月の屋敷に藍の澄むこと 4
「な、名前!? そんな急に……」
虎太郎は筆を宙に置いたが、手はとまった。
縁側まで寄ってきた黒いかたまりがぬっと伸びあがる。正面についた目玉は、激しい憎悪に歪んで座敷に立つ敵をにらみ抜いていた。
「やむを得ん。境目を……!」
鋭く告げて霊の声が離れていく。ざあっと空気を鳴らし、墨の影が虎太郎の前に薄い膜を張った。彼とこの家を守るように。
虎太郎は混乱の中で与えられた言葉をつかんだ。
さかいめ。境、境界。
場を隔てるための、一番純粋なかたちは?
「……せ、線っ!」
虎太郎は全部の力を右手に集め、折れそうなほど握った筆で空に一の字を書いた。描いた、という方が近いくらいの勢いまかせで。
するとひらめいた筆跡は青い影になり、宙に残った。
「あとは私が添える」
ひそやかな声がすると同時に一の影から霧が染み出す。虎太郎が目を見開くと、雨のような矢となって対象へ一直線に降りそそいだ。
「ぅぐ、があぁっ……!」
にごった叫びとともに肉塊が身をよじるが、その姿は霧雨にさいなまれ徐々に薄れていく。やがて霧が晴れた時、びしゃっ、という最後の音を残して完全に散った。
裏庭から悪意と動きが消える。もう笹の葉がかさかさと揺れるだけだ。
虎太郎が立ち尽くしていると、隣に怨霊が姿をとって現れた。自然と言葉が口をつく。
「名前。俺、何も……」
思いつけなかった。
呆然とする彼に、霊は「気に病むことはない。救うには遠すぎた」と静かに返した。少し強い風が吹き、松の枝が鳴る。
「お前の名は“とら”で仕舞いか?」
まさか、と虎太郎は首をふろうとしたが、まだ身体は固まっていた。
「月若、虎太郎」
なんとか唇を動かし、「……お前は?」とつけ足す。怨霊は彼を見ず、静まった庭に目をそそいで答えた。
「わが名は藍。青の青きに澄みしもの」
それを聞くと、ぷっつり緊張が切れた。
畳にへたり込んだ虎太郎の頭に、ぽん、と細い手が置かれた。顔をあげれば藍の霊が穏やかに見下ろしている。目が合うとにっこり笑い、
「よくできました」
と満足たっぷりに告げた。
「あ、ああ。どうも」
月若の末裔が間抜けな返事をすると、縁側に進み出た藍は松の葉の先に空をうかがった。
「白の三日月、まあ悪くない。もう少し開けておきますか、虎や」
霊が手をかけた雨戸がすっと動くのを見て、虎太郎はまばたきをくり返した。
「それ、触れるのか。すり抜けたりしないで……」
呆れた流し目が彼をとらえる。
「当然至極。この私を何だと思っているのだ?」
「怨霊」
正直に答えすぎた。
藍は、整った顔に怒ったような傷ついたような複雑な色を浮かべたかと思うと、
「あやかし!」
と膨れた一言を残し、現れた時と同じ影のゆらめきに消えてしまった。
……拗ねた?
虎太郎は呆然として静まり返る座敷を眺めた。
不穏な気配は完全に消え、夏の初めの夜だけがそこにあり、彼はそのはじっこに座っている。どこかで往生際の悪い蝉が鳴き出した。
次第に落ちつきが戻る。座敷の主の機嫌を損ねてしまったようだが、妖怪だろうが霊だろうが、今のところたたる気はなさそうだ。
「終わった、のか」
彼は筆の消えた右手に目をやり、ようやく息をついた。
そもそもの用事である庭の手入れと翌日にひかえた試験を思い出すには、まだしばらく時間がかかった。