暗夜、紅に藍 4
梨那紅の訪問を許したことで、虎太郎にも変化が起きていた。
宗月としての記憶を見る夢に、彼女がはっきり現れるようになったのだ。
あたたかな春の野山で出会ったカリンの木。そこに憑いた異国の少女の霊に、彼は確かに約束した。いつか必ず解き放ってやろう、と。
「その日まで穏やかであるように、かりそめの名を与えよう」
ふり向いて見上げれば、枝葉の緑と薄紅の花が揺れる。
彼は木漏れ日をすくい取るように筆をかかげた。かたわらに立つ少女に心を添わせ、今できるかぎりのふさわしい名を求める。
ゆるやかに書きあげた字が少女に届く。
「梨那紅。あなたが下さった、わたしの名……」
胸の前で両手を組んだ彼女は、輝く瞳で宗月を見上げた。唇がほころび、頬が優しい曲線を描いた。
「わたしは、わたしでいられる。けして忘れません…… また会える時まで」
そう言った表情に影がさす。宗月は、顔を伏せた梨那紅へ優しく尋ねる。
「ああ、私はこの地を離れねばならない。戻りを待てるか?」
「梨那紅となったわたしには、景色も違って映ることでしょう。ささやかな物ごとをなぐさめに時を送ります」
絞りだすような言葉がいじらしく、彼は自然とこう口にしていた。
「あと少し、ここに通おう。その花のひとつが散るまで」
少女ははじかれたように顔をあげた。
宗月が「おや、私とする話は尽きたのか?」とふざけて微笑みかける。梨那紅は、答えるかわりに袖の片方で恥じらいを隠した。
それから数日のあいだ、彼はふもとから彼女を訪ねて山道を登った。
梨那紅は宗月自身のことを聞きたがり、彼はそれに答えた。
「都に生まれ暮らした。物狂いの家系といわれてな」
と、草笛をくわえ何気なく語る。二親は望まず引き寄せてしまう怪異に負け、狂気に走ったのち命を失っていた。
梨那紅は痛みを感じたように眉をひそめる。
「苦しんだのですね。お二人も、あなたも」
「さいわい、私には書があった。修行の旅で道をひらけたらよいのだが……」
と、彼は難しい表情でピイッと草を吹く。子供っぽく明るい音に梨那紅は微笑んだ。
「宗月さまなら、きっとできましょう」
別れの時は迫る。彼女はそれに気づかないふりをして空を見上げた。
「まあ、今日の雲はよく急ぐこと!」
「あんなに流れて、どこへ行くのだろうな」
「きっとわたしたちと同じように、たくさんの誰かが見送るのでしょうね」
彼女に一条の陽がさし、不思議にゆらめく姿を幽玄にみせた。宗月は、その情景に目を奪われながら、
どきどきしている。
「……おい宗月!」
虎太郎は声に出しながら跳ね起き、呆然とした。
記憶の宗月は若く、まだ道士とも呼べない青年だったようだ。それにしたって亡霊に恋をするとはなんて節操のないやつだろう。
虎太郎は頭をかかえる。そして魂として考えてみれば、梨那紅は自分の恋の相手でもあり、いま彼らは千年越しに再会をはたしたのだった。
そのまま目が冴えてしまい、虎太郎は疲れた思いで朝を迎えた。
廊下には朝の光が満ちていたが、夏を過ぎて色はうすく、どこか寂しげに見える。
「なあ藍、宗月は自分の家族をもったんだよな」
座敷に入りながら尋ねると、藍は「ああ」と白黒の駒を顎にあてた。ぱちぱちまばたきすると、整った顔立ちがやけに人間くさくなる。
「もう旅の終わりに近かったが、ある里に家をかまえて拠点とした。宗月がいなくなってから、私は一族を数代にわたり守護していたよ」
あのどきどきはどうしたんだよ宗月、と虎太郎は考える。梨那紅を忘れてしまったのか、それとも旅のはじめの青くさい気まぐれだったのか。
一度別れた後、ふたりはどうなったんだろう。
「虎、なにを浮かない顔をしている?」
藍が不思議そうにうかがってきて、慌てた虎太郎は「梨那紅の夢を見た」と簡単に話した。
「あれは駆けだしの宗月がつけた仮の名前なんだ。俺が本当の名前を見つければ、きっと救ってやれる……」
「となると、裏があるのではないか」
藍がつまんだ駒をひっくり返してみせたので、虎太郎は言葉を詰まらせた。妖の伏せたまぶたが優美な曲線を描く。
「先にお前が尋ねたな、古い約束があるなら教えよと。だが亡花の霊は答えなかった。新たに名をもらうという望みを隠していたことになる」
虎太郎は、少しの反感を覚えて「千年たってるんだ、忘れてるのかもしれない」と返した。
「では、ただ話をしたいだけでお前を探しあてたというのか? まだ警戒は解けぬな」
ぱちりと音を立てて駒を置き、顔をあげた。穏やかな表情に虎太郎は安心する。
「さて、気合をいれていただこうか虎猫道士。謎も書術も、結局はお前に頼るしかないのだから」
「はいはい、がんばります」
はっきり宣告された彼は苦笑いで答えた。空気がゆるんだついでに机をのぞき込むと、平たい駒が円を描き、白黒の凝った模様になっている。
これなんだ、と尋ねる気配を察して藍がつぶやいた。
「ふふ、曼荼羅……」
端整な顔をニヤつかせて机上に見入っている。
そういえば、こいつにもなかなか危ないところがあるんだった。虎太郎はぎこちない笑顔で妖を見守った。
「虎太郎さま?」
「えっ、ああ」
梨那紅の声がかかり、彼は慌てて竜笛をかまえた。秋の祭りで笛を吹くのだと話したら、どうしても聴きたいとせがまれたのだ。
しかしどうもやりづらい。今を生きる虎太郎から見ても梨那紅は可憐だったし、あの夢のことがある。まぢかに顔を合わせるとさすがに胸が鳴った。
待てよ、俺には沖野さんが……
いるのか? いると言っていいのか? あれからなんの進展もないのに?
彼は葛藤をおさえて暗い庭を見渡した。先ほどまでの小雨で夜空は曇り、草木は濡れている。
すっと息を吸って一節を奏ではじめた虎太郎は、かたわらに両手を組んでいる少女の存在を感じていた。
激情に流されないでいる彼女は、ただ小さく弱い。なにかを語る時の口調は明るかったが、生きた人間とは少し違っていると彼は気づいた。長い孤独が心の色を抜きとり、喜びまで透明にしているようだった。
その虚ろな輝き。両親を失ってから自分を隠していた数年間、虎太郎もたびたび同じような虚無を感じたように思う。
あれは死者の感情だったのかもしれない。
彼が笛を下ろすと、梨那紅は無邪気にはしゃいだ。
「素敵、とっても。昔を思い出せたなら、きっとわたしも舞いましょう。そうしたらまた吹いて下さいね」
虎太郎は彼女を見つめる。同じ地には立てない存在なのに、誰よりも近い気がした。
顔を合わせ、そっと尋ねる。
「名前が欲しくないのか。完全な名前が」
「多くは望みません。わたしはこれからも今のままに」
まっすぐに見つめかえされ、彼は時を見失う。ここはあの夢の野原じゃないか? 訪れたのは山をのぼってきた俺の方で、彼女はそれを待っている……
待っているはずだった。
「梨那紅、どこだ!」
宗月の叫び。悲しみが心をかすめて深い後悔を残す。
彼は時を空けて戻ったのだ、しかし梨那紅は消えていた。朽ち折れた木の残骸だけが彼を迎え、そして雷鳴が。
雷。
一瞬の夢が離れた時間をつないだ。
タイヤの音、悲鳴、衝撃。あの夜の事故は、父がハンドル操作を誤ったのだろうということになっていた。
真冬にはありえないほどの強烈な雷に驚いて。
虎太郎は鋭く息を飲む。目の前の少女には冷たい怯えの色がはっきり表れていた。
「梨那紅、君は……」
なにを知ってるんだ。
名を呼ばれ見開かれた目に涙が満ちる。袖に隠した唇から、細い声が震えた。
「虎太郎さま。ごめんなさい」




