筆と心に添う手は幽幻 1
眠りの場所は暗く穏やかだった。
森の片隅の心地いい洞、これはクヌギだったか椎だったか。耳にするのは遠い鳥のさえずり、葉ずれ、虫の羽音。これだけの高さなら誰にも邪魔されないだろう……
満足に思っていっそう身体を丸めた時、ひょいとのぞき込んできた顔が静寂をやぶった。
「へえ、こいつが白テンかあ! よく寝てるな」
と目を丸くした男の子、その横からもう一人。
「気をつけろ、これでも妖怪だぞ」
「師匠には?」
「秘密。おい、もっと枝を空けろよ」
「兄ちゃん、私にもなでさせて」
小さな女の子まで加わり、木の上の子供たちはいっそう盛りあがる。
本当にいい毛並みだな、少しわけてくれよ高く売れる、いや三人揃いの筆にしよう……
「いいかげんにしな、あんたらにやる毛はないよ!」
ハッと顔をあげると、そこは月若邸の屋根の上だった。
いけないいけない、と菊火は東を見とおす。何重にもなった雲はどんどん質量を増し、空の先は暗くなりはじめていた。天気はじきに崩れるだろう。
雨どいを駆け下り、青の間をのぞく。
いつも藍が座っていた場所に、虎太郎がいる。文机には書道具を広げ、すりたての墨が青く香る。
彼は筆をとっていた。
「虎太郎……」
と声をかけても反応はない。菊火はすばやく座敷にあがり、一心に筆を進める彼のまん前に座って呼びなおした。
「宗月っ!」
虎太郎は、最後のひと払いをていねいに書き上げてゆっくり顔をあげた。
威勢のいい眉毛も大きな目も間違いなく彼のものだが、表情には今までにない穏やかさがはっきりと見える。菊火はついつい「なんなのその顔、やりづらいったら」と毒づいた。
梨那紅の裏切りから一夜が明け、状況は悪くなるばかりだ。
昨晩の彼は確かに虎太郎だったのだ。藍と竹蔵の消失を知り、かえってしゃっきりしたようにこう言った。
「助けに行かないと。菊火、力を貸してくれ」
「こうなっちゃそうする他ないね。まずはしっかり休みな、あたしが見張っとく」
と彼女も受けあったのだが、今朝起きてきた彼はとても中途半端な状態におちいっていた。
もし藍がいたなら、
「おそらくは、昨夜の衝撃で魂が揺れているのだ」
とでも言っただろう、つんと澄ました調子で。
あいつは一等かわいげがないが、いないとなると心細い。ひ弱なくせに無茶をした竹蔵も一体どうなってしまったのか、菊火はじりじりしながら文机をのぞく。
梳いた紙には、
薄、白、未、生……
と崩した文字が連なっている。
やわらかく、それでいて芯のある草書体。書にうといテン妖さえ感心させる出来だが、字の意味はまったくぱっとしない。菊火は伸びあがって机を叩いた。
「ねえ、あんたそれやってる場合? 術のひとつでも書いてよ、道士さまならカチコミかける方法知ってんでしょ」
返事のかわりに向けられる穏やかなまなざし、しかし芯のところがぽっかり空いているようだ。
菊火は「もう、ぽんこつ道士!」と言いおいて屋根に戻っていく。空はますます不穏な色に変わっていて、テンの眉間に思わずしわが寄った。
あの花の霊と雷がかかわっているということは、昨夜のうちに聞いている。あちらも早々に仕掛けるつもりなのだろう。
孤軍には慣れている菊火だが、肝心の虎太郎があれではまずい。宗月として目覚めるならさっさと目覚めてもらわないと、もしもどっちつかずの状態で攻め込まれたら……
おしまい。
と、春瑠はレポートの末尾に日づけを書き入れて息をついた。
重ねた資料をかかえて席をたつ。後期の始まりを目前にして、大学図書館は静かににぎわっていた。難しい顔で本を積みあげ、熱心にノートをのぞき込んで……
それぞれが目的を持って動き、迷いでさえはっきりしている。それは、春瑠がこうあってほしいと望んでいるはずの、ちゃんとした世界だ。
しかし今日は、なぜか取り残されたような気分がした。
建物を出ながら時刻を見る。バイトまでまだ間がある、と思った時にふと虎太郎が浮かんだのは、その不思議な寂しさのせいだったかもしれない。
ちょっとだけ話せたらいい、元気かどうかわかれば。
目についたベンチに腰かけ、スマホを取り出す。コール音は長くつづき、どこか安心まじりに電話を切ろうとした時だった。
プツッ、というノイズが耳をくすぐり、彼女は「と、虎太郎くん。沖野です!」と慌てて端末を握りなおした。
「身体、大丈夫? どうしてるかなって思って……」
焦りと一緒に、余計なことをしてしまったという気が湧いて、言葉が気弱に消える。どちらも押し黙った少しの空白の後、春瑠に答えが届いた。
「君は……?」
くもりガラスのむこうからそっとうかがうような、なにかに隔てられた声。
冷水をあびたように背筋が立った。似てるけどちがう、これは虎太郎くんじゃない。私が今つながっているのは誰?
息が詰まって話し出せずにいると、相手方は焦り声の女の子にかわった。
「ハル聞こえるっ? あたし!」
「き、菊火ちゃん。虎太郎くんは……」
春瑠は唇を震わせながら尋ねた。しかし、
「今まずいんだ、またあとで!」
と止める間もなく通話が切れる。
呆然とした春瑠は、見えない扉が閉じられたのを感じていた。
大きな翼が青空に銀の筋をひく。
草のしげる丘に敵の姿はなく、永遠の春景色はうららかに輝いている。シァンフェイは翼を持つ青年の姿で野に降り立った。
「梨那紅さま。どちらにいらっしゃいますか」
すらりとした褐色の首をめぐらせると、一段低くなった川べりに小さな後ろ姿がある。せせらぎの前にしゃがみ込んだ彼女は、両手で顔をおおっていた。
シァンフェイが静かに歩み寄る。梨那紅は流れる涙もあらわにふり向いた。問われる前に口を開く。
「……わたしはだめ。隠せないの、もう会えない」
頬にほつれた髪が、泣き顔に清らかな艶を与えている。青年は生真面目な表情を崩さずに応じた。
「心配いりません。こちらへお呼びしますよ」
「でも……」
「戻りましょう」
彼が差し伸べた手に、主は華奢な手を重ねた。
歩幅をあわせ、ゆっくりと丘をのぼっていく。従者の腰にさげた剣が鳴ると、梨那紅は眉をひそめて彼を見上げた。
「戦いがあるの?」
「いいえ。しかし何があっても私が守ります。あなたに救われたこの身をもって、必ず」
彼の頭に過去がよぎる。傷つき故国を離れ、絶望の中あてもなく飛びつづけた。力尽きる寸前に受けとめてくれたのは、甘く香る風だった。
“敗れたもの、おいでなさい。この翼をわたしのために”
彼は応え、真紅の領域に迎えられた。しかし今、目の前の少女はぼんやりと首をかしげる。
「いつも助けてくれるのは、あなたの方よ」
「ええ、そうでしたね」
少しのあいだ優しく笑った目は、先に向けられたとたんに鋭くなった。大きな木が見下ろす場所に、真紅の絹糸で織られた繭が息づいている。
梨那紅がつないだ手を引いた。
「シァンフェイ、あれは」
「捕らえたものです。じきに染まるでしょう」
青年は表情の消えた目で繭を見透かす。視線の先では、眠る妖が赤い夢に食われていくところだった。




