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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 八 】
48/50

筆と心に添う手は幽幻 5

 記憶の中で古い名前を呼ぶ人がいる。

 手をふってわたしを招く、そのまわりに雪が降る。走り出したわたしは、景色を染める雪がたくさんの白い花びらであることに気づく。


 あれは梨の花が咲き乱れる春の野。

 淡く描かれた夢のような、美しい園。

 穏やかな風とともにあの人の胸へ飛び込む。見上げた顔は優しく、いとおしい。

「お前を家に迎えたい。父の許しを得るまで待っていてくれ」

「約束してくださいますか」

「ああ、誓おう」


 明るい微笑みは裏切りに変わり、優しかった手はわたしの首を折って木に吊るした。園のはずれにひそやかにしげった、薄紅の花をつける木に。


 “これでよい、死者との誓いは果たせん”


 最後にあの人の声を聞いた瞬間、わたしは幽玄の領域に咲き出でた。



 心に過去が渦巻く時、いつも「やめて」と止めるものがいる。

 薄くて弱い、泣いてばかりのもうひとりのわたし。

「悲しいことは嫌。忘れてしまいましょう」


 いいえ、この魂に刻み覚えている。折り取られた一枝に眠り、海を越えて目覚めてもなお。


「わたしはあなたが怖い。宗月さまはどこ?」

 そんなにも泣くのなら、むかえに行けばいい。

「待つと約束したもの」

 呼ぶわ、この心を解き放つ強い力を。自由になってあの方とひとつになる。嘆くだけのわたしに邪魔はさせない。

「やめて、お願い……」


 いいえ。


 いいえ……!



 新たな誓いをくれたいとしい方。あなたを手に入れたら苦しみが終わる。

 わたしはあなただけを。




 虎太郎は、目前に迫った赤い雷光をただ見つめている。

 それは彼だけに向けられた、刺すように熱く凍える想いだった。俺はなにをしてやれる? そうだ、この身体に受けとめればいい……


 両手を伸べようとした時。

 虚空になにかがひらめき、光を裂いた。


 天に昇った文字が月となり、領域を照らしだす。

 晴れゆく夜の野に立っているのは一匹の鬼だった。雷を払った爪の手に、墨染めの袖が風をはらむ。流れ舞う黒髪が月光をはね返していた。

 かたむけた顔に薄い瞳が光り、主の姿をとらえる。

 強く射抜かれて青年は思い出した。本当にやるべきことを。

 断たれた雷光が花びらとなってはじけた。それはまたたく間に天の雷雲におよび、草も野原も、領域そのものが散ってゆく。

 まばゆい月の輝きがすべてをつつみ込んだ。




 やわらかな光の世界で、彼女を見つけた。

「そこにいたんだね」

 手を差し伸べると、彼女はゆっくりと歩み寄る。真綿を踏むような一歩一歩に白い裾がなびく。ふたりの姿は淡くおぼろげだったが、彼は片手に筆を握っているのを感じた。安堵が微笑みに変わる。

「さあ。もう一度、名を」


 だが、細い手が筆をとめた。彼は驚いて彼女を見る。清らかな顔が静かに横にふられた。

「なぜだ。君を助けたい」

 真摯しんしな言葉に、相手は「それはあなたの魂を奪うことになります」と凛とした声を返した。


「わたしは、忌まわしい望みを約束に編み込みました。ふたたび名を受ける時にあなたを奪い、ひとつになろうと」

「きっと退けられる。私とともに還ろう」

「いいえ。あなたを愛し、偽った、そのどちらもわたしです。みにくい一部を捨てて自由になるなど、許されません。それにあなたは……」

 表情がやわらぎ、笑みが浮かぶ。


「もう救ってくださいました。求めることしか知らなかった、哀れなわたしを」


 触れた手の感触が軽くなり、姿が薄れる。彼は彼女を抱きしめようとしたが、やさしく香る風が腕をすり抜けるだけだった。

「待て、行かないでくれ……!」

 光が強さを増した。まぶしさをこらえて天を見回す。その頬を、そよ風が愛おしさを込めてなでた。


「いとしい方。罪尽きる日にめぐりあえたなら、願いを持たぬただ一輪の花として……」

 言葉が消え、ふわりと広がった風は光に溶けた。

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