暗夜、紅に藍 6
屋敷の中は異様な静けさにつつまれていた。
外の戦いなど存在しないかのように白々とした空気がただよう。居間から漏れる明かりが、廊下の板敷きをにぶく光らせている。
その途中に立っているのは、竹蔵だった。
彼は闇に沈む青の間にむかって目を見開いている。半分透けた身体が細かく震えていた。
裏庭には、おぼろげにたたずむ梨那紅の姿があった。
白く淡く、溶けかかっている。竹蔵をまっすぐ射抜く瞳だけが黒々としていた。
すっと両手があがり、文机の方へ差し伸べられる。
ハッとなった竹蔵が座敷に飛び込み、棚の上の硯…… 守護の力の源、陸海空の前に立ちはだかる。
彼は怯えきっていたが、ごくりと唾を飲んで「お、おいらは……」と声を絞り出した。
「おいらは臆病者だ。だからわかってた、あんたがおっかねえものだって」
説明のつけられない恐怖心は、夜ごとの訪問が重なるたび強まっていた。かといって、梨那紅を治めてやろうとする虎太郎に水をさしたくない。
そこで竹蔵は考えた。ひとつ旅立ちの小芝居を打とう、取り越し苦労と片がついたら、向かうべき方へ進みゃいい。
「そしたらほら見ろドンピシャだい。こいつは大事な硯さまだ、お前には渡さねえ!」
竹蔵が啖呵をきると、梨那紅の頭ががくっと折れた。ばきばきっという濁った音が聞こえた気がして、竹蔵はビクリと肩をちぢめた。
いくらなんでも様子が違う。まるで操られてるみたいだ、この前のおいらみたいに。
梨那紅の姿がふと薄くなった、と思った時にはもう縁側の上に立っている。両手をつき出した不気味な姿勢、首は不安定にぐらぐらと揺れる。竹蔵は相手にむかってせいいっぱい腕を広げた。
溶けた少女の影がもう一度薄れていく。彼は思わず目をつむる。
ばぎっ、
と不快な骨の音がして、目を開くとそこに顔があった。
赤い霧の刃が藍を襲った。
藍は半身を影に、残りを風にして疾走する。幾度も押し戻されながら、相手の枝を揺らすまで距離をちぢめ、あとひと息で本体に届くところまできていた。
幹に目をやれば、守るべき青年が力なく寄りかかり眠っている。その姿を確かめた瞬間、藍の頭に二つの名が並んだ。
虎太郎と宗月。宗月と、虎太郎。
一筋の光がさした。
「……そういうからくりか」
同じ、あるいは似たことが起きているのだ。
二人でひとりの梨那紅がいる。それに気づけなかったのは、危険の核たる片割れがずっと領域にひそみ、力を育んでいたからだ。
藍は赤い花を抱く木にむけて叫んだ。
「姿をあらわせ。お前の本質を見せよ!」
それに応え、重々しい黒雲に凶暴な雷光がとどろいた。
シュッと擦るような音が響くと同時に、月若邸の内外がはじけて空間が揺れた。
「ひゃっ!?」
と、追いつめられていた菊火が屋根から滑ってぶらさがる。しかし必死に顔をあげた時、シァンフェイはすでに飛び去っていた。
あたりは静まり返り、乾ききらなかった雨の名残りが草木からしたたっている。菊火は、庭に倒れている人影を見つけて矢のように駆け寄った。
「虎太郎!」
彼は横向きにうずくまっていた。全身から力が抜けているのがわかる。テンの顔が青ざめたが、ふれた頬にぬくもりを感じると急いで叩き起こした。
「しっかりしな、寝てる場合じゃないよ!」
前脚と尻尾の洗礼を受けた虎太郎は、やがて「う、菊火……?」と声をもらして顔をしかめ、目をしばたかせた。
菊火はホッとなって彼をのぞき込む。
「正解花丸、ケガはないね? 藍のヤツはどうしたのさ」
「藍……」
身体を起こした彼は、額をぬぐって呆然とした。ごめんなさい、と言った後の梨那紅の声が耳に張りついている。
“わたしはあなただけを求めてしまう”
虎太郎は急に立ちあがろうとした。よろけた彼を菊火がささえる。
「あんた赤い霧にまかれて消えたんだよ。覚えてる?」
「ああ、あの木の丘につれていかれて……」
赤い夢、雷鳴。
意識が溺れかけた時、涼やかな風がすくいあげてくれた。
息を飲んで庭を見回すが、気配はどこにもない。こわばった顔を見合わせたふたりは、物も言わず屋敷へ走る。廊下を飛び越えて青の座敷に駆け込んだ。
しかしうす暗い部屋には誰の姿もない。一歩踏み入れたとたん、虎太郎が鋭く顔をあげた。
棚にそって置かれていた硯が、大きくずれている。
そこで起きた静かなせめぎあいを、虎太郎は身に刻まれるようにして感じとった。
「竹蔵」
彼はたったひとりで陸海空を守りきり、そして。
「……消えちゃったの?」
菊火が呆然としてつぶやいた。
彼らは裏庭を前にして動けずにいた。虫も鳥も、風さえも鳴かない暗い夜が広がっていた。
(第七話 了 )




