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青の座敷の墨つき妖怪  作者: 小津 岬
【 七 】
38/50

暗夜、紅に藍 1

「あのさあ。この家にはホットケーキってないの?」


 居間で笛を吹いていた虎太郎がふり返ると、黄色いワンピースの女の子が立っている。彼は回答そっちのけで眉をあげた。

「なんだよ菊火、人間の格好はめんどくさいんじゃなかったのか」

「いいでしょどっちでも。それよりどうなのさホットケーキ」

 どこで覚えてきたんだよ、とぼやきながらも虎太郎は台所にむかい、戸棚を探りだした。

「ミックス粉なあ。祖父さんは買ってないだろうな」

「ミックス…… とろぴかるみっくすぷるめりあすぺしゃる……」

 うっとりしてつぶやいた菊火へ、「やっぱりない、月若家にホットケーキの気配なしだ」と無情な声がかかった。


「あ、そっ」

 素っ気なく身を返す彼女を虎太郎が呼びとめる。

「おい待て、あとで作ってやるよ。買出し行くから」

「ええっウソ!」

「嘘ってなんだ、食べてみたいんだろ?」

 笑いながら尋ねられ、菊火は後ろめたさに口をぴったり閉じる。

 食べてみたいのではなく、もう一度食べたい。



 あの魅惑の菓子と出会ったのは、ついこのあいだ。春瑠にお守りを届けにいき、その流れで馳走になったのだ。

 キツネ色をしてふかふかで、不思議な香りの蜜はどこまでも甘く香ばしく…… ひとくち食べた彼女は愕然とした。

「なにこれ」

「ホットケーキだよ菊火ちゃん」

「なにこれ、なにこれなにこれっ!」

 夢中でたいらげた菊火だが、支払いの段になってハッと青ざめた。カウンターで財布を取り出していた春瑠に飛びつく。

「だめ、あんたに払わせちゃいけない。虎太郎にも男のメンツってもんが……」

「いいの、お礼だから。虎太郎くんには秘密ね」

 彼女は楽しげに笑い、菊火の頭をやわらかな手で押さえた。

 人姿のテン妖怪は、感謝半分、のこりは呆れた。あたしをよく知りもしないでなんてお人よしだろう、戦国の世じゃとてもやっていけない。


 それはともかく、やっぱり虎太郎には言えなかった。

「えーっと卵ある、牛乳がない。あっ、藍のやつまたキュウリ食ったな……」

 菊火は、あわただしく冷蔵庫を確かめる虎太郎の背中にむかって「借りができた」とつぶやいた。ふり返った彼が笑う。

「いいよ、俺も懐かしいんだ。母さんがよく作ってくれた」

 おっかさんいい趣味、と菊火は心で褒める。すると仕度をしていた虎太郎が「あっ待て、借りって言うなら……」と顔を向けた。

「テンに戻るところ見せてくれよ。変化へんげする瞬間、気になるんだよな」

「虎太郎のスケベ人間……」

「変化ってそういう扱いなのか」

 驚く虎太郎を送り出した彼女は、ちょっと跳ねながら台所に戻っていった。




 仏のなんとやらができた、と呼ぶ声がして、藍は文机の正面から身体をずらした。

 今日は書道具のかわりに一冊の本を広げている。立ちあがる前にもう一度視線をそそいだ。

 丸みがあり青々とした葉と、五弁の赤い花。色あせた写真でも香りたつような、すっきりした美しい木。


 【カリン: Pseudocydonia sinensis

       花梨、唐梨、木瓜もっか

       バラ科の落葉高木、高さ約八メートル。中国の原産で漢方にも用いる……】


 この古めかしい庭木図鑑は、今朝、虎太郎が祖父の書棚から引っぱりだしたものだ。

「どうした虎や、やけに早いな」

 なにごとかと姿を現すと、彼は重たい図鑑を差し出した。

「藍、こんな木に見覚えないか? 夢に見たんだ」

 勢いよく本を渡され、藍はよろけながら首を横にふる。少しがっかりした虎太郎だったが、「なにか思い出したら教えてくれ」と本をあずけてきた。



 午前をついやして領域にもぐってみたが、旅の中でカリンの木をどうこしたふしはない。

 ただひとつ浮かんだのは、宗月の最期についた頬の傷だった。すり傷ともアザともいえない赤い印は、写真にある花とよく似ている。

 偶然ではない、と藍は感じた。

 あの平安の代、私の知らないところで宗月となにかがつながっていたのだ。


 そして相手には怨みを、宗月には未練を残した。今に持ち越されたその因縁が、虎太郎を狙っているというのか。千年という膨大な時を越えて?

 不安を濃くした時、その虎太郎がひょいと座敷をのぞき込んできた。

「藍、早くしないと菊火にぜんぶ食われ……」

 気配が迫ったのはその時だった。

 言葉を切った虎太郎が庭へ向く。藍もすばやく墨影に解けた。

 ふたりの目の前で鋭い軌道が薄日を裂く。鳥ではない獣の翼をみとめ、虎太郎が「あいつだ!」と声をあげた。

「落ちつけ、屋敷は守護のうちにある」

と、藍の影が前に出る。

 しかし大きなコウモリは座敷に目もくれず、縁側のふちになにかを置くと、サッとひるがえって景色から消えた。




「ちょっと、どうしたのさ!」

「旦那、兄貴っ」

 血相を変えてやってきた菊火と竹蔵に、藍が薄い包みを示してみせる。

「あのコウモリが、ふみを。危険はない」

「なにそれ、宛名は?」

と菊火が走り寄り、藍は封の表書きをにらんだ。


「どれ、“御所 月若屋敷、うるわしの白テンさま”」

「ひゃっ」

「……とは書いてない。月若虎太郎さま、御許に」

 とり澄ました顔で虎太郎に手紙を渡す。受けとった彼は、ぶすっとふくれた菊火をのぞき込んだ。

「ほしかったのか、コウモリの手紙」

「はん、バカ言ってないでさっさと開けな!」

 小さな手がぺしりと虎太郎をぶって、彼らはあわただしく文机を囲んだ。



 真ん中に座った虎太郎が、折りたたまれていた紙を広げていく。和紙に似て手ざわりがよく、き入れられた絹糸のような繊維は薄紅色だ。ぱたぱたと開かれた文は机の幅をゆうに越え、畳までも届いた。

 それから四名は仲よく押し黙った。

 一面ぎっしり筆書きの漢字が、見たことのない漢字らしきものが並んでいる。最初に震え声をあげたのは虎太郎だった。

「なんだこれ、達筆すぎる…… 藍!」

と、となりの妖怪に助けを求める。


 しかし相手は「読めぬ」とすっぱり切り捨てた。


「読めないってなんだ、これ漢字だろ?」

「大陸の古い言語だ。詩であることしかわからぬ」

 藍は不機嫌そうに返した。女の子の手がその袖を引っぱる。

「あんた、書術道士と平安をうろちょろしてたんでしょ。こういうの学ばなかったの、都とか寺とかで?」

「宗月のぎょうは権威の対極にあったし、教養をつけるための旅ではなかった。そうであろう?」

と、少しの必死さをのぞかせて虎太郎に助けを求める。しかし菊火は納得しない。

「あーあ、虎太郎にばっか思い出させちゃって偉そうに。やっぱりあんたぽんこつ鬼」

「なんと」


 慌てた竹蔵が「まあまあまあ、ここはどうかおだやかに!」と透けた手をひらめかせ、虎太郎に気弱な顔をむけた。

「しかし、相手方の直談判ときちゃほうっとけないですね。大旦那さまの御本を探ってみてはどうでしょう」

「待て、翻訳アプリでなんとか…… だめだ検出不可能」

 すると、騒がしい座敷によく通る低い声が響いた。


「“積年の珠蕾しゅらいも紅にほころび、秋の緒、月下虎口(こぐち)に立つ”……」



 全員が庭先へふり返る。

 曇り空を背負った軒下に、翼をたたんだ使者が天地逆さまでぶらさがっていた。

 虎太郎は息を飲む。

 バイト先で一杯食わされた時、相手は人間に化けていたので、獣の姿を見るのは初めてだった。大きなコウモリの毛並みには銀色の筋が走り、こちらを見据える眼は鮮やかな紫をしている。

 菊火も、これが本来の姿か、と内心で目を見張った。大蜘蛛を思い出した竹蔵は顔をこわばらせていっそう薄くなる。

 藍はまばたきひとつせず、しかし最大限に気を張っていた。


 視線を一身に集めたコウモリは落ちつきはらって先をつづける。

「これまでの非礼を詫びたく訪ねてまいるので、おひとりで迎えてほしい。そのような意味です」

「訪ねるって、ここに?」

 虎太郎が思わず身を乗り出す。その肩を押さえ、藍が冷水のような口調で使者へ尋ねた。

「目的は詫びだけか。つづきがあるのではないか」

「真の望みはあるじのみが知ります。私は使いにすぎません」

 彼らが静かににらみあった時、文を見なおした虎太郎が声をあげた。

「……紅、赤い花。そうか、お前の主っていうのはカリンの木だな?」

 すっと立ちあがり、縁側に歩み寄る。


「わかった、会おう。ただし、誰にも危害を加えないって約束してくれ。屋敷の中だけじゃない、この世の誰にも。これが返事だ」


 彼と目をあわせたコウモリは、翼に顔をうずめて器用にうなずいた。一瞬ののちに大きな翼を広げ、音もなく飛び去っていった。

「大丈夫なの、虎太郎」

 菊火が空を見上げたままつぶやくと、彼は「……多分な」と首をかしげる。それから座敷をふり返り、表情を消して口をつぐむ妖怪をうかがった。

「早い方がいい、そうだろ? 会えばなにかがわかる、きっといい方向に進めるから」

 そこには、少し言い訳のような響きが込められていた。

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