆっくりと歩み寄る。真綿を踏むような一歩一歩に白い裾がなびく。ふたりの姿は淡くおぼろげだったが、彼は片手に筆を握っているのを感じた。安堵が微笑みに変わる。
「さあ。もう一度、名を」
だが、細い手が筆をとめた。彼は驚いて彼女を見る。清らかな顔が静かに横にふられた。
「なぜだ。君を助けたい」
真摯な言葉に、相手は「それはあなたの魂を奪うことになります」と凛とした声を返した。
「わたしは、忌まわしい望みを約束に編み込みました。ふたたび名を受ける時にあなたを奪い、ひとつになろうと」
「きっと退けられる。私とともに還ろう」
「いいえ。あなたを愛し、偽った、そのどちらもわたしです。みにくい一部を捨てて自由になるなど、許されません。それにあなたは……」
表情がやわらぎ、笑みが浮かぶ。
「もう救ってくださいました。求めることしか知らなかった、哀れなわたしを」
触れた手の感触が軽くなり、姿が薄れる。彼は彼女を抱きしめようとしたが、やさしく香る風が腕をすり抜けるだけだった。
「待て、行かないでくれ……!」
光が強さを増した。まぶしさをこらえて天を見回す。その頬を、そよ風が愛おしさを込めてなでた。
「いとしい方。罪尽きる日にめぐりあえたなら、願いを持たぬただ一輪の花として……」
言葉が消え、ふわりと広がった風は光に溶けた。




