筆と心に添う手は幽幻 3
襲いかかった霧と香りは、赤い川へ変わった。
虎太郎はごうごうとうねる真紅の水に足をすくわれ、流されて天地を見失う。胴にしがみついていた爪の感触がふっと薄れ、彼は慌てて身体を折り曲げた。
「菊火、つかまれ!」
必死に手を伸ばすが、ひときわ強烈な水流が腕を押しとどめる。白いテン妖が「あ」と口を開けた、と思うと、割り込んだ川がふたりを引きはがした。
筆だ、書術を!
もがけばもがくほど、波立った水が視界を隠す。飛沫をはらい目を開けようとした時、靴の裏が不安定な硬い物をとらえた。細かい石、河原だ。
ハッと見上げれば赤い流れは消え、彼は暗雲に閉ざされた空の下に立っていた。足もとの川には水が絶えていて、どこにもテン妖の姿はない。
「おおい、菊火!」
と声をあげながら草原をのぼっていく。首をめぐらせた虎太郎は、丘の上をみとめて目を見開いた。
平野にそびえる大きな木。しかし、もはや残骸だった。
幹の高い位置から鋭くななめに裂かれ、花をつけていた枝は地面に折れ重なっている。まるで雷に打たれたように。
それは、約束をはたせなかった宗月が見た景色に似ていた。
だが、木の手前に明らかに異質なものがある。赤い絹糸のような、光沢を持った巨大な繭だ。
「……あれは」
中の気配に気づき虎太郎は走り出した。近づくにつれて不快な鼓動が打つ。
ぼうっとかすんだ膜のむこうに、藍の姿があった。
糸に絡めとられ横たわり、目は静かに閉じている。安らかな表情はかえって虎太郎の心を凍らせた。
「藍、起きろ!」
叫びながら繭を破ろうとする。しかし繊細な糸は指からするする逃げ、つかめすらしない。焦った彼は筆をポケットにしまおうとしたが、慌てて握りなおし宙にかまえた。
十字に切るだけでいいんだ。きっと開く、助けてみせる。
虎太郎は両脚を踏みしめ、意識を右の手に込めた。
心臓が大きく鳴る。縦に引きおろす穂先は影も光も描かない。しかし彼は筆をとめず、繭の前に大きな十字を書ききった。
息をとめて見つめた次の瞬間、つつまれた内部から風が起こり、ちぎれた繭がいっせいに散った。藍の黒髪がふわっと広がり、浮きあがる。
「やった!」
と顔を輝かせた虎太郎だったが、すぐに表情を失った。
揺れながら舞い落ちる真紅の糸たち。その中心に藍は目を閉じて立っている。
身にまとう装束を、糸と同じ赤に染めながら。
虎太郎の血の気がいっせいに引く。
しかし彼は藍を信じた。糸を払って手を伸ばし、赤く変わった狩衣の肩をつかむ。いつかそうされたように思いっきり揺さぶった。
「藍、戻ってこい! 藍澄……!」
眠るような白い面が揺れる。最後の糸がそっと地についた時、妖はゆっくりとまぶたをあげた。
そこにあるのは深い青の瞳だった。
虎太郎の姿を目に映すと、狩衣の赤が霧になって散っていく。まばたきした妖は、
「シァンフェイとやらの術、まだまだだな」
と水色に戻った袖を眺めた。
虎太郎は「なんだ、元気そうじゃないか……」とへなへな崩れ落ちた。その頭を藍がぽんと叩く。
「藍を紅にするには千年かかる。そのうえ私は強情だよ、覚悟なら二度も決めた」
立ちあがった虎太郎は、ハッとなって筆をつき出した。
「俺の書、効いたぞ。繭が開いた」
嬉しそうな彼に妖が優しく微笑む。
「ちがう。呼ばれて起きて、私が開けた。虎、テン妖はどうした?」
菊火の川流れはまだ続いていた。
「いきゃあああーっ!」
と赤い水に押されながら、なんとか火の術をくり出そうとする。大きくうねる急流に目を回しかけた時、やっとかすかな火花をあげた……
と思った時、ふっと身が軽くなって景色が消えた。浮いた身体がしゅるると引き寄せられていく、不思議な力によって。菊火は思わずニヤッとした、この感覚は二回目だ!
「……虎太郎、やったね!」
その瞬間、ぱっと止まった身体の下に青白い火の玉が現れた。あの時と同じ書の術、“誘火油芯” が呼んだのだ。
しかし今回はやすやす焼かれない。宙で身をよじって、
「くらえ、油芯返しっ!」
と火花の尻尾を叩きつけると、青と白の火は騒々しく音をあげて打ち消しあった。燃えさしの余韻が降る中、菊火はふたりの前に着地した。
「菊火、よかった!」
虎太郎が笑顔でかがみ込む。「まあね」と尻尾をふったテン妖は、彼のうしろの墨妖怪に鼻先を向けた。
「で、無事だったわけだ。すっきりした顔してんじゃない」
「お前は少しやつれたな」
「だいたいあんたのせい、歳なのに無茶してさ! それより竹蔵は……」
白い首をめぐらせかけた彼女だが、急に空をあおいだ。
彼らが見上げた先、雷雲の中から数えきれないほどの翼が滑り出てきた。虎太郎が声をあげる。
「シァンフェイ!? 仲間を呼んだのか」
「あれも術、まやかしだよ。あたしが食いとめるから花の方をなんとかしな!」
勇ましく言いきった菊火が駆け出していく。高く跳びあがった場所に次々と火の花が咲き、滑空する大群を迎えうつ。
その背後に広がる天には、黒雲を葉とする巨大な木の姿が現れていた。
合間に赤い雷光が幾筋も走り、霧まじりの風が吹き降りてくる。
「梨那紅」
と、虎太郎がかすれた声でささやいた。となりに並んだ藍が空へ手を伸べる。
「あれは二重の亡花。お前と宗月のようにせめぎあっているが、両岸の隔たりはなお広い。己に翻弄され……」
妖が静かに顔をむける。
「お前の魂を欲している」
虎太郎は張りつめた面持ちでうなずいた。
「梨那紅は、俺をつかみかけた。十二年前にも」
「憎むか」
いつかと同じ問いは、彼の心にぐっと食い入った。
父と母の姿と、今は遠いあたたかさ。届かないという悲しみ、虚しさ、奪われた怒り。身体の真ん中から広がった激しい感情が顔をゆがめる。
藍は、そのさまを慈しみを込めて見守った。
やがて青年は大きく息をつき、まっすぐ顔をあげた。
「……自分が喪っても、俺は救いたい」
結ばれた口に迷いはない。妖は、人の瞳に映るわが身を見据えて言葉を返した。
「ならば私は、その望みに添う」




