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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 八 】
46/50

筆と心に添う手は幽幻 3

 襲いかかった霧と香りは、赤い川へ変わった。

 虎太郎はごうごうとうねる真紅の水に足をすくわれ、流されて天地を見失う。胴にしがみついていた爪の感触がふっと薄れ、彼は慌てて身体を折り曲げた。

「菊火、つかまれ!」

 必死に手を伸ばすが、ひときわ強烈な水流が腕を押しとどめる。白いテン妖が「あ」と口を開けた、と思うと、割り込んだ川がふたりを引きはがした。


 筆だ、書術を!

 もがけばもがくほど、波立った水が視界を隠す。飛沫をはらい目を開けようとした時、靴の裏が不安定な硬い物をとらえた。細かい石、河原だ。

 ハッと見上げれば赤い流れは消え、彼は暗雲に閉ざされた空の下に立っていた。足もとの川には水が絶えていて、どこにもテン妖の姿はない。

「おおい、菊火!」

と声をあげながら草原をのぼっていく。首をめぐらせた虎太郎は、丘の上をみとめて目を見開いた。


 平野にそびえる大きな木。しかし、もはや残骸だった。

 幹の高い位置から鋭くななめに裂かれ、花をつけていた枝は地面に折れ重なっている。まるで雷に打たれたように。

 それは、約束をはたせなかった宗月が見た景色に似ていた。



 だが、木の手前に明らかに異質なものがある。赤い絹糸のような、光沢を持った巨大な繭だ。

「……あれは」

 中の気配に気づき虎太郎は走り出した。近づくにつれて不快な鼓動が打つ。

 ぼうっとかすんだ膜のむこうに、藍の姿があった。

 糸に絡めとられ横たわり、目は静かに閉じている。安らかな表情はかえって虎太郎の心を凍らせた。


「藍、起きろ!」

 叫びながら繭を破ろうとする。しかし繊細な糸は指からするする逃げ、つかめすらしない。焦った彼は筆をポケットにしまおうとしたが、慌てて握りなおし宙にかまえた。

 十字に切るだけでいいんだ。きっと開く、助けてみせる。


 虎太郎は両脚を踏みしめ、意識を右の手に込めた。

 心臓が大きく鳴る。縦に引きおろす穂先は影も光も描かない。しかし彼は筆をとめず、繭の前に大きな十字を書ききった。

 息をとめて見つめた次の瞬間、つつまれた内部から風が起こり、ちぎれた繭がいっせいに散った。藍の黒髪がふわっと広がり、浮きあがる。

「やった!」

と顔を輝かせた虎太郎だったが、すぐに表情を失った。


 揺れながら舞い落ちる真紅の糸たち。その中心に藍は目を閉じて立っている。

 身にまとう装束を、糸と同じ赤に染めながら。



 虎太郎の血の気がいっせいに引く。

 しかし彼は藍を信じた。糸を払って手を伸ばし、赤く変わった狩衣の肩をつかむ。いつかそうされたように思いっきり揺さぶった。

「藍、戻ってこい! 藍澄……!」

 眠るような白い面が揺れる。最後の糸がそっと地についた時、妖はゆっくりとまぶたをあげた。


 そこにあるのは深い青の瞳だった。

 虎太郎の姿を目に映すと、狩衣の赤が霧になって散っていく。まばたきした妖は、

「シァンフェイとやらの術、まだまだだな」

と水色に戻った袖を眺めた。


 虎太郎は「なんだ、元気そうじゃないか……」とへなへな崩れ落ちた。その頭を藍がぽんと叩く。

「藍を紅にするには千年かかる。そのうえ私は強情だよ、覚悟なら二度も決めた」

 立ちあがった虎太郎は、ハッとなって筆をつき出した。

「俺の書、効いたぞ。繭が開いた」

 嬉しそうな彼に妖が優しく微笑む。


「ちがう。呼ばれて起きて、私が開けた。虎、テン妖はどうした?」




 菊火の川流れはまだ続いていた。

「いきゃあああーっ!」

と赤い水に押されながら、なんとか火の術をくり出そうとする。大きくうねる急流に目を回しかけた時、やっとかすかな火花をあげた……


 と思った時、ふっと身が軽くなって景色が消えた。浮いた身体がしゅるると引き寄せられていく、不思議な力によって。菊火は思わずニヤッとした、この感覚は二回目だ!

「……虎太郎、やったね!」

 その瞬間、ぱっと止まった身体の下に青白い火の玉が現れた。あの時と同じ書の術、“誘火油芯” が呼んだのだ。


 しかし今回はやすやす焼かれない。宙で身をよじって、

「くらえ、油芯返しっ!」

と火花の尻尾を叩きつけると、青と白の火は騒々しく音をあげて打ち消しあった。燃えさしの余韻が降る中、菊火はふたりの前に着地した。

「菊火、よかった!」

 虎太郎が笑顔でかがみ込む。「まあね」と尻尾をふったテン妖は、彼のうしろの墨妖怪に鼻先を向けた。

「で、無事だったわけだ。すっきりした顔してんじゃない」

「お前は少しやつれたな」

「だいたいあんたのせい、歳なのに無茶してさ! それより竹蔵は……」

 白い首をめぐらせかけた彼女だが、急に空をあおいだ。



 彼らが見上げた先、雷雲の中から数えきれないほどの翼が滑り出てきた。虎太郎が声をあげる。

「シァンフェイ!? 仲間を呼んだのか」

「あれも術、まやかしだよ。あたしが食いとめるから花の方をなんとかしな!」

 勇ましく言いきった菊火が駆け出していく。高く跳びあがった場所に次々と火の花が咲き、滑空する大群を迎えうつ。


 その背後に広がる天には、黒雲を葉とする巨大な木の姿が現れていた。

 合間に赤い雷光が幾筋も走り、霧まじりの風が吹き降りてくる。

「梨那紅」

と、虎太郎がかすれた声でささやいた。となりに並んだ藍が空へ手を伸べる。

「あれは二重ふたえの亡花。お前と宗月のようにせめぎあっているが、両岸の隔たりはなお広い。己に翻弄され……」

 妖が静かに顔をむける。


「お前の魂を欲している」



 虎太郎は張りつめた面持ちでうなずいた。

「梨那紅は、俺をつかみかけた。十二年前にも」

「憎むか」

 いつかと同じ問いは、彼の心にぐっと食い入った。

 父と母の姿と、今は遠いあたたかさ。届かないという悲しみ、虚しさ、奪われた怒り。身体の真ん中から広がった激しい感情が顔をゆがめる。

 藍は、そのさまを慈しみを込めて見守った。

 やがて青年は大きく息をつき、まっすぐ顔をあげた。


「……自分がうしなっても、俺は救いたい」

 結ばれた口に迷いはない。妖は、人の瞳に映るわが身を見据えて言葉を返した。


「ならば私は、その望みに添う」

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