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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 七 】
42/50

暗夜、紅に藍 5

 笛の音がやんだ瞬間、藍は不穏な気配を感じて影に変わった。


 涼風とともに吹きおりた時、虎太郎は庭の中心で梨那紅と向かい合っていた。どちらも身動きひとつせずに。

 屋根を駆ける軽い足音がする。火花を散らして降ってきたテン妖へ、藍が叫んだ。

「屋敷を頼む!」

「あんた平気なの、弱ってんでしょ!」

 鋭く尋ねられた藍はふっと風の足をとめ、落ちついて告げた。

「私が消えたら、虎太郎と月若の家をまかせたい」


 たゆたう墨影をにらんだ白い獣は、「書なんてまっぴら」と吐き捨てて駆け戻っていった。

 濃く甘い香りがあたりに広がる。虎太郎と梨那紅を真紅の霧がつつみ、急速に姿が薄れていく。二人が消えてしまうその刹那、藍の風は剣のような強さで霧の中へ滑りこんだ。



 相手のふところに飛び込むと同時に、みずからの領域に身を沈める。

 清涼な水の満ちる場所、その彼方の暗い一角に紅の侵食を見た。袖をひるがえし一直線にむかってゆく。

 伸ばした手が色に届く、と思ったその時、藍はすでに領域のまじわる虚空の帯に踏み入っていた。目の前には見たことのない夜の野原が広がっていて、赤い霧をまとった一本の木が場を支配している。

 その根元に、虎太郎がもたれかかるようにして座っていた。目は硬く閉じられている。

 藍は、ふわりと野原に降り立った。丘の頂点を見据えて声を通す。


「亡花の霊よ。私の主を返してもらおう」



 カリンの木がざわざわと鳴った。香る風が領域じゅうをめぐり、藍の長い髪をもてあそび舞いあげ、やがて言葉を響かせた。

「ええ返しましょう、墨影の妖。わたしの願いを成就させた後に」

 梨那紅の声ではあったが、挑むような口調は強さと妖しさを帯びている。藍は、高くしげった枝葉のむこうに暗雲が立ち込めているのをみとめ、青の目をせばめた。


 雷。

 あの日、宗月に襲いかかったのは都の怨霊だけではなかった。彼が霊を治めた隙をねらい、最後に命をつらぬいて……

 しかし、もっとも欲した魂をつかみ損ねた。


「それが狙いか」

 藍の髪がふたたび舞いあがった、今度はみずからの風によって。丘の上をにらみつけ、影となった妖はすばやく動き出した。

 あざけるような笑い声がそれを迎える。

「とめると言うの? わたしの領域に天の月などありませんよ!」

 藍は皮肉に笑った。どのみち、鬼の姿に返る力はもはやない。極限まで残るのは本質だけ、青の墨影として藍は走る。みずからに誓いながら。

「同じ者の亡骸、二度は負わぬ」




 月若邸は、テン妖が咲かせた火の花で白く浮かび上がっていた。

 そのあいだを切り裂くように飛ぶのは、銀の筋をきらめかす大きなコウモリだ。翼の一撃をかわし、菊火が二階のてっぺんに飛び乗って吠える。

「これどういうこと、約束はどこいったの!」


 相手は返事のかわりに宙返りをうち、人の姿になって屋根に降りたった。ただし菊火が知る異国の青年ではなく、巨大な翼を背に生やした異形として。顔をあげると銀色の髪の奥に紫の目が光った。

 いつの間にか両手には細身の長剣を握っている。音もなく回された刃先がぴたりと菊火をとらえた。

 しょせんわかりあえない。

 暗い予感が彼女の胸を責めたてたが、それでも口を開いた。


「……虎太郎は、あんたの主を助けようとしてんだよ。そりゃあんまり器用じゃないけど、一生懸命むきあってる」

 白い獣は、橙色の眼をまたたかせ必死に訴えた。

「あの娘が自由になるのは、あんたの望みでもあるはず。そうでしょ?」

 虎太郎には好敵手なんて言ったが、こいつとは戦いたくない。祈るように答えを待っていると、シァンフェイは低く穏やかな声で告げた。


「あなたがこの身のなにを知るというのですか」


 火の花に照らされた顔は、とても優しく微笑んでいた。

 菊火の心臓が跳ねた。怯えたように息を飲む。次の瞬間シァンフェイは表情を消し、瓦を蹴って猛然と向かってきた。

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