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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 八 】
45/50

筆と心に添う手は幽幻 2

「おや先生、どうされました?」

 すっかり顔なじみになった患者仲間から声をかけられ、月若玄徳は「少し、外が気になりまして」と言葉をにごした。

 まだぎこちなく松葉杖をつき、ロビーに急ぐ。二つ並んだ電話機の奥、壁にもたれるようにしてカードを差し込んだ。

 彼は電話自体をあまり好まない。しかし今朝からどうも胸騒ぎがして、われながら軟弱なことだと呆れたが、孫の声を聞かずにはいられなかった。

 受話器を耳にあてながらあちこちに視線を移す。かたわらの窓の外がずんと暗くなっていて、雨雲が迫っていると知れた。


 あれは、屋敷の方向だ。

 彼は落ちつかない気持ちで考えた。耳もとでは無機質な呼び出し音が空転しつづけている。




 その先につながる虎太郎のスマホは、慌てふためいたテン妖によって封印されていた。

 手ぬぐいでぐるぐる巻きにした上で菓子鉢にほうり込み、ふたをしてある。今はこの世からの刺激を避け、もうひとつの世界に心を向けなければいけない。

 彼女は座敷に座る青年をうかがう。彼は春瑠の電話があってから筆さえ置いてしまい、ぼんやりとこちらを見る以外に反応を示さない。

 やきもきしているところにゴゴゴと不穏な音が響いた。

 ……来た!

「ここは防戦かっ」

と、忙しく裏庭へ飛びおりる。

 重く湿った空気をかきわけて走り、熱の花を張る。押し込めようとした強い焦りが、彼女の心に古い時代と終わりの日々をつれてきた。



「抜けよう」

という自分の声がよみがえる。冷静さをよそおって、張りつめていた。

 呼びかけた相手は炉辺ろばたの対面に腰を下ろしている。いつか木の洞をのぞいてきた男の子で、すっかりたくましい青年になっていた。

 そして、陣がわかれたのはもう一人の子、彼の親友だった。

 この地の忍びは雇われの身。契約は複雑な図を描き、時に旧知の者でさえ敵になる。成長した子供たちが置かれたのは、まさにそんな状況だった。


 殺しあうなんてばかげてる、危険な仕事だけじゃなく忍びの掟から逃げよう。テン妖はそう話した。


 たが相手は、火に照らされた顔をふる。

「菊火、俺たちには誇りがある。一緒に鍛錬をつんだお前ならわかってくれるだろう」

「…………」

「あいつのことはなんとかする。妹は里に残す、あとを頼む」

 菊火は相手方へ走ったが、彼もまた「この場かぎりだ、大ごとにはならない」となじみの妖怪を安心させた。

 しかし小競り合いはまたたくまに広がった。菊火が気づいた時には、もうどちらかの陣が滅ぶしか道はなかった。言いつけを守っていた妹は、土壇場になって兄の後を追った。


 あいつらは死ぬのを知っていた、と菊火は苦い思いを噛む。どいつもこいつもとんだ大馬鹿大うそつき、だから人間は嫌い……


 ふと、心に寒風が吹いた。

 その人間のひとりのために、どうしていま必死になっているんだろう。




 青の間に跳び戻ると、虎太郎は文机の横でぼうっとしていた。

「虎太郎、陸海空から離れないでよ」

と駆け出した菊火だが、散らばっていた紙をふんづけて宙を泳ぐ。「あわっ!」と長い身体をひねって、床にぶつかる寸前で顔をとめた。

「ちょっとあんた、気がすんだなら片づけ……!」

 威勢よくとばした文句が切れる。


 目を開けた先に、

 “残火”

 の二文字が彼女を見つめていた。強く崩れた、揺れる炎のような悲しい形で。菊火はハッと眼を開く。


 この道士、お節介を。

 にらみつけようとしたが、橙色の瞳は字に引き寄せられていく。守護の硯でられた黒はどこまで清らかにテン妖の心へうつった。

 鏡みたいだ、と彼女は思う。残り火、これはあたしの字。

 一番の馬鹿は人間じゃない。このあたしだ。右往左往して取り残された、あんな思いはもう二度としたくない。


 だからどうする?


 あたしは燃やす。



 白のテン妖は、くわっと牙をむいて甲高く叫んだ。

「虎太郎、筆くらい持ちなァッ!」

 勢いのあまり口から火を噴き、熱気が虎太郎にかかる。

 反射的に身を引いた彼の瞳がハッとなったのがわかり、菊火は「あんた橋渡しでしょ、橋かけた途中でとまってどうすんのさ」とたたみかけた。

「藍と竹蔵と、それからもうひとり。助けられんのはあんただけ、他の誰でもないんだ。こっから始まる、こっちが始めるんだよ!」


 短く息を吸う音が座敷に響いた。

「俺は……」

と、まばたきした虎太郎がテン妖を見据える。戻ってきた彼は、戸惑っていた。

「菊火。俺は、俺で大丈夫か」


 その時、裏庭の空が鋭く光ってふたりを照らした。すぐに雷鳴が後を追う。

 菊火は「白黒ついてりゃ充分」と硯に置かれていた筆をとり、彼の手に押しつける。

「あんたの祖父さんの手持ちから、宗月が選んで、あんたが使う。役に立たなけりゃ月若の家もおしまいだね」

 憎まれ口を叩いてやると、筆を見つめていた虎太郎は「……いや、終わらせない」と少しだけ笑みを走らせた。表情がきゅっと引き締まる。


「行こう」


 二人が庭に下りるのを待ちかまえていたように、大粒の雨がばらばらと降りはじめる。うなり出す風を身に受け、虎太郎はしっかりと筆を握った。

 口を結んで空を見上げる。四肢を踏みしめて菊火がそばにつく。

 彼は高く右手を突き上げた。

「梨那紅! 俺はここだ!」

 はるか頭上で暗い雲が割れ、なにかが光る。赤い雷光だ、と彼が思った瞬間、時をとめた花の香りが彼らを飲み込んだ。





「ごめんください! 虎太郎くん、菊火ちゃん。藍之介さん…… 誰かいないの!」

 息を切らした春瑠は何度も呼び鈴を押す。

 しかし応答はなく、彼女は石組みの門柱の前でこわばった顔をあげた。

 屋敷には少しの活気もなく、すべてが停止している。夏に写真を撮りにきた時とはまったく別の、異質な場所と化していた。


 冷たい汗が頬を流れ落ちる。

 そこへ、ぽつりと雨の粒がまざる。空をふり仰ぐと、すっかり広がった黒雲が低い音を立てていた。カッと雷光が走り、彼女は急いで勝手口へまわる。そのあいだにも雨脚は強まっていく。

 夢中で木戸を押し開けると、庭の中心に青年が立っていた。片手を天にあげ、凛々しい横顔がその先を見つめる。春瑠は呼びとめようとした。


 しかし、名前を見失う。


 あれは誰だろう、という迷いにとどめられたその時、彼の姿は急に現れた赤い霧につつまれ、目の前から消えてしまった。

「待って……!」

 からっぽの庭に手を伸ばしながらも春瑠は理解した。もし声が届いていたとしても、彼は行ってしまっただろう。

 呆然と立ちすくむ彼女へ、重たい雨が矢のように降りそそぎはじめる。黒雲と雷鳴が町をおおっていった。

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