暗夜、紅に藍 1
「あのさあ。この家にはホットケーキってないの?」
居間で笛を吹いていた虎太郎がふり返ると、黄色いワンピースの女の子が立っている。彼は回答そっちのけで眉をあげた。
「なんだよ菊火、人間の格好はめんどくさいんじゃなかったのか」
「いいでしょどっちでも。それよりどうなのさホットケーキ」
どこで覚えてきたんだよ、とぼやきながらも虎太郎は台所にむかい、戸棚を探りだした。
「ミックス粉なあ。祖父さんは買ってないだろうな」
「ミックス…… とろぴかるみっくすぷるめりあすぺしゃる……」
うっとりしてつぶやいた菊火へ、「やっぱりない、月若家にホットケーキの気配なしだ」と無情な声がかかった。
「あ、そっ」
素っ気なく身を返す彼女を虎太郎が呼びとめる。
「おい待て、あとで作ってやるよ。買出し行くから」
「ええっウソ!」
「嘘ってなんだ、食べてみたいんだろ?」
笑いながら尋ねられ、菊火は後ろめたさに口をぴったり閉じる。
食べてみたいのではなく、もう一度食べたい。
あの魅惑の菓子と出会ったのは、ついこのあいだ。春瑠にお守りを届けにいき、その流れで馳走になったのだ。
キツネ色をしてふかふかで、不思議な香りの蜜はどこまでも甘く香ばしく…… ひとくち食べた彼女は愕然とした。
「なにこれ」
「ホットケーキだよ菊火ちゃん」
「なにこれ、なにこれなにこれっ!」
夢中でたいらげた菊火だが、支払いの段になってハッと青ざめた。カウンターで財布を取り出していた春瑠に飛びつく。
「だめ、あんたに払わせちゃいけない。虎太郎にも男のメンツってもんが……」
「いいの、お礼だから。虎太郎くんには秘密ね」
彼女は楽しげに笑い、菊火の頭をやわらかな手で押さえた。
人姿のテン妖怪は、感謝半分、のこりは呆れた。あたしをよく知りもしないでなんてお人よしだろう、戦国の世じゃとてもやっていけない。
それはともかく、やっぱり虎太郎には言えなかった。
「えーっと卵ある、牛乳がない。あっ、藍のやつまたキュウリ食ったな……」
菊火は、あわただしく冷蔵庫を確かめる虎太郎の背中にむかって「借りができた」とつぶやいた。ふり返った彼が笑う。
「いいよ、俺も懐かしいんだ。母さんがよく作ってくれた」
おっかさんいい趣味、と菊火は心で褒める。すると仕度をしていた虎太郎が「あっ待て、借りって言うなら……」と顔を向けた。
「テンに戻るところ見せてくれよ。変化する瞬間、気になるんだよな」
「虎太郎のスケベ人間……」
「変化ってそういう扱いなのか」
驚く虎太郎を送り出した彼女は、ちょっと跳ねながら台所に戻っていった。
仏のなんとやらができた、と呼ぶ声がして、藍は文机の正面から身体をずらした。
今日は書道具のかわりに一冊の本を広げている。立ちあがる前にもう一度視線をそそいだ。
丸みがあり青々とした葉と、五弁の赤い花。色あせた写真でも香りたつような、すっきりした美しい木。
【カリン: Pseudocydonia sinensis
花梨、唐梨、木瓜
バラ科の落葉高木、高さ約八メートル。中国の原産で漢方にも用いる……】
この古めかしい庭木図鑑は、今朝、虎太郎が祖父の書棚から引っぱりだしたものだ。
「どうした虎や、やけに早いな」
なにごとかと姿を現すと、彼は重たい図鑑を差し出した。
「藍、こんな木に見覚えないか? 夢に見たんだ」
勢いよく本を渡され、藍はよろけながら首を横にふる。少しがっかりした虎太郎だったが、「なにか思い出したら教えてくれ」と本をあずけてきた。
午前をついやして領域にもぐってみたが、旅の中でカリンの木をどうこしたふしはない。
ただひとつ浮かんだのは、宗月の最期についた頬の傷だった。すり傷ともアザともいえない赤い印は、写真にある花とよく似ている。
偶然ではない、と藍は感じた。
あの平安の代、私の知らないところで宗月となにかがつながっていたのだ。
そして相手には怨みを、宗月には未練を残した。今に持ち越されたその因縁が、虎太郎を狙っているというのか。千年という膨大な時を越えて?
不安を濃くした時、その虎太郎がひょいと座敷をのぞき込んできた。
「藍、早くしないと菊火にぜんぶ食われ……」
気配が迫ったのはその時だった。
言葉を切った虎太郎が庭へ向く。藍もすばやく墨影に解けた。
ふたりの目の前で鋭い軌道が薄日を裂く。鳥ではない獣の翼をみとめ、虎太郎が「あいつだ!」と声をあげた。
「落ちつけ、屋敷は守護のうちにある」
と、藍の影が前に出る。
しかし大きなコウモリは座敷に目もくれず、縁側のふちになにかを置くと、サッとひるがえって景色から消えた。
「ちょっと、どうしたのさ!」
「旦那、兄貴っ」
血相を変えてやってきた菊火と竹蔵に、藍が薄い包みを示してみせる。
「あのコウモリが、文を。危険はない」
「なにそれ、宛名は?」
と菊火が走り寄り、藍は封の表書きをにらんだ。
「どれ、“御所 月若屋敷、うるわしの白テンさま”」
「ひゃっ」
「……とは書いてない。月若虎太郎さま、御許に」
とり澄ました顔で虎太郎に手紙を渡す。受けとった彼は、ぶすっとふくれた菊火をのぞき込んだ。
「ほしかったのか、コウモリの手紙」
「はん、バカ言ってないでさっさと開けな!」
小さな手がぺしりと虎太郎をぶって、彼らはあわただしく文机を囲んだ。
真ん中に座った虎太郎が、折りたたまれていた紙を広げていく。和紙に似て手ざわりがよく、漉き入れられた絹糸のような繊維は薄紅色だ。ぱたぱたと開かれた文は机の幅をゆうに越え、畳までも届いた。
それから四名は仲よく押し黙った。
一面ぎっしり筆書きの漢字が、見たことのない漢字らしきものが並んでいる。最初に震え声をあげたのは虎太郎だった。
「なんだこれ、達筆すぎる…… 藍!」
と、となりの妖怪に助けを求める。
しかし相手は「読めぬ」とすっぱり切り捨てた。
「読めないってなんだ、これ漢字だろ?」
「大陸の古い言語だ。詩であることしかわからぬ」
藍は不機嫌そうに返した。女の子の手がその袖を引っぱる。
「あんた、書術道士と平安をうろちょろしてたんでしょ。こういうの学ばなかったの、都とか寺とかで?」
「宗月の行は権威の対極にあったし、教養をつけるための旅ではなかった。そうであろう?」
と、少しの必死さをのぞかせて虎太郎に助けを求める。しかし菊火は納得しない。
「あーあ、虎太郎にばっか思い出させちゃって偉そうに。やっぱりあんたぽんこつ鬼」
「なんと」
慌てた竹蔵が「まあまあまあ、ここはどうかおだやかに!」と透けた手をひらめかせ、虎太郎に気弱な顔をむけた。
「しかし、相手方の直談判ときちゃほうっとけないですね。大旦那さまの御本を探ってみてはどうでしょう」
「待て、翻訳アプリでなんとか…… だめだ検出不可能」
すると、騒がしい座敷によく通る低い声が響いた。
「“積年の珠蕾も紅にほころび、秋の緒、月下虎口に立つ”……」
全員が庭先へふり返る。
曇り空を背負った軒下に、翼をたたんだ使者が天地逆さまでぶらさがっていた。
虎太郎は息を飲む。
バイト先で一杯食わされた時、相手は人間に化けていたので、獣の姿を見るのは初めてだった。大きなコウモリの毛並みには銀色の筋が走り、こちらを見据える眼は鮮やかな紫をしている。
菊火も、これが本来の姿か、と内心で目を見張った。大蜘蛛を思い出した竹蔵は顔をこわばらせていっそう薄くなる。
藍はまばたきひとつせず、しかし最大限に気を張っていた。
視線を一身に集めたコウモリは落ちつきはらって先をつづける。
「これまでの非礼を詫びたく訪ねてまいるので、おひとりで迎えてほしい。そのような意味です」
「訪ねるって、ここに?」
虎太郎が思わず身を乗り出す。その肩を押さえ、藍が冷水のような口調で使者へ尋ねた。
「目的は詫びだけか。つづきがあるのではないか」
「真の望みは主のみが知ります。私は使いにすぎません」
彼らが静かににらみあった時、文を見なおした虎太郎が声をあげた。
「……紅、赤い花。そうか、お前の主っていうのはカリンの木だな?」
すっと立ちあがり、縁側に歩み寄る。
「わかった、会おう。ただし、誰にも危害を加えないって約束してくれ。屋敷の中だけじゃない、この世の誰にも。これが返事だ」
彼と目をあわせたコウモリは、翼に顔をうずめて器用にうなずいた。一瞬ののちに大きな翼を広げ、音もなく飛び去っていった。
「大丈夫なの、虎太郎」
菊火が空を見上げたままつぶやくと、彼は「……多分な」と首をかしげる。それから座敷をふり返り、表情を消して口をつぐむ妖怪をうかがった。
「早い方がいい、そうだろ? 会えばなにかがわかる、きっといい方向に進めるから」
そこには、少し言い訳のような響きが込められていた。




