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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 七 】
41/50

暗夜、紅に藍 4

 梨那紅の訪問を許したことで、虎太郎にも変化が起きていた。

 宗月としての記憶を見る夢に、彼女がはっきり現れるようになったのだ。


 あたたかな春の野山で出会ったカリンの木。そこに憑いた異国の少女の霊に、彼は確かに約束した。いつか必ず解き放ってやろう、と。



「その日まで穏やかであるように、かりそめの名を与えよう」

 ふり向いて見上げれば、枝葉の緑と薄紅の花が揺れる。

 彼は木漏れ日をすくい取るように筆をかかげた。かたわらに立つ少女に心を添わせ、今できるかぎりのふさわしい名を求める。

 ゆるやかに書きあげた字が少女に届く。

「梨那紅。あなたが下さった、わたしの名……」

 胸の前で両手を組んだ彼女は、輝く瞳で宗月を見上げた。唇がほころび、頬が優しい曲線を描いた。


「わたしは、わたしでいられる。けして忘れません…… また会える時まで」

 そう言った表情に影がさす。宗月は、顔を伏せた梨那紅へ優しく尋ねる。

「ああ、私はこの地を離れねばならない。戻りを待てるか?」

「梨那紅となったわたしには、景色も違って映ることでしょう。ささやかな物ごとをなぐさめに時を送ります」

 絞りだすような言葉がいじらしく、彼は自然とこう口にしていた。

「あと少し、ここに通おう。その花のひとつが散るまで」

 少女ははじかれたように顔をあげた。

 宗月が「おや、私とする話は尽きたのか?」とふざけて微笑みかける。梨那紅は、答えるかわりに袖の片方で恥じらいを隠した。



 それから数日のあいだ、彼はふもとから彼女を訪ねて山道を登った。

 梨那紅は宗月自身のことを聞きたがり、彼はそれに答えた。

「都に生まれ暮らした。物狂いの家系といわれてな」

と、草笛をくわえ何気なく語る。二親ふたおやは望まず引き寄せてしまう怪異に負け、狂気に走ったのち命を失っていた。


 梨那紅は痛みを感じたように眉をひそめる。

「苦しんだのですね。お二人も、あなたも」

「さいわい、私には書があった。修行の旅で道をひらけたらよいのだが……」

と、彼は難しい表情でピイッと草を吹く。子供っぽく明るい音に梨那紅は微笑んだ。

「宗月さまなら、きっとできましょう」


 別れの時は迫る。彼女はそれに気づかないふりをして空を見上げた。

「まあ、今日の雲はよく急ぐこと!」

「あんなに流れて、どこへ行くのだろうな」

「きっとわたしたちと同じように、たくさんの誰かが見送るのでしょうね」

 彼女に一条の陽がさし、不思議にゆらめく姿を幽玄にみせた。宗月は、その情景に目を奪われながら、


 どきどきしている。




「……おい宗月!」

 虎太郎は声に出しながら跳ね起き、呆然とした。

 記憶の宗月は若く、まだ道士とも呼べない青年だったようだ。それにしたって亡霊に恋をするとはなんて節操のないやつだろう。

 虎太郎は頭をかかえる。そして魂として考えてみれば、梨那紅は自分の恋の相手でもあり、いま彼らは千年越しに再会をはたしたのだった。



 そのまま目が冴えてしまい、虎太郎は疲れた思いで朝を迎えた。

 廊下には朝の光が満ちていたが、夏を過ぎて色はうすく、どこか寂しげに見える。

「なあ藍、宗月は自分の家族をもったんだよな」

 座敷に入りながら尋ねると、藍は「ああ」と白黒の駒を顎にあてた。ぱちぱちまばたきすると、整った顔立ちがやけに人間くさくなる。

「もう旅の終わりに近かったが、ある里に家をかまえて拠点とした。宗月がいなくなってから、私は一族を数代にわたり守護していたよ」


 あのどきどきはどうしたんだよ宗月、と虎太郎は考える。梨那紅を忘れてしまったのか、それとも旅のはじめの青くさい気まぐれだったのか。

 一度別れた後、ふたりはどうなったんだろう。

「虎、なにを浮かない顔をしている?」

 藍が不思議そうにうかがってきて、慌てた虎太郎は「梨那紅の夢を見た」と簡単に話した。

「あれは駆けだしの宗月がつけた仮の名前なんだ。俺が本当の名前を見つければ、きっと救ってやれる……」


「となると、裏があるのではないか」


 藍がつまんだ駒をひっくり返してみせたので、虎太郎は言葉を詰まらせた。妖の伏せたまぶたが優美な曲線を描く。

「先にお前が尋ねたな、古い約束があるなら教えよと。だが亡花の霊は答えなかった。新たに名をもらうという望みを隠していたことになる」

 虎太郎は、少しの反感を覚えて「千年たってるんだ、忘れてるのかもしれない」と返した。

「では、ただ話をしたいだけでお前を探しあてたというのか? まだ警戒は解けぬな」

 ぱちりと音を立てて駒を置き、顔をあげた。穏やかな表情に虎太郎は安心する。


「さて、気合をいれていただこうか虎猫道士。謎も書術も、結局はお前に頼るしかないのだから」

「はいはい、がんばります」

 はっきり宣告された彼は苦笑いで答えた。空気がゆるんだついでに机をのぞき込むと、平たい駒が円を描き、白黒の凝った模様になっている。

 これなんだ、と尋ねる気配を察して藍がつぶやいた。

「ふふ、曼荼羅まんだら……」

 端整な顔をニヤつかせて机上に見入っている。

 そういえば、こいつにもなかなか危ないところがあるんだった。虎太郎はぎこちない笑顔で妖を見守った。




「虎太郎さま?」

「えっ、ああ」

 梨那紅の声がかかり、彼は慌てて竜笛をかまえた。秋の祭りで笛を吹くのだと話したら、どうしても聴きたいとせがまれたのだ。

 しかしどうもやりづらい。今を生きる虎太郎から見ても梨那紅は可憐だったし、あの夢のことがある。まぢかに顔を合わせるとさすがに胸が鳴った。

 待てよ、俺には沖野さんが……

 いるのか? いると言っていいのか? あれからなんの進展もないのに?


 彼は葛藤をおさえて暗い庭を見渡した。先ほどまでの小雨で夜空は曇り、草木は濡れている。

 すっと息を吸って一節を奏ではじめた虎太郎は、かたわらに両手を組んでいる少女の存在を感じていた。

 激情に流されないでいる彼女は、ただ小さく弱い。なにかを語る時の口調は明るかったが、生きた人間とは少し違っていると彼は気づいた。長い孤独が心の色を抜きとり、喜びまで透明にしているようだった。

 その虚ろな輝き。両親を失ってから自分を隠していた数年間、虎太郎もたびたび同じような虚無を感じたように思う。

 あれは死者の感情だったのかもしれない。



 彼が笛を下ろすと、梨那紅は無邪気にはしゃいだ。

「素敵、とっても。昔を思い出せたなら、きっとわたしも舞いましょう。そうしたらまた吹いて下さいね」

 虎太郎は彼女を見つめる。同じ地には立てない存在なのに、誰よりも近い気がした。

 顔を合わせ、そっと尋ねる。

「名前が欲しくないのか。完全な名前が」

「多くは望みません。わたしはこれからも今のままに」

 まっすぐに見つめかえされ、彼は時を見失う。ここはあの夢の野原じゃないか? 訪れたのは山をのぼってきた俺の方で、彼女はそれを待っている……


 待っているはずだった。



「梨那紅、どこだ!」

 宗月の叫び。悲しみが心をかすめて深い後悔を残す。

 彼は時を空けて戻ったのだ、しかし梨那紅は消えていた。朽ち折れた木の残骸だけが彼を迎え、そして雷鳴が。

 雷。

 一瞬の夢が離れた時間をつないだ。

 タイヤの音、悲鳴、衝撃。あの夜の事故は、父がハンドル操作を誤ったのだろうということになっていた。

 真冬にはありえないほどの強烈な雷に驚いて。



 虎太郎は鋭く息を飲む。目の前の少女には冷たい怯えの色がはっきり表れていた。

「梨那紅、君は……」

 なにを知ってるんだ。

 名を呼ばれ見開かれた目に涙が満ちる。袖に隠した唇から、細い声が震えた。


「虎太郎さま。ごめんなさい」

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