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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 八 】
47/50

筆と心に添う手は幽幻 4

 藍の風が虎太郎をつつんだのを確かめ、菊火は幻の翼に火花をぶち当てた。空中に咲かせた火を跳びわたり、より高みを舞う影へ必死に呼びかける。

「シァンフェイ、聞いて! このままだと梨那紅はとんでもないものになっちゃうよ」

 どっと火柱をたてて幻影をかき消す。

 うす暗い野に着地すると、半人姿のシァンフェイも舞いおりて長剣をつき出した。荒い風に装束がはためき、その感覚は彼の記憶を呼び覚ました。


 故国で起きた、信仰をめぐる争い。精霊たちは身を削って戦ったが、勝者も敗者も長い時の流れに消えてしまい、思い返す者も絶えた。

 赤い領域に救われた彼はたったひとりその虚しさを知り、やがてみずからに誓う。


 これが摂理であるのなら。

 大いなるものでさえ儚いというなら、私は小さく深い願いをこの手で叶えたい。

「梨那紅さまが宗月の魂を求めるなら、私は従者としてそれを叶えるのみです」



 雷鳴にまぎれた声はとても遠かった。

「それはちがう、あんたは止めなきゃ。虎太郎を取り殺したってあの娘は戻れない。もっともっと欲しがるだけだ」

 菊火は必死に呼びかけ、剣を避ける。しかし白い火を薙ぎ払った青年がつぶやいた。

「悲しみは長かった。もう待たせたくはない」

 これは独りごとだ、まるであたしを見ていない。ひらめく切っ先をかわしながら菊火の胸は詰まる。

「それじゃあ、あんたはどうなるの」

「私?」


「主の心を求めてる」


 獣の声は震えていた。

 シァンフェイが翼を前に羽ばたかせ、一瞬を宙にとどまる。風が銀の髪を舞い上げると、ひそめられた眉が痛みを示していた。

 だがその時、天に根を張った木が目を覚ました。

 雷雲の間で不気味な枝がざわっと広がり、赤い霧がにじみ出す。合図を受けた青年はすばやくふり返った。凛々しい横顔にかすかな思いが走ったのを、菊火は確かに見た。


「……この身を力に」

 大きく翼を広げ、舞いあがる。

「だめっ、待って!」

 菊火は跳びあがって前脚を伸ばしたが、小さな爪は宙をかいた。

 半人の精霊は血のような雲に飛び込み姿を消す。それと同時に、細い稲妻が地をめがけて放射され、白い獣は本能で身体を返した。




 虎太郎のまわりで墨の風が鳴る。

「虎、境界を張れ。菊火を戻さねば」

「わかった、頼む!」

と書いた線を一時の守りに変え、流れ駆ける藍を見送る。

 彼は、折れた木の前に急いでかがみ込んだ。梨那紅の心はここに残っているはずだ、どうして字がつかめないんだろう。

 気持ちをしずめ、右手を眺める。屋敷から持ってきた筆にいつもの影筆が重なっていた。術は使えるはずなのに、なにかが邪魔している……?

 視線が手首におり、数珠の上でとまった。


 虎眼石。

 祖父の知人から贈られた大事な守護。左手でつつみ込んでみると、彼につながる人々の心がそこに息づいていた。遠い父母の思いさえも。

 しかし彼は悟った。

「これだ」

と、虎太郎は力をこめて数珠をはずす。小さな石のつらなりを静かに地面へ置いた。


 守られていては、見えないものがあるんだ。

 手を幹にふれ、心を添わせる。枝葉が風に揺れたように雷雲の一端がゆるんだ。


「……好機!」

 藍は身のすべてを涼風に変え、崩れた牙城に滑り込んでゆく。

 窪地に横たわっていた菊火が「馬鹿、消えちゃうじゃない」と弱々しくつぶやいた。しかし力は残っておらず、首をあげるのでせいいっぱいだ。

 藍もまた終わりが近いのを感じていた。宗月を失った時と似ている、しかし意志だけは最後の最後まで手放すまい。

 妖の心は澄みわたり、どこにも曇りはなかった。




 虎太郎がふたたび立ちあがると、彼には新しい目が開いていた。

 あたりは深淵の闇につつまれ、すぐそこにあるはずの木すら見えない。風と雷の攻防も、荒れ狂う空もなにもない場所。

 その虚無へ向けて、彼は千年の思いを乗せ名前を呼んだ。

「梨那紅」


 いま遠い約束をはたそう。

 右の腕をすっと伸ばし、筆をかかげた。少女がみずからを変えてしまうほど求めたものを与えるために。

 応えは落雷となって現れる。

 空全体が赤く光り、闇に景色が生まれた。野の草の一本までくっきりと照ったまさにその瞬間、彼は書ききった。



 月帰紅



 闇にささげられた文字が輝きはじめる。同時に、鮮烈な赤い雷光が彼を目指して宙を駆けた。

 光は声を持っていた。

 求めつづけた相手に届くまでの一瞬、身を焦がす情念が言葉に変わった。


「わたしは、あなた、だけ、を」

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