筆と心に添う手は幽幻 2
「おや先生、どうされました?」
すっかり顔なじみになった患者仲間から声をかけられ、月若玄徳は「少し、外が気になりまして」と言葉をにごした。
まだぎこちなく松葉杖をつき、ロビーに急ぐ。二つ並んだ電話機の奥、壁にもたれるようにしてカードを差し込んだ。
彼は電話自体をあまり好まない。しかし今朝からどうも胸騒ぎがして、われながら軟弱なことだと呆れたが、孫の声を聞かずにはいられなかった。
受話器を耳にあてながらあちこちに視線を移す。かたわらの窓の外がずんと暗くなっていて、雨雲が迫っていると知れた。
あれは、屋敷の方向だ。
彼は落ちつかない気持ちで考えた。耳もとでは無機質な呼び出し音が空転しつづけている。
その先につながる虎太郎のスマホは、慌てふためいたテン妖によって封印されていた。
手ぬぐいでぐるぐる巻きにした上で菓子鉢にほうり込み、ふたをしてある。今はこの世からの刺激を避け、もうひとつの世界に心を向けなければいけない。
彼女は座敷に座る青年をうかがう。彼は春瑠の電話があってから筆さえ置いてしまい、ぼんやりとこちらを見る以外に反応を示さない。
やきもきしているところにゴゴゴと不穏な音が響いた。
……来た!
「ここは防戦かっ」
と、忙しく裏庭へ飛びおりる。
重く湿った空気をかきわけて走り、熱の花を張る。押し込めようとした強い焦りが、彼女の心に古い時代と終わりの日々をつれてきた。
「抜けよう」
という自分の声がよみがえる。冷静さをよそおって、張りつめていた。
呼びかけた相手は炉辺の対面に腰を下ろしている。いつか木の洞をのぞいてきた男の子で、すっかりたくましい青年になっていた。
そして、陣がわかれたのはもう一人の子、彼の親友だった。
この地の忍びは雇われの身。契約は複雑な図を描き、時に旧知の者でさえ敵になる。成長した子供たちが置かれたのは、まさにそんな状況だった。
殺しあうなんてばかげてる、危険な仕事だけじゃなく忍びの掟から逃げよう。テン妖はそう話した。
たが相手は、火に照らされた顔をふる。
「菊火、俺たちには誇りがある。一緒に鍛錬をつんだお前ならわかってくれるだろう」
「…………」
「あいつのことはなんとかする。妹は里に残す、あとを頼む」
菊火は相手方へ走ったが、彼もまた「この場かぎりだ、大ごとにはならない」となじみの妖怪を安心させた。
しかし小競り合いはまたたくまに広がった。菊火が気づいた時には、もうどちらかの陣が滅ぶしか道はなかった。言いつけを守っていた妹は、土壇場になって兄の後を追った。
あいつらは死ぬのを知っていた、と菊火は苦い思いを噛む。どいつもこいつもとんだ大馬鹿大うそつき、だから人間は嫌い……
ふと、心に寒風が吹いた。
その人間のひとりのために、どうしていま必死になっているんだろう。
青の間に跳び戻ると、虎太郎は文机の横でぼうっとしていた。
「虎太郎、陸海空から離れないでよ」
と駆け出した菊火だが、散らばっていた紙をふんづけて宙を泳ぐ。「あわっ!」と長い身体をひねって、床にぶつかる寸前で顔をとめた。
「ちょっとあんた、気がすんだなら片づけ……!」
威勢よくとばした文句が切れる。
目を開けた先に、
“残火”
の二文字が彼女を見つめていた。強く崩れた、揺れる炎のような悲しい形で。菊火はハッと眼を開く。
この道士、お節介を。
にらみつけようとしたが、橙色の瞳は字に引き寄せられていく。守護の硯で磨られた黒はどこまで清らかにテン妖の心へうつった。
鏡みたいだ、と彼女は思う。残り火、これはあたしの字。
一番の馬鹿は人間じゃない。このあたしだ。右往左往して取り残された、あんな思いはもう二度としたくない。
だからどうする?
あたしは燃やす。
白のテン妖は、くわっと牙をむいて甲高く叫んだ。
「虎太郎、筆くらい持ちなァッ!」
勢いのあまり口から火を噴き、熱気が虎太郎にかかる。
反射的に身を引いた彼の瞳がハッとなったのがわかり、菊火は「あんた橋渡しでしょ、橋かけた途中でとまってどうすんのさ」とたたみかけた。
「藍と竹蔵と、それからもうひとり。助けられんのはあんただけ、他の誰でもないんだ。こっから始まる、こっちが始めるんだよ!」
短く息を吸う音が座敷に響いた。
「俺は……」
と、まばたきした虎太郎がテン妖を見据える。戻ってきた彼は、戸惑っていた。
「菊火。俺は、俺で大丈夫か」
その時、裏庭の空が鋭く光ってふたりを照らした。すぐに雷鳴が後を追う。
菊火は「白黒ついてりゃ充分」と硯に置かれていた筆をとり、彼の手に押しつける。
「あんたの祖父さんの手持ちから、宗月が選んで、あんたが使う。役に立たなけりゃ月若の家もおしまいだね」
憎まれ口を叩いてやると、筆を見つめていた虎太郎は「……いや、終わらせない」と少しだけ笑みを走らせた。表情がきゅっと引き締まる。
「行こう」
二人が庭に下りるのを待ちかまえていたように、大粒の雨がばらばらと降りはじめる。うなり出す風を身に受け、虎太郎はしっかりと筆を握った。
口を結んで空を見上げる。四肢を踏みしめて菊火がそばにつく。
彼は高く右手を突き上げた。
「梨那紅! 俺はここだ!」
はるか頭上で暗い雲が割れ、なにかが光る。赤い雷光だ、と彼が思った瞬間、時をとめた花の香りが彼らを飲み込んだ。
「ごめんください! 虎太郎くん、菊火ちゃん。藍之介さん…… 誰かいないの!」
息を切らした春瑠は何度も呼び鈴を押す。
しかし応答はなく、彼女は石組みの門柱の前でこわばった顔をあげた。
屋敷には少しの活気もなく、すべてが停止している。夏に写真を撮りにきた時とはまったく別の、異質な場所と化していた。
冷たい汗が頬を流れ落ちる。
そこへ、ぽつりと雨の粒がまざる。空をふり仰ぐと、すっかり広がった黒雲が低い音を立てていた。カッと雷光が走り、彼女は急いで勝手口へまわる。そのあいだにも雨脚は強まっていく。
夢中で木戸を押し開けると、庭の中心に青年が立っていた。片手を天にあげ、凛々しい横顔がその先を見つめる。春瑠は呼びとめようとした。
しかし、名前を見失う。
あれは誰だろう、という迷いにとどめられたその時、彼の姿は急に現れた赤い霧につつまれ、目の前から消えてしまった。
「待って……!」
からっぽの庭に手を伸ばしながらも春瑠は理解した。もし声が届いていたとしても、彼は行ってしまっただろう。
呆然と立ちすくむ彼女へ、重たい雨が矢のように降りそそぎはじめる。黒雲と雷鳴が町をおおっていった。




